or(オア)
死にたいと彼女は言った。
突如花が見たいというので、二人ででかけた時のことだった。ひまわり畑を見下ろせる小高い丘を登った矢先に、僕はそんな告白を受けたのだ。
僕は呆気に取られて、何も言えずに彼女を振り向いた。ワンピースから少しずれた細い紐が、華奢な肩に張り付いている。それから彼女の顔に視線を移すと、困ったような、疲れたような笑みを浮かべていた。太陽のような明るさが咲くこの場所にはあまり似つかわしくない、少し寂しそうな笑顔だった。
なにを思ったのか、その時僕は二つ返事で頷いてしまった。
「うん、いいよ」って。
そうしたら彼女はぱっと笑顔になった。ありがとうと照れ臭そうに返すから、僕もつられて笑顔になった。
僕は手を引いて、彼女とひまわりの中を歩いた。
帰り際。僕は車の中で彼女の首に手をかけた。
精一杯の力を、それこそ僕の全体重を彼女の首に乗せた。彼女の細い首に僕の指が食いこむ。僕の手はうっすらと桜色になる。僕の息が切れて、傾いた太陽が徐々に色を移していった。
けれども彼女は死ななかった。
彼女は、死ねなかった。
薄暗い中で、事切れなかった彼女が息を吐く。笑っていた。嘲るように笑っていた。枯れかけのひまわりと同じ、くすんだオレンジの残照の中で、彼女の影が不気味に息づいていた。
曰く、彼女は死ねないらしい。
何度死んでもダメで、全然死ねなくて、ただ苦しいだけなのだそうだ。年を取ることもなくいつまでも同じ姿で、そうして何年も生き続ける。彼女は呪文のように、僕にそう告げた。
ちなみに何年くらい生きているのか、ある時思い切って聞いてみた。
「覚えてないの」
返事はそれだけで、ぽっかり空いた穴から転がり落ちたような言葉に、僕はなんとも言えなかった。ただ呆然と頷くだけだった。
けれどそれ以来、僕は彼女の自殺を手伝うようになった。
練炭を炊いてあげたり、誕生日には太くて丈夫な紐を買ってあげたりした。包丁で刺してくれなんて頼み込むこともあったけど、それは一回やって後片付けや掃除が大変になったし、床の生臭さは取れないシミになってしまったのでそれっきりだ。
谷底に突き落とした時は流石に帰ってこないだろうと思った。落ちていく背中を見て、少し寂しい気持ちになった。だけど二、三日してある時ひょっこりと現れて「またダメだった」なんて笑うから、そのうち僕も調子に乗り始めた。
彼女は水に沈んだ。彼女は天井からぶら下がった。彼女は飛び降りた。彼女は醤油を飲み干した。彼女はバラバラになった。彼女は焼けた。彼女は何日も何も食べなかった。彼女は冷凍庫の中で眠った。
……でも、彼女は死ねない。
ずっと、なにをやっても。
そろそろ僕も疲れてきた。
だからある時、どうしてそんなに死にたがるのかを聞いた。僕だって罪悪感が全くなかったわけじゃない。何回か、殺すことを躊躇ったこともあった。
でもそうすると、彼女は辛そうな、切なそうな目で僕を見る。睨むわけじゃない。早くしろと催促しているわけでもない。ただ光を反射させる装置みたいな、僅かな切れ込みの間に収まった目に僕を映すだけだった。そうして我に返った僕は、ようやく彼女に留めを刺す。
それでも彼女は死なない。その繰り返し。
だから僕は尋ねた。
けれど彼女は黙ったまま。
薄い光を浴びて、俯く彼女に僕の視線が刺さる。沈黙に身を沈めた彼女のまつ毛が、僅かに震えていた。
結局、彼女は何も答えなかった。
ただ時ばかりが徒に過ぎていった。
そのうちに、僕が死ぬ番になった。気が付けばそれほどの長い時間が経っていた。
ごめん、と僕が告げる。
「いいよ」
それだけ。彼女はまた切なそうに笑った。
彼女はいつまでも変わらない。多分僕が死んだ後も同じままなんだろう。僕は残される彼女の気持ちを考えた。そうしてようやく、彼女が僕に殺されたい理由が分かった。
「僕なら、きみを殺せると思った?」
「うん」
「自分の力じゃだめだから?」
「……うん」
自分以外の誰かなら私を葬ってくれると思った。彼女は静かにそう言った。いつもいつも相手を見送るのはつらい。私はあなたに見送ってほしい。そしていつまでも忘れないでほしい。
吐き出された言葉は優しかったけれど、なんともいいようのない苦しさがまとわりついた。でも時は、僕が逆らうことを許さない。
光が消えていく。音が掠れる。なにも……見えなくなっていく。
最期に彼女に言葉を残そうと、僕は唇を開く。
「僕もきみを忘れない。だから僕のこともわすれないで。また、会いに行くから」
精一杯、微笑んでみせる。温かいなにかが頬に降り注いで、誰かが僕の手をぎゅうっと握った。
その瞬間、だから彼女はまた僕に殺して欲しいと願うのだと気付いた。
巡りめぐってもう一回。その繰り返し。
何百回。何千回。数え切れない生と死の中で、彼女だけが取り残される。
だから彼女は、僕と一緒に生まれ変わりたいと願っていることに気付いた。
それから僕は彼女を抱き締めようとしたけれども、出来なかった。
僕は冷たくなって、空にのぼり、光になった。
やがて僕はまた地に降り注ぐ。記憶だけを空っぽにして、彼女の隣に落ちていく。
そうして、視界が開けた。