第四章 最後の夢
一
遅い。
何がって、相馬くんが帰ってくるのが、だ。もう彼是五時間以上経っていて、外は夕陽が沈みかけている。早乙女さんからの用事はすぐ終わると言っていたはずなのに、どうしてこんなに遅いのだろう。
もしかしたら、何者かに襲われでもしたのだろうか? 否、彼を一目見て襲う気になれる人間なんてそうはいないだろうから、この可能性はほぼ皆無に等しいことにしておく。
それでは他に考えよう。例えば……、
「早乙女さんと付き合ってる?」
口にしてすぐにその考えを振り払った。そんなことあるはずがない。だって、早乙女さんとは私のほうが一緒にいるはずだし、話も良くする。
――でも、そのときに相馬くんの話も良くする。
そして、私が知らないところで二人が会っていたとしても、なんら不思議なところはないのだ。私はあまり外に出ないし、私の活動範囲ぐらい相馬くんなら把握しているはずだ。
それに早乙女さんにも “誰にも話したくないことなんて誰にでもあるんです” と言っていた。そしてそれが、自分にもあることも。もしかしたら彼女の話したくないことというのが、相馬くんと付き合っているということなのではないだろうか。
私は、どうしたらいいのだろう。好きになるのに順番なんてない。そんなことはわかっていても、やきもちを焼かずにはいられない。ただ、それを表に出すことだけはしてはいけない。否、きっとできない。私は相馬くんのことが好きだけれど、早乙女さんのことも好きで、そんな二人が結ばれればそれは良いことではないか。
本来私は、彼らを祝福するべきなのだ。
けれど、それでも、やっぱりそれは無理だ。
私は相馬くんのことが好き。早乙女さんのことよりも、遙かに。比べ物にならないくらいに。誰のことよりも、彼のことが好き。
そう思っただけで、私の頬に涙が伝い落ちてきた。最初はほんの微量だったのに、次第に大粒のそれが、ポロポロと落ちていく。止めることなんてできない。もうすぐ相馬くんが帰ってきてしまうかもしれないというのに、止まらない。早く、止まれ。
「止まってよぉ」
そう口にした直後だった。
「私は貴方の苦しみを、取り除く者。貴方が口にしなくとも、私が貴方を救います」
夢の中でしか聞こえなかったはずの声が、今まさに、私の後ろから聞こえたのだった。
二
本来なら急いで走るのが当たり前なのだが、彼女の家に着く前に俺に話さなくてはならないことがあるらしく、早歩き程度での移動となった。
「それで、なんです? 話さなくちゃいけないことって」
「ああ、とりあえず、お前がその葉月ってのから聞いた夢魔の情報は、不完全だ。というか、その葉月も知らないんだろうな。私がその情報を補ってやる。まず力の弱いうちは夢の中に介入するくらいのことしかできない。つまり、自我のしっかりしている状態で自分の姿を、そう、人ならざる者を見えない人間に自分の姿を見せ、声も聞こえるようにするにはそれ相応の力を要する。
きっと今まで起きた日馬市での自殺者のほとんどが夢魔の被害者だ。となるともうそろそろ相手にいつでも自分の姿を見せ、特有の力を行使できるはずだ。嫌な記憶と引き換えに精力を奪うという力をな」
彼のその言葉で、事態の深刻さが一瞬で飲み込めた。それはつまり神崎の命が危険に晒されているといってもいいということだ。ならば、急げ。
彼女にとっての嫌な記憶。両親が殺されたあのときの記憶。あれを忘れさせてはならない。それだけじゃない。彼女の中にある記憶の一つ一つが大事なものなんだ。どれが欠けても彼女ではない。自分の意志とは関係なく、接し方の一つも変わってしまっては、それはもう神崎愛美という人間ではないのだ。
そうなってはいけない。させてはならない。俺は、それを止めるために存在するんだ。誰のためでもない、神崎愛美、彼女を護るためだけの、それだけだが、それでも俺には一番大事なこと。
心から想う彼女を、俺は護る。そのために俺は……。
「気負うなよ。私が教えたことは、こういうときに慌てず対処できるようにするためのものだということを忘れてはいけない」
俺の心を見透かしたかのような視線。好意的な視線ではないのはわかっているが、それでも彼のことは信用できる気がするから不思議だ。
そういえば俺の中に眠るという力。これはどうしたらいいのだろう。こんな土壇場にきてまだなにもわかっていない。どうしたらその力を使えるのか。そもそも本当にそんな力があるのか。俺には、未だ信じることができない。もう、人ならざる者のほとんどを目にすることができないというのに、それらに対する力など俺が持っているはずもないんだ。
そう思っているところで、隣が歩調を速めた。
俺もそれに合わせて歩く。
「慎治、お前は何もわかっていないんだな。お前に眠る力。それを引き出すには、彼女のもとへ行くしかもう方法はない。否、あるにはあるが、手っ取り早い方法がこれだけだということだ」
こう言われても、それでも実感できないものが自分の中にあるなんて……。あまり信じたいことではない。だがやはり彼の言葉は信用できるもののように聞こえる。なんだろう。この感覚は。
そもそも、おかしな点が多すぎる。何で彼はここまでに夢魔に詳しいのか。それ以前に、いきなり消えて、そしていきなり現れた人間を、俺は何故信用できるのか。師弟とか、そういうものじゃない。俺はそこまでこの人を尊敬しちゃいない。
では何故?
彼には俺の心もほとんど読まれていて、俺が訊ねなくても必要な答えを出してくれる。それだけが理由か?
違うだろ。
もっと他の、重要な理由があるはずだ。
例えば、
「俺は操られている」
立ち止まり、口に出してしまえば、後はもう楽だった。俺と鏑木は少し離れたところで、向き合った。
「どうした?」
先ほどの俺の呟きは、彼に届いていなかったらしい。不審な顔で、首を傾げる。俺の中を見透かすことができない、苛立ちのようなものすら既に彼の顔には浮かんできている。
俺は愚かだ。再開した瞬間に、疑うべき人間は側にいた。すべての元凶と呼べるであろう人間がここにいる。どこで神崎の両親は死んだ? 側にいて、助ける力がありながら手を出さなかったのは誰だ? 俺を助けて自分を信用させ、それでも自分の身を守るために消えたのは誰だ? 今になって俺らを再び混乱させ、自分の位置を確固たるものにしようとしているのは誰だ?
そんなもの、問うまでもない。答えはもう出ている。否、俺がこの答えを出したことさえも、彼によって導かれたことなのかもしれない。だが、それでも、誰が夢魔をこの日馬市に放ったのかはわかりきっている。
「鏑木正臣、あんた、自分のしたことがどういうことか、わかってんのかよ!」
怒りに任せて出た言葉。それを聞いた彼は、不気味な笑みを浮かべた。
三
美しい女性。初めて見るわけでもないのに、それでも見惚れてしまうほどに美しい容姿だ。白い肌、黒い髪、そして、何も映さない異様な瞳。それまでもそれが、彼女の美しさの一部であると思い込みそうにもなる。
そして彼女は言った言葉を思い返す。
「私は貴方の苦しみを、取り除く者。貴方が口にしなくとも、私が貴方を救います」
それはつまり、夢の中とは違い、口に出さずとも私の記憶を消し去るつもりだということだ。
けれど、一体どうやって?
そう思っていると、彼女はゆっくりと私の前に近付き、まさに目と鼻の先まで来て、目線まで合わせてきた。
美しい笑顔。美しい髪。女である私が、彼女に見惚れてしまうほどだ。それ自体が怖い。彼女の美しさが、リアルな私の感情を恐怖へと陥れる。
彼女のそれは、有り得ないのだ。有り得ない美しさ。まるで自分は女神であることをその姿で物語っている。だが、彼女のしていることは神が成すであろうそれとはまったく異なる。
彼女という存在が、別次元のものだ。生きている人とは違う。生きていないからこそ、こうして美しい姿で人の前に現れる。つまり彼女は、私の両親を殺した存在と同じだということだ。忌々しい存在。憎むべき仇。それと同じような存在が、今目の前にいる。
――パシン!
そんな音が聞こえた。私は無意識のうちに、彼女の左の頬を平手打ちしていた。私はそれに驚いていた。何故避けられなかったのか。何故、彼女自身も驚いた表情をしているのか。
しかし私がまだ驚き放心状態でいるのに対して、彼女は再び笑みを浮かべた。
「そう、貴女はもう、私を必要としていないのね。それなら、もうすべて喰い尽してしまうしかない。残念だわ」
白い腕が私の首に伸びる。両手に力を込め、そして顔はお互いの息がかかる距離まで近付いてきている。本来なら、恐怖や驚きなどから抵抗など出来ないのだろうか。否、それはテレビとかのフィクションの話であって、実際には違ったりするものだ。少なくとも、私の場合はそうだ。私はこんなものより怖いものを見ている。もっと大きく、人の形はしているが見た目は鬼など、そういうものに近い相手。私の両親を殺し、相馬くんまでもが死にかけた忌わしき、敵。あれに比べればこんなもの、怖くもなんともない。最初に感じた恐怖は、偽物なのだろうか。
私は首を横に振る。そんなことはどうでもいいと。今は、自分の危機を脱することに集中しろと。
相手を睨みつけ、腹を蹴飛ばしてやった。
か細いその身体は、見た目通りに軽く、簡単に私から離れてしまった。相手の力は、不思議な能力を除けば人のそれとなんら変わりないように見える。
「なんだ、私でも戦えるじゃない。相馬くんじゃなくても、私だけで十分に戦える――もう、誰にも頼らなくても大丈夫」
鏡の前にへたり込む美しい敵。少し視線を上げて、自分の表情を見た。笑っている。頬を吊り上げて、不気味なほどの笑みを浮かべている。これは私?
否、そんなことはどうでもいい。今は、自分の為すべきことを為せばいい。頭の中でずっと同じことを言う言葉通りに。
――殺せ。
こちらを見上げる彼女の顔には恐怖の色が見える。私に恐怖している。だが、逃げる素振りも何もない。まるで殺されることを恐怖しながらも待ち望んでいるような、そんな様子が窺える。
それでも、そんなことを考えてもどうせ答えは出ない。ならば、私はそのまま彼女の首に手を伸ばし、私がされた通りのことをすればいい。
抵抗もせず呻き声だけを上げる彼女。白目を剥き出しにしていても尚、美しさは衰えない彼女。さっさと死んでしまえ。もう二度と、人に悪さなど出来ないようにしてやるから、早く、早く!
一気に力を込めた直後だ。気の枝が折れるような乾いた音が鳴った。
それと同時に、私はすべてが終わったのだと確信した。
もう、私は誰にも頼らないでも生きていける。そんな自信に満ち溢れている。相馬くんにだって、自分の想いを伝えてあげよう。私のことを護る必要もない、だから、ずっと一緒にいてくれさえすればいい、と。
彼は喜ぶだろうか。たぶん、少し辛そうな、そんな顔をするのだろう。優しいから、急に私が変わったことに異変を感じて、そんな顔をするのだろう。
でも彼は、私の言うことを聞いてくれるはずだ。
だから、ずっと傍にいることを誓わせよう。ずっと、ずっと、私たちが朽ち果てるまで。
四
俺は今まで、何故彼を信じてきた。護符と人ならざる者に関すること以外、彼から得たものはないというのに、何故今の今まで彼を信用してきた。
すべてが彼の思惑通りだと、神崎の両親が殺されたその場に彼がいた時点で気付いても良いはずだ。むしろ気付くべきだったのだ。
漸く彼、鏑木の真意に気が付き、それを彼にぶつけたというのに、当の本人は小さな笑みを浮かべている。余裕の表情。俺がそれに気付いたからなんだというような、そんな顔をしている。
「まあ、そうだな。お前が言っていることは正解だ。だが、私にとっても予想外の展開になりつつある。本当ならこんなことは言いたくなかったんだが、仕方ないだろう」
一体何を言っているのだろうか。予想外の展開? これまでも、そしてこれからも自分の描いたシナリオ通りに事が進むことが判っているかのような顔で、何故そんな言葉が出てくる。
「私に協力してくれ。この先、私には力が必要になる。お前と、神崎の力がな」
「な、何言ってるんだよ! お前は俺を騙して来たんだ。今さらそんなこと頼まれて、はい、わかりましたなんていうと思ってんのか!」
「思っちゃいないさ。だが、慎治。お前は私に協力するしかない。否、話すべきか。すべてを」
思わず首を傾げてしまった。表情を変えようとしない彼は、声だけで自分の感情を伝えてきている。そしてそれが、謝罪とか、そういうものの類であるということだけはわかった。
「私は夢魔を放ち、多くの死者が出るだけでよかった。この日馬市に放ったのは、お前らがこいつを討払うことができるかどうか試すためだ。そして当分の間、お前らに奴の力が及ばないために、お前の通う学校と家周辺に微弱な結界を張っておいた」
「じゃあ、何故あの自殺者が出たんだ」
「そこだ。結界が微弱とは言え、夢魔如きに破られるような、ましてやそれに憑依された人間が破るなんてことは不可能なはずだった。だがそれが破られた。これがどういうことか、お前にわかるか?」
なんとなくだが、わかる。それはつまり、鏑木の結界を破れるほどの力を持った何かが、この近くに潜んでいるかもしれないということだ。しかし、それこそ有り得ない気がする。もしそれほどのやつがいて、何故被害が出ていないのか。
ああ、つまりはこういうことか。
「結界を破ったものが、人ならざる者とは限らない?」
「ああ、たぶんその通りだろう。そしてそいつは、お前たちの身近な人間である可能性が高い。そういえば慎治、お前は何故私が神社に戻ってきていることがわかった?」
「え? 何言ってんだよ。俺が後輩と別れて横断歩道渡ってるときに声を掛けてきて気を失わせたのはあんただろう?」
そこで彼は、初めて表情を変えた。疑問。俺の言っていることが理解しきれていないということだろう。それはつまり、彼はあの場にいなかったということだ。では、一体誰が? 俺は何故神社にいた?
もしかしたら俺の意識を少しでも操っていたのは彼ではないかもしれない。神崎の両親、夢魔による自殺者。彼が起こしたことに便乗した誰かがいて、そいつは俺と神崎になにかを仕掛けようとしている。そんな可能性が出てきて、そして身近にいる人間の顔が浮かんだ。
まず俺と神崎をよく知っている人間でなければ、こんなことをしようとは思わないだろう。むしろ夢魔を滅することを考えるのが普通だと思う。
思案する俺に、彼が問いかけてきた。
「お前は、どこから意識がある」
「――境内で、声をかけられたところから、かな」
「そうか。なら教えておこう。お前は自分の足で神社までやってきて、そして賽銭箱の隣に腰かけたんだ。最初は私を見てもお前は驚きもしなかったがな」
自嘲交じりに言うそれを、信じていいのだろうか。
「じゃあ、俺はあんたに連れて来られたわけじゃないんだな?」
さっきも同じようなことを言ったぞと返され、そしてさらに続ける。
「おい、お前は私のところに来る前、後輩と会っていたんだな? 恐らくだが、この不測の事態を招いたのは、そいつだ」
信じ難いことだ。彼女は神崎を慕っていた。それが何故このようなことをする? 動機は何だ。もしかしたらこれも鏑木が俺を騙そうとしているのかもしれない。すべては彼女の仕業だと。
だが、彼も自分がしてきたことを認めた。それならこんなところで嘘を吐く必要などあるのか。
俺が信じ切っていないことに気付いたのだろう。彼はああ、と考える素振りを見せて、言ってくれた。
「一つだけ言わせてもらおう。これまでのことを許せとは言わん。だが、これからのことは信じてくれ。このような事態に陥るなど考えてもいなかった。すべては私のミスだ。お前たちを覚醒させようと急ぎ過ぎた結果がこれでは、話にもならん。だから、これからは信じてくれ」
自分勝手なそのもの言いを、俺は何故か信じてみようと思った。
五
「相馬、私がこれまでしようとしてきたことを、この件が終わったら話そうと思う。そしてこれからは無理に力を引き出すのではなく、ゆっくりと時間を掛けてやることにする」
いきなりそう話しかけてきた鏑木に、俺は首を傾げてしまった。
「まあ、そうだろうな。私も自分で何を言っているのか。今までやってきたことからすれば、私とはこれ以降関わりたくはないだろ」
そういうことじゃない。いつもと違う、どこかしおらしい彼を見るのが嫌なのだ。鏑木正臣という人間は、傲慢で、自信家で、周りを見ない。だが、彼の言うことのほとんどは正論で、こちらも返す言葉を失ってしまう。それが彼なのだと、俺はそう思っていたのに、なんだこれは。
「何なんだよ。アンタは自分がどんなに酷いことをしても、それでも笑ってすっ飛ばすような男だと思ってたのに、それでもアンタは鏑木正臣かよ!」
何故俺は怒鳴っているのだろう。“味方”とは違う。そういう人じゃないのに、仲間なんてのも合わない、そんな彼に対して、何故本気で怒っているのだろう。俺は。
俺は、彼が俺の知っている彼でなくなることを恐れている? きっとそうだ。だから俺は勝手に怒り、変わってしまうかもしれない鏑木に対して怒鳴り付けるのだ。
そんな俺の心の中を見透かしたように鏑木は笑みを浮かべ、勝手なことを言ってくれる、と呟いた。俺になんとか聞き取れるくらいの、呟きと取れる言葉を吐いた。
そうだ。俺は勝手なことを言っている。そしてそれは、鏑木自身もそうなのだと自分で認めているはずだ。だから先ほども小声であんなことを言ったのだろう。少なくとも俺は、そう思っている。
「今は、違うかもしれない。だが私は、自分自身を鏑木正臣だと思い、信じている。だから、そうだな。これも私の一部なのだと思ってもらえればそれでいい」
ふざけている。何もかも。そう思ったときだ。鏑木が歩みを止めた。
「おい、慎治。止まれ」
「え?」
「何か、いるぞ」
そう言ってから、少し前の十字路を見ている。前方には何もいない。つまり、左右どちらかから何かが来るということだろう。
「おい、隠れてないで出てきたらどうなんだ」
鏑木の言葉に、それは姿を現した。ゆっくりと、十字路の真中へと歩み出してきたのは、二人の人物。俺が良く知っている人間。
「遅かったね、先輩」
満面の笑みを向ける早乙女。そしてその隣には、無表情で虚ろな目をしている神崎がいる。どうみても神崎は普段と全然異なっている。これは、早乙女の何らかの力によるものだろうか。
「でもまさか、二人もいるとは思わなかったけどね。先輩の隣の人、誰ですか?」
俺が答えようとするのを、鏑木が手で遮り、そして代わりに答える。
「こう言えばわかるだろう。夢魔の、前の飼い主だ」
「へぇ、そうなんだ。つまり私がこんなことをするようになったのも、すべて貴方の仕業、ってことかしら?」
特に驚いた素振りも見せずに、今度は鏑木だけを見据えて問いかける。
「まあ、簡単に言えばそうなるんだろうが、結局はお前が人ならざる者を手懐ける力を持っていることにも問題があるのではないかな?」
「あら、そんなことまでわかってるの。ってそりゃそうよね。人が飼っていたのを気付かれずに奪うなんて、そう簡単には出来ないらしいから」
「お前も自分の能力に関しては随分と詳しいんだな。だが、一つだけわかっていないことがあるだろう」
そこで初めて早乙女の表情が変わった。首を傾げて、わからないという風に言葉を出さずに伝えてきた。
「やはり、な。昔、日本ある地域では、人間は人ならざる者が見えるのと見えないのとで区別されていたことがある。そして前者は人ならざる者を排除するために、強力なそれを自分の中に封じ込め、それの特殊な力を自由に行使できるように特殊な訓練のようなものを行わなければならない。
だがお前は違うだろう? 元々そういうのが見えていたのかどうかは知らないが、人ならざる者の力を使うために必要なことは一切していないはずだ。幼いころはある程度の力があるために奴の力を自然に封じ込めていたが、これまで何もしてこなかったお前は抑え込む力を失い、自我を乗っ取られた。
恐らくそいつは先祖から代々伝わってきている奴なのだろうが、あれかな。お前は幼いころに両親を失い、遠い親戚の所まで飛ばされ、全く力などに関することは教わってこなかった。だから今、お前は自分の身体が、人ならざる者に支配されていることにも気付いていない。
ほら、本性を現せ」
その言葉に、早乙女は頬を吊り上げた。
「そうか。気付いていたか。だが、それがどうした。私の力さえあれば、貴様の中のやつらだって私の思いのままだ! 貴様等にはどうすることもできないんだよ!」
人の顔とは思えない。悪魔。それが似つかわしいだろうその顔で叫んだ後、すぐに普段の早乙女の、天真爛漫とした笑顔で、神崎に語りかける。
「さあ先輩。あの相馬先輩に、自分の想い伝えちゃってくださいよぉ」
甘えるような声。そしてそれに反応して、神崎が俺のほうに向かって来る。
「ねえ、相馬くん。私ね、もう君に護ってもらわなくても大丈夫だよ? さっき、自分でお化けみたいなのやっつけられたんだから。だから、これからは私が護ってあげる。だから、ずっと一緒にいよう? ずっとずっと、傍にいてあげる。相馬くんを一人にしておくと危ないからとか、そういうのじゃないの。私は、相馬くんのことが好きだから、言ってるの。だから、ずっと一緒にいようよ。ね?」
俺は一瞬、耳を疑った。それはいったいどういうことなのかと。顔は笑っているが、目に光のない彼女の言葉は本当なのか。本当に彼女一人で人ならざる者を倒したというのだろうか。そして彼女が言った、俺のことが好きという言葉。
嬉しくないはずがない。護る必要もなく、俺がそれを義務と感じなくともいいというのであれば、俺もそれに応えてあげたい。俺も君が好きだと、伝えたい。
だが、俺は鏑木に言われずともわかっている。彼が俺に、これは罠だと伝えようとしているのもわかっているから。
「君はまだ、夢魔を倒せてはいないよ。君は今、夢魔に乗っ取られているんだろ?」
隣で頷く鏑木が目に入る。俺は間違っていない。
「そう、君はそんなこと言うの。なら、もういらない。消してあげるわ」
すぐ目の前まで迫ってきた彼女は、俺の首を締めあげる。それに抵抗しようとしたところで、身体が縛りあげられるような感覚を受けた。
辛うじて動く頭を鏑木のほうに向けると、彼は真剣な表情で俺を見ている。右手の人差指と中指が俺に向けられている。彼に特訓を受けているとき、俺が反撃しようとしたら毎回こうやって動きを封じられていたのを覚えている。
一体どういうことだ。
問いただそうにも、小さく開いている口はまったく動かず、呼吸をするのでやっとだった。否、その呼吸も難しい状況だ。何せ、神崎に首を締めあげられているのだから。
だんだんと意識が薄れていく。
俺は、死ぬのか?
嫌だ。たとえ彼女の手であっても、それが彼女の意思でもないのに殺されてたまるか。こんなところで、俺が死んだら一体誰が彼女を護るというんだ。鏑木なんかには頼れない。こんな仕打ちをするような人間を、これ以上信用できるはずがない。
だがどうすればいい?
『汝、自らの死を恐れるか?』
その声は頭の中に直接入ってくるのがわかった。それも幾つもの声が重なって聞こえる。男とも女とも区別がつかない。
『汝、自らの死を退ける力を欲するか?』
この声がなんなのか。俺は知らない。だが、これは俺に力を与えるためのものなのだと、自然とそう思うことができた。どちらにせよこのままでは死んでしまうのだ。それならば、これを信じてみる価値はある。
『ならば念じろ。素戔嗚尊、招来』
――素戔嗚尊、招来。
直後、俺の首にあった痛みと、縛られている感覚がすべて消えた。
神崎と鏑木の二人が、何かに撥ね飛ばされたかのように俺の傍から離れ、鏑木は空き地のフェンスに背中からぶつかり、神崎はコンクリートの地面に尻から落ちる形となった。それでも表情の変わらない神崎。鏑木は衝撃に顔を顰めている分、人間らしい。
しかし先に立ち直ったのは鏑木のほうだった。そういった面では、彼もまた人間とはかけ離れた存在な気もするが、今はどうでもいい。
「力が、覚醒したか」
鏑木の言葉に、早乙女が顔を顰める。
「貴様は何者だ?」
俺が何者だと? 決まっている。俺は俺だ。相馬慎治、それ以外の何者でもない。
「俺は、――」
言いかけて、言葉が喉に詰まる。俺は今、どんな姿をしている。そう思い、自分の腕を見てみる。
なんら変わりない。
「わからないのか? なら、これを使って自分の姿をよく見てみろ」
そう言って肩から提げたショルダーバックから、小さな手鏡を取り出してこちらに投げた。
それに何らかの仕掛けがあるとか、そんなことは疑わずに、自分の顔を見てみる。そして漸く気付いた。自分の変化に。全体的な変化じゃない。ほんの一部。
髪の毛が一房ほど金色に、瞳が赤く染まっている。
「なんだ、これは……」
「うろたえるな慎治! 大丈夫だ。そんなことを気にしている余裕があるなら、前の敵を見据えろ!」
鏑木の怒鳴り声。初めて聞いたそれに、俺はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。彼自身、動揺している。それがわかるから、俺は、何もできなくなってしまう。
否、ここにいるのは全員敵、か。俺は神崎を助けることだけを考えればいい。しかし鏑木は、恐らく力の覚醒のために俺を縛り付けた。そう、俺の中の何かが言っている。
どのみち、三人も同時に相手にするなんてできるはずがない。そもそも俺にどんな力があるのか、今一つ理解できていないのだ。
素戔嗚尊。
聞いたことはある。日本の神話に出てくる神様の一人のはずだ。そしてその中で八岐大蛇を倒したのも彼のはずだ。しかしそれが何故俺の中にいる。神話、つまり作り話の世界だ。
訳がわからない。
「おい、こう言う諺があるだろう。火のないところに煙は立たない」
何故鏑木は、俺の心の中が読めているかのような言動をとれるのだろう。とりあえずこのことは後で聞くとして、つまり素戔嗚尊は実在して、八岐大蛇を倒した、ということがいいたいのだろう。
なら話は早い。俺には武器があるはずだ。先ほど鏑木と神崎を吹っ飛ばしたときと同じように、念じれば出てくるだろうか。
――天叢雲剣、招来。
すると、また何か衝撃波のようなものが俺の身体から発せられた。しかしそれだけで、後は何も起こらない。
「なんだ、何もしないのか。なら、貴様から殺してやるよ。さすがにもう、この女は役に立ちそうにないからな。私自身の手で、楽に死なせてやる」
「おい、何をしている! さっさと力を示せ。お前の中にいる奴の力を、敵にぶつけるのだ!」
何かごちゃごちゃと、五月蠅い。こっちは訳がわからないっていうのに、何だ。何故出てこない。何も起こらない。
「くそ! 念じて駄目なら、口に出したらどうだ!」
「はっ! 何をする気か知らないけど、無駄だよ! 何をしようと私には通用しない。私に敵なんかいないんだよ!」
もうやけくそだった。走り迫る早乙女に、何かされる前に結果を出せなければそこで終わりなのだ。力を欲するか、などと聞いてきた奴は、今や何も語りかけてはこない。そんな奴の言葉を待っていては、死んでしまう。
「天叢雲剣よ! 我が手に力を!」
ちょっと待て。俺が言おうとしていたこととは少し違うぞ。
そう思った次の瞬間、早乙女の胸に青白く光る剣が突き刺さり、それは彼女の身体を貫き通していて、剣先が彼女の背に見える。
彼女が動かなくなるまでに時間はかからなかった。そしてすぐに剣は消えてなくなってしまった。俺が彼女を刺したという事実以外、何もわからないまま、俺は意識が遠のくのを感じた。
六
周りが白く、何も見えない。自分の手足さえも見ることができない空間に、俺は一人立っている。
否、立っているかどうかもわからない。そういう感覚もまったくないのだ。自分の微かな息遣いだけが聞こえる。そして目を開けて、前だけを見ている。それだけはわかる。そう、それだけ。ここがどこで、神崎たちは一体どうなったのか。俺自身も、どうなってしまったのか。
どうしたらいいのかわからず、途方に暮れるしかなかった。
どれだけの時間が経っただろうか。何もないこの空間で、時間の感覚さえもわからない。もう何時間も経った気がするし、でももしかしたらまだ十分も経っていないかもしれない。このままでは気が狂ってしまいそうで、怖くなってくる。
「主よ」
その声はいきなり語りかけてきた。神崎に首を絞められ、鏑木に縛り付けられていたときに聞こえた声。しかし今は、もっとクリアに聞こえる。声の主は、すぐ近くにいる。だが姿は見えない。
「吾が名は素戔嗚尊。吾は汝を、吾が声に答えし新たな主と認めよう」
「どういう、ことだ?」
息が苦しい。先ほどのような、首を絞められているのとは違う、また別の感覚だったが、それでも苦しいことには違いない。早く、こんな場所からは逃げ出したい気分だ。
「さあ、今一度、吾が名を唱えよ。そして吾が兄弟を探し出し、共に邪なる魂を浄化せよ」
俺の問いに答える気はない、ということか。しかし俺には力が必要だ。これからも、神崎を護って行くために。そのために、素戔嗚尊の力というものは必要になってくるはずだ。そして今、この声は自分の兄弟を探し、邪なる魂を浄化せよと言った。それはつまり、他にも今は亡き神を内に宿した人間がいて、彼らとともに人ならざる者を倒せということだろう。
これは神崎を護ることにもつながるはずだ。なら、迷いなど必要ない。
「素戔嗚尊!」
直後、眩い光が発せられ、俺は無意識に手で目を覆った。
「……まくん」
誰かが何か言っている。誰だろう。
そうだ、目を開けよう。そうすればわかるはずだ。声はすぐ近くから聞こえたのだから。
「相馬くん」
俺と神崎は目が合い、彼女が俺の名前を呟いた。
「良かった。起きてくれた」
今にも泣きそうな顔で、しかし無理に笑おうと笑顔を作ろうとしているのがわかる。夢魔に侵されていたはずなのに、今の彼女はいつもどおりのそれとまったく変わらない。俺の好きな、とても大事な人だ。
「ごめん、ね。私のせいで、こんな目に遭わせちゃって。本当に、ごめん」
嗚咽交じりで、しかしそれでもまだ泣くまいと、必死に涙を堪えている。俺の前で泣かない。そうすることで、自分の弱さを隠そうとしている。それが、今の俺には、余計につらくて、だから、つい口に出してしまった。
「泣きたいなら、泣きそうなら泣いていい。でも、これは君のせいじゃない。悪いのはすべて、早乙女さんの中にいたやつがいけないんだ」
実際は違う。鏑木も今回の件に関わっている。
辺りを見回して、ここが自分の部屋ではなく、神崎の部屋だと気付く。以前来たとき、女の子らしい部屋だと思ったこの部屋。初めて夢魔の存在に気付いた場所でもある。そして先ほど、素戔嗚尊から力を託された場所、ということにもなるのだろうか。
そう思いながら、神崎の頭に手を乗せて、ポンと軽く叩いて見せた。するとそれだけで、堰を切ったように透明の雫がポタポタと零れ出した。思い切り泣いてくれればいいのに、俺がそう言わないからなのか、彼女は声を押し殺して、顔をクシャクシャにして泣き出した。
夢魔と対峙し、身体を乗っ取られ、俺を殺そうとして、そしてさっきまで俺は気を失っていて、きっと乗っ取られている間も、意識自体はあったのだろう。だから、こんなに泣いている。
彼女は強くなんかない。普通の女の子だ。
身体を起こし、そっと彼女の身体を抱き寄せる。抵抗はない。それどころか、彼女も俺の背中に手を回し、しがみ付いて来る。
そして俺は、再び誓う。
「俺は、君を護る。どんな奴からも、君を、永遠に護り続けてみせる」
七
一週間。
久坂高校で起きた自殺者について調べ始めてから、まだそれだけしか経っていない。つまりそれだけの時間で、この事件を解決してしまったことになる。早乙女の中にいた者と、鏑木が放った夢魔。
偶然が重なったことによって神崎が危険な目に遭い、そして俺もまた内なる存在に気付いた。
家に帰ったあとそれについて葉月に聞いてみた。すると彼女は、つまらなそうな顔をして、
「なんでそっちに気付いて私のことはまだ思い出さないのよー」
と不貞腐れてしまった。
しかし夢魔のいなくなった今、彼女は元いた場所、つまり神崎の中に戻ればいいと思うのだが、何故か俺の部屋に居座っている。正直言って、小さいからと言って、幼いわけではない彼女をずっとこの場所に置いておくのは気が滅入る。
そもそも彼女は、俺を男として見てないのかもしれない。単なる宿主のようなものだろう。本来の宿主は神崎だが、もしかしたら彼女はここが気に入ったのかもしれない。どうせここからでも神崎を見ていられる。俺と神崎はほとんどの場合一緒にいるし、これからはもっと増えると思う。
しかし早乙女が生きていることを知ったときは驚いた。そもそも俺が刺した剣は、肉体は断ち切れないものらしい。これは鏑木の推測でしかないが、天叢雲剣は人ならざる者を斬るための武器であって、人体に影響を及ぼすようなことは無い、ということだ。早乙女に使った結果からそう推測できるというだけで、確証はできないらしいが、大凡これは信用してもいいだろう。
もし他にも何かあったところで、次に使う機会がない限りはわからないのだ。それならそれまで放っておけばいい。
このまま何も起こらなければいい。素戔嗚尊の言葉からして、何も起こらないわけはないのだろうけれど、それでも夏休みが終わるまではのんびりと過ごすのもいいと思う。
このとき、俺は初めて夏休みもいいと思うことが出来た。




