第十三話 再会
僕は、禍々しい霊力が集まっている場所へ向かって、急いで移動していた。と、そこで、視界の端に、捕まる前に見たあの黒い存在――秋空の言うところの悪霊が見えた。
秋空は、神器さえ使わなければ、僕でも十分勝ち目はある、そう言っていた筈だ。ならば、今度は神器を召喚せず、冷静に対処しよう。そう思い、悪霊の方を向いた瞬間、
「嘘、だろ……?」
頭の中が真っ白になった。
今、目の前にいる悪霊。その生前の姿を、僕は知っている。
否。そんなはずはない。
悪霊は姿がぼやけていて、かつ周りが黒々とした靄に覆われているため、大まかな特徴なんかは掴めても、それが誰かなんて事までは流石に判別できない。
だからきっと、僕は見間違えているのだろう。あの悪霊は僕の知っている人間なんかじゃなくて、全然別の人物だ。
僕は、必死にそう思い込もうとする。だけど駄目だ。どんなに頭で理解を拒んでも、心では既に理解してしまっている。
だって、見間違えるはずがないのだ。どれほど時が経ったとしても、どんなに姿が変わったとしても、この少女を見間違える筈なんてない。
何せ彼女が死んでからのこの三年間、僕はこの少女の事を片時も忘れた事などなかったのだから。
認めたくない。こんな事は絶対に認めたくない。だけどもう認めるしかなかった。
目の前にいる悪霊は間違いなく、本物の十六夜妃香華なのだと。
「ああ、あああ、ああああ、あああああ……っ!」
あまりの出来事に、思考が追い付かない。感情を制御出来ず、いつの間にか僕はその場にへたり込み、ただ意味もなく叫んでいた。
何故。どうして。そんな言葉が、頭の中をグルグル回る。
いや、何故も何もない。秋空が言っていたではないか。輪廻の輪に還らず地上に残った魂は、浮遊霊となった挙句、穢れに憑かれて悪霊へ変貌すると。ならば、妃香華もそうなのだろう。
つまり、妃香華は苦しんで自殺した挙句、穢れに憑かれて悪霊となり、今なお苦しんでいるっていうのか。そんなの、あまりにも酷すぎる。
何故、妃香華がこんなにも酷い目に遭わないといけないのか。どうして妃香華は、こんなにも苦しまなくてはならないのか。一体それは何のせいだ? 誰のせいだ?
それは――僕のせいだ。あの廊下ですれ違ったとき、僕が妃香華に話しかけていれば、違う未来があったかもしれない。それなのに、僕は――
「ごめん……なさい」
無意識に、口から言葉が漏れる。
悪霊となってしまった以上、声など届く筈もないのに。
それでも、僕の口は勝手に動く。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
赦してほしいわけじゃないし、赦してもらう資格もない。だって、どんなに謝ったところで、妃香華が自殺し、その後悪霊となった事実は変わらないのだ。
だから、こんな謝罪はただの自己満足だ。僕の気持ちなんて届かなくても構わない。それでも、謝らなくてはならないと思った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
妃香華が襲い掛かってくる。だが、僕は迎撃する事も、避ける事も出来ず、どころか動く事さえ出来なかった。そんな当たり前の行動をする余裕すら、今の僕には無かったのだ。
いや、例え余裕があったとしても、僕はこの攻撃を避けなかっただろう。だって、僕が妃香華に攻撃されるのは当然だ。
妃香華が苦しんでいる時に、僕は何もしなかった。幼い頃、妃香華に何かあったら助けると、妃香華のヒーローになると約束したのに。僕は助けるどころか、声をかけることすらしなかったのだ。
結果、妃香華は死んでしまい、それどころか穢れに憑かれ悪霊になってしまうという、想像を絶するほどの苦痛を味わう事になってしまうなど、考えもせずに。
「ごめん、なさい、ごめん……なさ……」
妃香華の攻撃が、何度も何度も僕を貫く。痛くなどなかったし、辛くなどなかった。だって、妃香華はもっと痛かっただろうし、辛かったのだろう。ならばこの程度の痛み、僕に拒む資格はない。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――
既に治癒能力も追いつかなくなってきて、体はグチャグチャになっていた。
肺や声帯も潰れてしまったのか、声を出す事すら出来ない。それでも心の中で、必死に謝り続けた。
こんな事をしたってもう取り返しなどつかない。それでも謝り続けなければならないという衝動に、ただ突き動かされて――
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……
その時、僕はふと気づいた。もう体はほとんど機能せず、涙腺どころか目すら潰れてしまっているのにも関わらず。
何故だか僕は、涙を流していた。
涙を流す機能すら、涙を流す資格すら、僕にはもうないというのに。それでも何故か、涙が溢れて止まらないのだ。
僕は、あの日の約束を破ってしまった。結局僕は、妃香華のヒーローになる事は、出来なかった。否、しなかったんだ。だから本当に――
ごめんな、妃香華。
僕の醜い涙は、そのまま地面に落ちた。
じわりじわりと、涙が土に溶けていく。後悔が、心を溶かしていく。
だけどその時、涙で濡れた地面に、僕のものではない涙も零れ落ちた。
「え……?」
思わず、そんな声が出てしまった。そして、気づく。声が出るし、目も見える事に。
つまり治癒能力が追い付いたのだ。こんな事が起こる可能性は二つだけ。霊力が急激に回復したのか。あるいは――
見上げると、黒い闇に覆われている妃香華の目から、一筋の涙が零れ落ちていた。
その攻撃は、もう止まっている。永続的なダメージが途切れたから、治癒能力が追い付いたのだろう。だけど、そんな分析など、もうどうでもよかった。
妃香華は涙を流し、攻撃を止めた。秋空が言っていた、悪霊の専門家とやらの立場で考えれば、こんな機会に攻撃を止めるなんてありえない。つまり、これは黒霊衆ではなく妃香華自身の意志。妃香華は悪霊の力を抑え、僕を殺すまいとしてくれているのだ。
秋空は、「浮遊霊は悪霊へと変貌を遂げる」と言っていた。つまり悪霊は、もはや死者本人とは別物であるという事。
無理もない。たった一瞬穢れを取り込んだだけで、あれ程の苦しみが襲ったのだ。そんな穢れに慢性的に憑かれていたら、生前の思い出どころか、思考すらも塗り潰されてしまうだろう。
だけど。
それでも妃香華は、そんな霊界の摂理すら捻じ曲げ、こうして攻撃をやめてくれた。そこにはどれほどの意志が必要だったのだろう。
「あ、ああ……」
妃香華の口から、苦し気な声が漏れた。自身を駆り立たせる悪霊としての衝動や、それを操る奴からの指令に必死で抗いながら、何かを言おうとしている。
「ひ……ざ、し」
妃香華は呼んだ。声を出すのも辛そうなのに、それでも僕の名前を呼んでくれた。
「妃香華……」
だから、僕も呼び返して、妃香華の次の言葉を待つ。
すると妃香華は苦しそうに、それでも一心に言葉を絞り出す。
「早く……殺、して……。このま……まじゃ、わたしが灯醒、志を殺しちゃ……う。だか……ら、早く……っ」
殺してと。妃香華は僕を助けるために、そう言った。
妃香華のヒーローになる。幼い日の約束を、僕は守らなかった。本来なら、恨まれて当然なのだ。それなのに妃香華は、僕を案じてくれている。
いっそ罵ってほしかった。その苦しみを、全部僕にぶちまけてほしかった。だけど妃香華は、こんな状況ですら僕に気を遣う。
そんな妃香華の魂が、このまま悪霊として永遠に苦しみ続けるのをただ放っておいていいのか? あのときのように、見てみぬふりをしていいのか?
――否。いいわけがない。
ならば、妃香華の言う通り、ここで殺し、妃香華の魂を消滅させてしまうのか?
――それも否。断じて認めてなるものか。
僕は、悪霊となってしまった魂を元に戻す方法など知らない。
だけど、それがどうした。
何も打開策がなく、絶望的な状況でも、あきらめてはならない。それは、素戔嗚との戦いで学んだ筈じゃないか。道が無いのなら自分で切り拓くしかないのだ。
だから考えろ。妃香華の魂を救う方法を。
たしか、秋空は言っていた。悪霊とは、魂の外側を穢れが覆っているものだと。
それなら、外部の穢れを取り除いけばいい。
問題は、具体的にどうするかだ。悪霊から穢れだけを取り除く方法など……
――いや、待てよ。よく考えてみれば、方法なら、僕は既に知っている。
最初、神器で悪霊を斬りつけようとした時、僕は外側の穢れの部分をもろに吸収してしまった。結局僕はその穢れの一部分ですら耐えかね、外部に放出するのに苦労してしまったが。
つまり僕の神器なら、悪霊の穢れの部分だけを取り除く事が出来る筈だ。
しかし、それはあまりに難しい。穢れの部分に少し刀身を触れただけで、思考を塗り潰されかけたのだ。
仮に外側の穢れすべてを吸収したのなら、精神がどうなってしまうか分からない。
それに、穢れを吸い取った後、即座に神器を妃香華から離す必要がある。
穢れを取り払ったとしても、魂まで傷つけてしまっては本末転倒だからだ。この作業はかなり精密に行わなくてはならない。
絶望的に難易度は高いうえに、失敗は許されない。それでも、これにかけるしかない。
「僕は妃香華を殺す気はない。かといって、このまま放置する気もない。絶対に、その苦しみから解放してみせるよ。もう三年も待たせてしまったけど、あと少しだけ、待っていてくれ」
妃香華に対してそう返答し、僕は神器を顕現させた。
今度こそ見捨てない。
これ以上、妃香華に辛い思いはさせない。
ただそれだけを思い――
――僕は今、妃香華を蝕む闇に挑む。