(1)
狭い通路を抜けると、景色が一転し、ひらけた場所に出た。
50メートル四方はあるだろうか。跳躍スキルを使っても届くかどうか分からないほど天井は高い。壁には幾つかの松明が掲げられ、薄暗く湿った岩を照らし出している。
他に道は無い。ゲームシステムによってテクスチャが全面に張られているので詳細な場所までは分からないが……ようやく辿り着いたのだ。
最深部に。
「鈴夜さんはあの方が仰っていたお話、信じます?」
隣の女の子が明るい口調で尋ねてきた。俺は上を見上げたまま、視線だけで彼女を見る。
すれ違えば10人中10人が振り返るであろう、日本人離れした整った顔立ち。陶磁器のような真っ白な肌とは対照的に、長く伸びた髪は黒水晶のように輝いている。
「信じる」
「あら、意外です。あんなに否定してらっしゃったのに」
彼女は肩にかかった黒髪を片手で流しつつ、ニコリと笑顔を浮かべた。
「そりゃ「これは魂を図る実験だ」なんていきなり言われてもなぁ」
俺はデータウィンドウを呼び出し、赤枠のカードを一枚取り出した。
レッドカードと呼ばれる最もレアリティの高いカード。プレイヤーの成れの果てであるだけに、赤い色は否応なしに血の色を連想させる。
まあプレイヤーが実際にカードになる所も見ている訳だし、これが魂の一部であるのならパラメータに違いが生まれる理由も一応納得がいく。
「てかあいつのと話、聞いてたんだな」
「ええ。勿論です。だってわたしは鈴夜さんの『すと~か~』らしいですから」
「……えっと、その、もしかしなくても、根に持ってたりします?」
「いいえ、まったく。何のことでしょう」
穏やかな笑みを称えたまま、彼女は人差し指を口に当てた。
どうやら当たりらしい。俺は軽く肩を竦め、何度目かになる「すみません、あれはほんの冗談でした」という謝罪を口にする。
とまあ、ここまで俺も彼女も「昼何食べる?」くらいの軽い口調で話しているのだが、玉座に佇む異形の怪物を前にして緊張が無いはずもない。
巨大な両翼に四本の腕を持つ異形の魔王。電子が創りだした紛い物であっても、この世界においては間違いなく本物でありそして最強である。何せ彼は最強の神器を3つ備え、更に数多のレッドカードを所持した、この世界で最強の1人になった男なのだから。
握りしめていた拳に自然と力が入る。じわりと嫌な汗が手のひらに生まれたのが分った。
「……鈴夜さん」
「おう。なんだ」
「あ、い、いえ。その、あのですね」
彼女は少し迷っていたようだが、やがて薄緑のワンピースを基調にしたカーディガンの裾を少し持ち上げた。
「わたくし、おっぱいが凝りました。少々揉んでくださいませんか」
「…………………………ひょい?」
たっぷり5秒沈黙した後、間の抜けた声を出した。ついでに噛んだ。
「今、何て?」
「…………おっぱいが凝ったと言いました。揉んでほしいと言いました」
天を仰ぐ。仰がざるを得ない。
いきなり何を言い出すのだ、このド天然は!
「え、そ、その! 以前から鈴夜さんは事あるごとに、触ってみたいとか、も、揉んでみたいとか、仰られてましたから、あのっ……!」
両腕で隠すように身体を僅かに捻るが、逆に豊満な胸部がより強調される形となる。
「いやいやいや! あんなの冗談に決まってんだろ!」
慌てて反論してから「あっ」と思い至る。
今のが真面目な彼女なりの冗談だったことに。それは最終決戦を前にして緊張をほぐそうとした、精一杯の虚構。
なんせダンジョン突入時には20人を数えた精鋭部隊は、もう俺たち2人しか残っていない。
例え「他人を踏み台にした」後ろめたさがあっても、ここで負ければ逆に申し訳ないのだから力を抜いて下さい、と冗談を交えて伝えたかったのだろう。
ほんのちょっぴりの天然が混じった彼女が口にすると、肩の力が抜けるのを通り越して割とどうでもよく思えてくるから不思議である。
俺はふうっと大きく息を吐き、彼女の顔を真っ直ぐ見た。
「あー……何て言うか悪いな。お前に冗談言わせるくらいには固くなってた」
「え、あ、はい?」
「サンキュ。もう大丈夫だ。今はあれを倒して先に進む、それだけを考えよう」
「……何だか良く分からないですし別に冗談じゃなかったのですけど」
「今何か言った?」
「……いいえ、何も! さあ頑張りましょう」
彼女の声に反応したかのように、目の前の玉座に居座る魔王が低く咆哮をあげた。
「あんたにも悪いな。ま、あっちの世界で謝れるようだったら謝るからさ」
異形に笑いかけると、彼はそれを戦闘開始の意思と受け取ったか、両翼を広げ巨躯を玉座から持ち上げた。
何故、俺は此処にいるのか。
何故、俺はあんな化物と戦うことになったのか。
話は半年前まで遡る――――――