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第三章 夢魔

          一


 人の命とは儚いもの。心臓が止まれば、それで終わり。心臓だけではない。脳でも同じことだ。人間とは脆く、弱い生き物だ。だがそれでも知恵を持つ人間は、その弱さを隠す術を得た。

 鮫やライオンといった生き物から身を守るための武器があり、自然災害を予知する技術までも得ることができた。だが、目に見えない生き物に対しては何もしてこなかった。今ではほとんどの人間がそれの存在を信じていない。妖、幽霊といった類のものはすべて無視される。科学で存在が証明できないものなど、何かしらのきっかけがない限り万人が認めることはない。

 そう、きっかけがあればいい。しかしそのきっかけは、多くの犠牲を伴うだろう。否、むしろそうでもしなければ人々は信じない。信じようとしない。だから、私が直接手を下さなければならない。

 人類の未来のためにも、私は悪とならなければならない。仏に仕える身であっても、否、仏に仕える身であるからこそ、人々のために悪となろう。そのためにはまず、一つの町を滅ぼさなければならない。

 たとえ、どんなに親しかったものがいても、例外なく滅ぼす。それこそが、人ならざる者を人々に伝えるための、効率的な手段なのだ。


          二


「いやー、今日はみんな良く集まってくれたね。部員二名、私、部長を含め三人全員集合してる!」

 場所は図書館のエントランス。ここ久坂(くさか)図書館は、日馬市唯一の図書館で、広さは久坂高校と同じぐらいで、所蔵量は二十万冊を超えていて、その三分の一近くはこの日馬市に関する書物が置いてある。この市一帯の土地にどれだけの歴史などがあるのかにはあまり興味はないが、もしも『週刊久高』のネタが集まらないことがあれば、この市に関する膨大な書物に目を通すつもりでいる。

「良く集まってくれたね、じゃないですよ、部長。てかあの人はいないんですか? えっと、相馬先輩」

 黒ぶち眼鏡を掛けた中肉中背と言った感じの男の子は一年生の相沢浩太。

「いや、あの人は部員じゃないでしょ。まあ、新入部員はその辺知らなくて当然か」

 茶色いツインテールが特徴の女の子は、こちらも一年生の早乙女麻奈。相沢よりも少し早く入部している。

「へえ、あの人部員じゃないんだ。その割に結構この部に出入りしてるみたいですけど、何でですか?」

 真顔でそう訊ねてくる相沢くんに、私が答えようとしたところを遮って早乙女さんが口を開く。

「決まってるでしょ。相馬先輩と部長は付き合ってるの。だから部長の手伝いを相馬先輩がしてるってわけよ」

「へえ、そうなんですか」

 自信満々に腕を組んで踏ん反り返っている早乙女さんと、ありもしない事実を真に受けて、感心するように頷く相沢くんの二人を見て、私はつい口を開いてしまった。

「わ、私と相馬くんは関係ないから! 確かに朝まで一緒だったけど、別にそんな関係じゃないから!」

「それを付き合ってると言わずに何と言うんですか!」

 二人は口をそろえて叫び、私は後悔した。何故こんなことを言ってしまったのだろう。口に出さなければいいものを、これで私と相馬くんが付き合っているという噂は、始業式とともに学校全体に伝わるだろう。


 今日は昨日相馬くんから貰ったメモから、三人で自殺の背景にあるものが本当に虐めだけなのか、何故遺書がないのか、ということを考えた。しかし結局は推論でしかない、ということで、各自分担して調べることにした。

 まず私は自殺した原因が虐めだけなのか。相沢くんは本当に遺書等が残されていないかどうか。早乙女さんには加害者側の調査をお願いした。もしかしたらこの自殺の件は、虐めなんかよりももっと深いところに、根がある。なんとなくだけれど、そんな気がして仕方がなかった。


          三


「ありがとうね。早乙女さん」

「いえいえ、先輩の頼みですもの。喜んで引き受けちゃいましたよ」

 笑顔で私を見上げる早乙女さん。一年生の平均身長よりも少し低いらしい彼女は、本当に小さく、百六十五センチほどしかない私でも、彼女と並んで歩くと頭二つ分ぐらいの差があるのだ。

 彼女はそれを気にしていないのか、その顔には笑顔が絶えず、天真爛漫に振る舞っている。それが偽りだとはとても思えない。だから私も気兼ねなくこの子と接することができる。

「でも、何で一緒に帰ろうなんて言い出したんです?」

 これから少し歩いたところには、日馬神社がある。以前の記憶から、この前を通るだけで足が竦み、歩けなくなってしまうことがある。そのときは相馬くんがいたから無事家に帰ることができたが、今はそういうわけにはいかない。図書館に行くときはタクシーを使ったため、ほとんど意識する間もなく過ぎ去ってしまった。しかし帰りはそうはいかなかった。財布の中に入っている金額的に問題がある。

 まさか千円札一枚しか入っていなかったとは、来るときに何故確認しなかったのだろうかと今さらながら後悔し、後悔先に立たずという言葉が嫌というほど自分に突き刺さる。

「うーん、ちょっとね。もし機会があったら話すっていうのは、駄目かな」

「……いいですよ、別に。誰にだって話したくないことの一つや二つはありますもん」

 それは早乙女さんにもそういうことがあるということだろうか。否、あるのだろう。だがそれを探ろうというのは間違っていると思うし、彼女だって私が言いたくないということを伝えたら、それ以上は突っ込まないと言ってくれたのだ。それなら私がここで言うべきことはただ一つだ。

「ありがとね」

「え、そんなこと言われるほどのことしてませんって。さっきも言いましたけど、誰にも話したくないことなんて誰にでもあるんです。それに、先輩だって私のそれがどんなものなのか、気になる風なことを口にしないでくれました。それだけでお礼なんて言ってもらわなくていいんですよ」

 満面の笑みで、まるでそれが正論であるかのように言ってのける。それが正しいのかどうかわからず、彼女のその言葉は本当に正論であるかのように錯覚してしまいそうなほどのものに感じた。

 彼女は、とても素直で正直な子なのだ。まだ知り合って半年にも満たないなりに、彼女がどんな子なのかわかってきた。

 思えば彼女は、相馬くんの次に良く会う人だ。私はそれだけ彼女を信頼出来ている。この可愛らしい後輩は、私の味方だと信じ切っている。

 そして今、ようやく気付いたことがある。私は今まで通るときにどうしても意識してしまうはずの日馬神社前を、なんなく過ぎ去ってしまっていた。

 何故だろう。あんなに嫌な思い出がはっきりと、今でも思い出せるというのに、何故こうも簡単に通れてしまったのだろう。まさか、私はあの夢を見たのだろうか。もしかしたら“夢を見た”という事実さえ忘れてしまっている?

 その可能性は十分にある。私はあの夢そのものを嫌な思い出と、頭の中でそう捉えているはずだ。そして一度に忘れられることが一つだけとは限らない。だから夢を見たという事実と、もうひとつ、神社に関する何か、自分でもわからない何かを忘れてしまっているのだ。

 私の親が死に、相馬くんが傷ついたあの日のことの、何かを。


          四


 葉月は決して俺の部屋から出ようとはしなかった。それは自分の力の弱さを認めているということだ。

 つい先ほど気付いた事だが、昨夜は何も身に纏っていない、つまり全裸の状態だったはずなのに、今は黒い喪服のようなものを纏っている。これはいったいどういうことなのだろう。

 そういえば昨夜感じた黒と白という感覚は彼女に感じられない。どちらかに偏っているというか、寧ろ白一色で、とても純粋で奇麗な存在のようだ。もしかしたら昨夜は夢魔に取り込まれそうになっていたために禍々しさを感じたのかもしれない。

 今の彼女にはまったく禍々しさなどない。性格には多少の問題はあるように思うが、それでも人間と同じような者がいるぐらいに人と同じような、そう、人に極めて近い人ならざる者。彼女はきっとそういう存在なのだ。

 もしかしたら死後の経過時間が短いうちに人ならざる者へと変化したものかもしれないとも考えたが、彼女は一年半も前のことを知っていて、その後は神崎の中にいたという。つまり最低でも死後一年半、若しくはそれ以上経っているということになる。以前鏑木から聞いた話では、どんな生き物も死後半年以内に人ならざる者になるか、それにならずに浄化、もっと簡単にいえば成仏するらしい。

 彼は良くわからない人間ではあるが、今まで嘘を吐かれたことはない。だから一応それは信じておく。となれば俺の隣にいる、小柄の少女の姿をした人ならざる者は、まったく異質な存在なのだろう。以前神崎の両親を殺し、俺の命を賭して倒したやつとも違う。むしろやつこそが人ならざる者の最終的な姿の一つなのだ。

 葉月はそれらとは全く違う。可能性の一つとして、彼女は“人ならざる者”という大枠の中に入らない存在だということも考えられる。彼らとは違う、異なる存在。鏑木も多分知らないだろう。まず彼が知っていたら、神崎の中に入る前に何とかしているはずだ。それができなかったということはやはり、未知の存在なのかもしれない。しかしそこで、一つ引っ掛かるものがあった。それを取り除くためには、葉月にいくつか質問をするしかない。

「なあ、夢魔ってやつはいつ神崎の中に入ったんだ?」

「ええと、貴方達が学校で自殺した男の子を見たとき、かな」

「ちょっと待て。何で俺じゃなくて神崎なんだ? お前はその時点でそれほど力がないにしろ、何も中にいない俺のほうが狙われるんじゃないのか?」

 そこで葉月は不思議なものでも見るかのように首を傾げた。

「貴方の中に入るでしょう? それに言ったでしょう。貴方には力があると。それが私よりも強かった。貴方の中に入っても、何も通用しないということが、接近した瞬間にわかった。だからその場にいた二人のうち、弱いほうに入り込んだ。自分でも抑え切れる自信があるほうに、ね」

「俺にはその力ってのが理解できないが、それ以前に一つ気になることがある。その夢魔は、どこから出てきて神崎の中に入ったんだ?」

「自殺した男の子の中よ。あれに生気を吸い尽された者は、自殺願望に目覚めてしまうというか、嫌な思い出だけが募り、最終的に自分がこの世から消えさることで救われると思いこんでしまう。そういうことなんでしょうね。まあ、これもあの子の中にあれが入ってくれたおかげで分かったことなんだけど」

 つまりはこうだ。自殺した一年生の中には夢魔がいて、そいつは取り憑いた人間の生気を残らず吸い尽し、その人間は自ら命を落とす。そしてその魂を夢魔は喰らい、その近くにいる人間にすぐ取り憑いてしまう。

「たぶん、最近この市内で起きた自殺のほとんどが夢魔の仕業だと思う。少なくとも、貴方の通う学校の近辺なんかは特に」

 葉月がそう言い終えた直後、携帯電話に着信音が鳴り響いた。サブディスプレイに映し出された名前を見る。そこには早乙女という文字があり、俺は一瞬首を傾げた。その早乙女という名前を、忘れかけていたのだ。

 しかしそれが報道部の後輩だと思いだし、それに出た。

「あ、もしもし、相馬先輩ですか?」

「ああ、そうだけど。珍しいな。君が電話かけてくるなんて」

「いや、ちょっといろいろとありまして。というかあの、今日馬神社を過ぎた交差点の角にある喫茶店にいるんですが、神崎先輩を迎えに来てくれませんか? 具合が悪いというか、神社を過ぎたあたりからちょっと暗いんですよ。とりあえず様子がおかしいのでここで休憩して行くということにして、今トイレから電話かけてるんです」

 神崎の調子が悪くなった理由などわかりきっている。日馬神社。それが原因だ。急ぎ立ち上がり、携帯電話と財布をジーンズのポケットに入れる。すると葉月が何をそんなに急いでいるのかと訊ねてきた。

「神崎が日馬神社の前を通ったんだ。だから迎えに行ってくる」

 葉月は思い出したかのようにわかったと頷き、いってらっしゃいと小さく手を振った。俺はそれを背に走り出した。


 喫茶店に着くころには空は茜色に染まり、日が沈みかけていた。喫茶店まであと少しというところで早乙女に連絡をし、店の前で待っているようにしてもらっていた。そのときにようやく神崎に俺が来ることを知らせたらしい。俺と目が合った瞬間、少し驚いたような表情をしていた。

 俺が合流すると、早乙女はそそくさと退散してしまった。まるで俺たちに気を使っているかのように。だが今はそれとは少し違うことはわかっている。彼女も本気で神崎のことを心配している。だから自分よりも神崎のことを知っている人間を呼んだのだ。

「何できたの?」

 それが、早乙女がいなくなったあとに放った一言だった。俺は一瞬ぎょっとし、だがちゃんと説明をした。早乙女から連絡があり、心配になって来たと。来てくれと頼まれたということは敢えて伏せておいたが、それは有効だったらしい。

「そっか。ありがと。それと、ごめん」

 きっと俺が気を使ってくれたことについてお礼を言い、そして謝っている。

「謝る必要はないだろ。俺が好きで来てるんだ。それに、以前俺が言ったことを忘れたとは言わせないからな」

 俺は彼女を護ると誓った。それは一方的なものだが、それでも彼女は受け入れてくれた。だから俺は、彼女が困っていれば助けるし、辛い思いをしていれば励ましもする。

 それが罪滅ぼしだからじゃない。命を賭けても護りたいと思うほど大事な人だから。だからこそ、そう誓えたんだ。

 だから一刻も早く、夢魔を何とかしなくてはいけない。その存在を消し去る術。それを一日も早く見つけ出し、彼女が自らの命を絶つことだけは避けなくてはならない。


          五


 俺は早乙女に呼び出され、四日前に神崎を迎えに行った喫茶店に来ていた。あまり広くない、どちらかといえばこじんまりとしたこの喫茶店は、結構人気のある場所だ。そのためほとんど満席状態なのだが、並んででもここで話をしたかったらしく、十分程度待って漸く席につけた。

「で、話ってのはなんだ?」

 椅子に座るなり、メニューに目を通しもせずに訪ねた。今日は神崎に先日の夜のことを伝えなければならない。結局あの日は伝えられず、今日にまで伸ばしてしまっているのだ。彼女自身はすっかり忘れていたようで、俺が一言いったら思い出し、早く教えろと言ってきたところで早乙女からの連絡だ。

 神崎が帰ってきてからでいいと言ってくれたから、今こうして早乙女の前にいる。彼女は俺を見据え、黙ったまま口を開こうとしない。しかしそれもほんの少しだけだった。すぐにウエイトレスが注文を取りにきたからだ。

「私はホットコーヒーで」

「じゃあ俺も同じの」

 ウエイトレスが笑顔で立ち去って行くのを見て、早乙女は小さく笑った。

「まだ夏だってのに、ホットコーヒーなんて飲んで、大丈夫なんですか?」

「お前も頼んだだろ。それも先に」

「順番は関係ないですよ。それに私、コーヒーはホットと決めていますから」

 俺もそうだと返し、本題に入るよう言った。

 すると彼女は真顔で俺を見つめ、まず四日前に神崎から自殺した一年生を虐めていた側について調べるようにと頼まれていたことを知らされた。そしてこれから話すことはその結果であることが前提にあるものとして聴くようにと念を押された。

 つまりはこれから話すことはそれほどまでに信じがたいものなのだろう。まず俺は、たった四日、否、頼まれた日はほとんど神崎についていたのだから、実際には三日でそれだけのことを調べてしまった早乙女が信じられないのだが、たぶんそれよりも信じられないようなことを、彼女は口にしようとしている。

「最初に虐められていた一年生、私も相沢もクラスが違うし、元々影が薄い存在だったらしいので、彼のことは一切知りません。廊下で擦れ違ったことがあるかな、と思う程度ですね。そういう人の一人や二人、先輩にもいますよね?」

 それはそれで失礼な発言だが、表情が真剣なものなので首肯一つで終えた。

「まあ、そんな彼だし、虐めている側の生徒も札付きの悪みたいなもので、誰も止めようとはしなかったんですよ。あとほら、先生もその中にいたみたいだし、余計ですね」

 そこで丁度コーヒーが届き、またウエイトレスが去るまで口は閉じたままだ。自殺した人のことに関して話しているのだ。そんなことを無関係の人に聞かれるのはあまりいい気はしない。

「で、私はそう思いながら虐めていた側の生徒と教師の家に押しかけてみたんです。するとかなり意外なことがわかったんです。まず生徒のほう。彼らは皆、至って普通の生徒です。寧ろ自殺した子と同じように、どちらかというと目立たない人間です。決して不良だったりとか、そう言った経歴を持たない子たちでした。ただ虐めに関わっていたことには嘘はないみたいでした。

 ただ普通自殺に陥るような虐めは一切していないらしいです。どちらかというと軽くからかった程度で、それ以上のことは何一つしていなく、それも一回きりだったらしいです。担任の先生に聞いてみても帰ってくる答えは似たようなもので、からかっているのを笑いながら止めたぐらいだと言っていました。これらに関しては恐らく、学校側の裏の事情があるんだと思います」

「そうか」

 あまり聞きたい話ではない。自分の通っている学校で、自殺した生徒がいることについてなんらかの事を起こさなければいけない状態であり、そのために四人の生徒を退学させ、教師も一人辞めさせられた。まったくふざけた話ではあるが、このふざけた話にはまだ続きがあるような顔で早乙女が俺を見ていた。見ながらコーヒーを少し口に含み、飲み込む。

「まあ、ここからは大したことじゃないんですけれど、この五人は皆、同じことを言っていたんですよ。自殺した彼は、からかわれていたことなど、一切覚えていない、と」

 やはりあの一年生が死んだのは夢魔の仕業らしい。葉月の言っていたことが嘘ではないのだろうと、今頃になってようやく思えた。俺はまだあの異質な存在を信じられていない。俺が返ってくると、待ちかねていたかのように喜んでくれるのに、そんな彼女を信じることができない。

 彼女は、人じゃないから。

「先輩、一応話はこれだけですが、部長の体調とか大丈夫そうでしたら伝えてあげてください。あと、気を付けてあげてくださいね。ここに来て欲しいと伝えたあと、部長に電話したんですが、あまり元気がないような感じだったので。たぶんあの人を助けられるのは、先輩しかいないですから」

 自分にはどうすることもできないことが悔しいのか、少し寂しそうな顔をする彼女にかける言葉が見つからない。彼女は神崎のことを気遣っているのに、結局は俺に託すしかないと思っている。

「じゃあ、俺は行くぞ。金置いとくから、それで払っとけ」

 こんなことしか言えない俺は、どうしようもない奴だと自分でそう思う。だがそれよりも気になることがある。神崎のことだ。俺が出かけるときは、普段と変わらない明るい声で話していたはずだ。それが早乙女と話したときにはそうでなかった。

 店を出て、交差点を渡る。

 これからは何かあったら俺に話すように言おう。絶対にそうしてもらわなければ困る。そんなものこちらの都合だというのはわかっている。だが、それでも、俺は彼女を護りたい。なんとしてでも、夢魔の魔の手から救い出してあげたい。

 今の、なんの力ももたない俺には何もできないかもしれないけれど、それでもできる限りのことはやってみせる。後悔はしないように。彼女に悲しい想いをさせないように。

「軟弱だな」

 その声に振り向いた瞬間、視界が真っ白になった。


          六


 生臭坊主。その言葉がぴったりそのまま当てはまるような存在に会ったのは、小学五年生の頃だ。

 その頃の俺は、幽霊という存在と普通の人間との区別をしなくてはならなくなっていた。人前で、本来目に見えないはずの存在と接することを避けるようになった。それまでは友達も家族も俺のしていることを面白がっていた。だが五年生、上級生という立場上からも、同級生たちから気味悪がられ、家族もその遊びを止めるようにと言い始めるようになった。始めは遊びなんかではないと言い張り続けていたが、ある日突然、母親から言われた一言で俺は諦めた。

 “本当だろうが、嘘だろうが関係ない。世間で認められないことを堂々とすることは野蛮でしかない”

 確かそんな風に言われたような気がする。もしかしたらもっとわかりやすいように言われたかもしれない。だがそんなことはどうでもいいんだ。俺は幽霊という存在を見てはいけないのだと自分に言い聞かせ、一切その存在に触れようとしなかった。

 それから半年ほどが経った頃、丁度夏が終わりを迎えようとしていたある日のことだ。どうしてそこに行ったのかまでは覚えていない。俺は日馬神社の賽銭箱の傍の石段に座っていた。

 そこはちょうど日陰になっていて、暑さを凌ぐには良い場所だった。周りには木々が生い茂り、吹きかかる風は心地良いものなのを俺は当時から知っている。

 俺が彼の存在に気付いたのは、日が沈み始め、空が茜色に染まりかけた頃だった。彼は俺を見降ろして、小さく笑みを浮かべて見せた。彼の着る狩衣(かりぎぬ)差袴(さしこ)は白く、普段見慣れない色のそれは、当時の俺からでもだいぶ異質なものに感じられた。本来もうひとつ、烏帽子を被っていなければおかしいのだが、当時の俺にそんなことはわかるはずもなかった。

 彼は俺の隣に腰を下ろし、一緒に何も言わずに時間が過ぎるのをただ待っていた。待つ理由などない。ただ待ちたいから待っていた。

「暑いな」

 そう呟いた彼を見上げ、そうでもないと返す。彼はここの神主で、着ているものも神に仕える者のそれであるのだが、髪の毛は長く、後ろで結っている状態だ。神職には似つかわしいほどの髪。それに関して聞いたとき、彼は女にもてなくなるから坊主頭にするのだけは勘弁だと言っていた。

 そして俺に、人ならざる者は見えるかと問うてきた。ふつうそんな質問する人間はいない。いてもそれを信じる者がいない。俺のような、特別な人間を除いて。彼はきっと知っていたのだろう。俺が人ならざる者(当時の俺は幽霊と言っていた)を見ることができるということを。

 彼はいろんなことを教えてくれた。人ならざる者についてのことがほとんどだったが、他にも俺が知りたいと思ったことのほとんどを彼は知っていて、冗談交じりに教えてくれた。俺が十四のとき、彼から紫色の字が書かれた護符を貰った。もしも大事な人が危険な目に遭ったときに使うようにと。

 護符に秘められた力。護符に封じられた力を、文字が形を為さなくすることによって解放する。そうすることで力は身近な者に宿り、その者の身体能力を向上させることができる。当然それには代償があり、多くの護符を使用すればそれだけ能力が向上するが、必要以上に肉体に負担がかかってしまう。そのため一度に使う枚数は制限されていて、二十枚以上を一度に使用することは避けるようにと言われていた。

 それからというもの、俺は彼の指導のもと護符を使用した特訓をさせられていた。いつ何時強力な人ならざる者に遭遇するかわからない。それに遭遇したときに、大事なものを護れるようにと、この特訓は開始された。俺にそんなに大事なものができるとは思わなかったし、そんな強力な奴が現れても、目の前で俺を指導している本人、鏑木がなんとかしてくれるんじゃないだろうかと思うのだ。それでも彼は有無を言わせず特訓をさせてきた。何度か逃げようかと思案したが、きっと彼はどこまでも追ってくる。そんな気がしたのだ。

 何せ彼は、学校が休日で寝て過ごしていて、気付いたら約束の時間を過ぎていたとき、我が家まで迎えに来るぐらいだ。俺は家の場所を教えていないというのに。それならばどこに逃げようとも追ってくるのではないかという恐怖心によって、逃げることなど一度もしなかった。

 それから三年間、厳しいだけの特訓は続き、そして忌まわしきあの日を迎えた。神崎の両親が殺されてしまったあの日だ。

 あの日、何故彼は神崎の両親を助けてくれなかったのだろう。あのときはいなかった? もしかしたらそうなのかもしれない。俺が苦戦を強いられているときにちょうど戻ってきて、そして助けを乞うことを止めさせたのかもしれない。

 それでも、俺は彼を許してはいけない気がする。長時間留守にするなら俺に連絡してくれればいい。なのになぜそれをしなかったのだろうか。すぐに帰るつもりだったが、予定外のことが起きて帰るのが遅くなってしまった? 彼に限ってそれはないだろう。彼は見た目からしていい加減だ。仕事はするがそれだけで、あまり評判も良いものではない。

 たまに子どもからは人気があるという声もあるが、やはりそれで大人から見た神主としての評価というものはそれほど良くるはずもない。

 そんな彼は、俺に護符を大量に使わせるような言動を発し、そして俺はそれに従った。結果神崎の親を殺したやつは倒し、俺は気を失ってその間に鏑木からなんらかの治療を受け、ほとんど無傷の状態で目を覚ますことができた。

 しかし、俺は彼にそのときの礼を言えていない。彼は俺を助けたあと、どこかへと消えてしまったのだ。最後に言葉を交わした神崎からは、しばらく帰らないということだけ伝えられた。

 そしてその彼は今、俺の目の前にいる。喫茶店の側で声をかけられ、その直後に気を失ったところまでは覚えている。気が付いたときには神社の境内に座っていて、今まで夢を見ていたのではと錯覚してしまった。それにその追い打ちをかけるように鏑木が俺の目の前に立ち、見降ろしてきているのだ。

「よお、久しぶりだな」

 だがこの言葉で、今までのことが夢でなく現実であったことがわかる。

「本当はお前が力に目覚めるまで、戻る気はなかったんだ。だがな。お前があまりにものんびりし過ぎているから、お前の大事な人はまた危険に晒されている。本当に、おろか者だよな」

 言われなくてもわかっている。だが俺にはどうすることもできない。彼女を救う力など、どうやって手に入れればいいというのだ。

 鏑木は俺の考えていることが分かっているように、頬を緩めて、俺の頭を思い切り殴ってきた。あまりの早さに追いつくことができず、見事に直撃してしまう。

「少し避けたな」

 彼がそう呟き、そうかそうかと一人頷いている。

「おい、今すぐあの娘のところへ案内しろ。さっさと決着けりをつけさせてやるから」

 一瞬、俺は彼の言葉の意味を理解できなかった。




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