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第二章 過去と感染

  第二章 過去と感染


          一


 神崎からのメールに起こされ、俺はそれを迷惑だと思いながらも起き上がった。そして窓際まで行くとカーテンを開いた。

 すると彼女が微笑みながらこちらに向けて手を振った。向こうはすでにベランダに立っていて、こちらもそうするようにと指示された。暗い夜、月明かりの下で密談とは、なんとも怪しいなと思いながらもそれに従う。

「で、なんだ?」

「うーん、そうね。大した用じゃないんだけど、ちょっとしたお願いがあるの」

 満面の笑みをその美しい顔に浮かべ、何の迷いもなく答えた。それはまるでどこぞのお嬢様のような身勝手さに見えなくもないが、俺は彼女のためにならなんでもすると決めたわけで、特にこの行動に腹を立てることはない。むしろ頼ってもらえていることに喜んでいるといってもいい。

「大した用じゃないのにこんな夜中に起こしたんだな? よし。その大した用じゃない用というものを聞かせてもらおうか」

「うぅ、なんか負けた気分……。と、とりあえず率直に言うけど、私が寝てる間、傍で見ていてもらえない、かな?」

 俺は自分の耳を疑った。だから、は? と小さく声をあげてしまった。しかし彼女はこれを、聞こえなかったものだと勘違いして、口を開いた。

「あの、さ。これ何回も言うの恥しいんだからね。朝まで私の側にいて欲しいの」

 最後は消え入りそうな声。それだけ恥しいのだろう。それは当然だ。頼まれた俺だって恥しい。顔が熱くなるのを感じるほどに。

「な、何でだ?」

「ちょっと、私のこと見ていて欲しいの。もしも、何かあったら起こしてくれればそれでいいからさ」

 こんなことを頼む意図が掴めない。彼女はいったい何を言っているだろうか。そういえば昼間も俺との約束を忘れていた。それどころか、俺が先日言ってしまった言葉すら忘れていた。もしかしたらこの頼み事は受けたほうがいいのかもしれない。それが彼女のためになるのなら。それに、彼女からの頼みは断りたくない。

「わかったよ。けど、俺も朝まで起きていられる自身はないぞ?」

「うん、いいよ。たぶん、相馬くんなら私に何かあったらすぐ気付けると思うから」

 それは俺のことを信頼しているからなのか。それとも、彼女だけが信じる俺の内なる者の存在に対して言っているのだろうか。

 少なくとも今は、彼女の傍で朝まで過ごすことだけに専念しよう。そう思って俺は、ベランダの手摺に上り、彼女の傍に跳んだ。


 ピンク色のカーテンや可愛らしい熊や豚の縫い包みがあるのを見ると、やはりここは女の子の部屋なのだと自覚する。ここに来るのは初めてではないが、何度来ても居心地はあまり良くない。

携帯のサブディスプレイの明かりを点けて時間を確認する。午前三時を少し過ぎたところ、か。

 神崎のところに来てから二時間が過ぎようとしている。自分の部屋に男がいるというのに、平気で寝ていられる彼女の神経はどうかしているのではと心配になるが、それだけ俺を信用しているんだということにしておいた。そうでもしなければ、俺は男としての自信を失ってしまいそうだから。

 しかし寝ている彼女を見ていると退屈しない。寝言で何やら言っているのをじっくり聞いたり、いきなり寝返りを打つのに驚かされたり、その寝返りで彼女の手が俺の頭を直撃したり、とても楽しい。ただ、ピンクの水玉模様のパジャマ姿が刺激的すぎなのが問題ある。

 俺はこのまま正常でいられるのだろうか。それはいろんな意味で。とりあえずは眠気はない。まあ、一度寝ていたおかげだろう。

 ふと、彼女に小さな動きがあった。真っ直ぐに上を向き、小さく口を開いている。それ自体に大した意味はないのだろう。しかし彼女の身体の上に、黒い靄が現れた。それはこの真っ暗な部屋でもわかるほどの黒さ。それは純粋な黒。漆黒。気持ち悪い。これをずっと見ていたら自分を失ってしまいそうだ。これは一体、何だ?

 良く見ると、彼女の口内から少しずつだがそれが出てきている。そして靄は大きくなっていき、同時に何かの形になろうとしていた。

 靄はもっと多くの質量をもつものになり、次第に人の形へと近づいていった。漆黒の長い髪。細く真っ白な肢体。一糸纏わぬそれは、幼さの残る顔をした少女の形となった。

 俺はその少女を前に恐怖を覚えた。まだ目は閉じられているのに、彼女に見られているような気がする。彼女はいったい、何者だ?

 俺が身動き一つできないでいると、少女は目をうっすらと開き、小さな瞳は俺を見ている。

「貴方は……何者?」

 少女は俺にそう問いかけた。口を開いていないのに、声が聞こえてくる。テレパシーなどの類のように頭に直接語りかけてくるのではない。この部屋に彼女の声が響いているのだ。

「貴方は、何者?」

 俺が無言でいたためか、彼女はもう一度問うてきた。

「俺は、相馬慎治、だ」

「相馬、慎治。貴方の苦しみ。それを私が忘れさせて差し上げます」

 そう言って彼女は俺の前に降り立ち、優しく微笑んだ。漆黒の瞳。その瞳に、俺の中の何かが吸われそうになる。

 彼女は俺の苦しみを忘れさせてくれるという。つまり、苦しい想いをした記憶を、彼女は吸い取ってくれているのではないだろうか。それでは昨日、神崎が先日のあの言葉や約束を忘れていたのも彼女の所為か。

 嫌な想いをした本人だけが記憶を失い、しかしそれを知っている他の者は覚えているというのか。それは、嫌だ。俺はどの記憶も失いたくない。例え思い出せないほどの些細な記憶だって、それを失ってしまったら俺ではなくなってしまう。

 俺が俺でなくなるのは、死ぬ時だけでいい。

 だから――、

「止めろ!」

 低い声で、そう叫んだ。

 すると少女の身体から黒い何かが漏れ始める。それを見ていた俺は次第に意識が遠のき、その場で倒れてしまった。


          二


 身体が妙に重い。まるで何かが私の上に横たわっているように感じる。きっとこれのせいで目覚めてしまったのだろう。いったい、何があったのか。

 目を開けて、特に重さを感じる胸のあたりに視線を向けた。するとそこに、黒い膨らみのようなものが見えた。まだはっきりしない視界の中、わかったのはそれだけ。しかしそれは、ピンク色のパジャマとの間に見えるだけで不気味なものに感じる。

 恐る恐るそれに手を伸ばし、触れてみる。するとそれが、人の髪の毛のような感触だということに気付いた。そういえば、相馬くんが一緒にいるはずだ。

「相馬くん?」

 彼がいるのを確かめるように呼びかけた。だが返事がない。やはり胸の上にいるのは、彼なのだろうか。私は彼を信じていたから傍にいてくれるよう頼んだというのに、彼には私の想いなど届きはしなかったのだろう。だからただ寝るだけでなく、こうやって私の上で寝ているのだ。

 はっきりしてきた視界の中、胸の上にいるのが相馬くんであることがわかった。私がここで大声をあげたらどうなるだろう。もう二度と彼は、私の近くに来ることはなくなってしまうかもしれない。こんなことをされても、彼が傍から離れてしまうのだけは嫌だ。どんなに酷いことを言われても、私にはこの人がいなくてはいけない。彼がいなければ、今の私だっていない。それに、彼は私に酷いことをしても、それをちゃんと認めて、謝ってくれる。一生懸命に、頭を下げて。時には何でもするからと、泣きそうな顔で。そしてその時にした約束は、必ず守ってくれる。

 彼は、とても優しい人なんだと思う。それなのに、学校のみんなは彼とあまり関わろうとしない。誰も彼のことを信じない。たぶんそれは、私を助けてくれた力が原因なのだろう。それを誰もが気味悪く思い、彼に近寄らなくなった。きっとそういうことだろう。私だって、もしかしたら――、ううん、そんなことはない。私は彼を拒絶したりしない。たとえどんなことがあっても、私は。私だけは、絶対に。

「私は、貴方の味方でいても、いいよね?」

 私は今、笑顔で言えただろうか。相手は寝ているのに、この言葉を言うだけでどこか恥しい気持ちでいっぱいになる。でも、この気持ちは悪くない。彼が私を見ていてくれるから、私もそれに応えたい。否、そうじゃない。私は彼に見ていてもらえなくても、彼の味方でいるだろう。

 私は、彼のことが好きなのだから。

 しかしこの想いを告げるときなんてこないかもしれない。彼が私の傍にいるのは、私のことを好きだからではない。私の家族が危険に晒され、彼が助けに来てくれたことがあった。そのとき彼は、私の家族を救えなかった。母も父も、そして兄も。彼が悪いわけじゃないのに、それでも彼は責任を感じて、私のことだけは何があっても絶対に護ると誓ってくれた。そんなこと、しなくてもいいと何度も言ったのに、それでは駄目なのだと、凄まれてしまった。最初は仕方なく傍にいてもらったが、一緒にいるうちに私は彼に惹かれていった。どんなに恐ろしい力をその身に秘めていたって、そんなことは関係ない。

 けれど彼がそれに気付いてくれる気がしない。彼は私を護ることを自分の使命とし、他のことに関してはほとんど無関心なのだ。きっと彼自身、そのことにも気付いていないかもしれない。もしそうだったら、教えてあげなくては。

 そう思いながら、彼の頭をそっと私の隣に退けて、タオルケットをかけてやった。

 時計を見ればまだ午前四時三十分を過ぎたばかりだ。今回はあの夢も見なかったことだし、もう一度寝よう。そして、目覚めたときにまだ彼がいれば、一緒に一日過ごさないかと訊ねてみよう。

「おやすみ」

 私はまた、深い眠りの中に落ちていった。


          三


 俺は何か間違いを犯してはいないだろうか。彼女に疚しいことをしてはいないだろうか。たとえ気を失っていたからといって、そんなことをしていたらどうしよう。俺は彼女を護るべき人間で、襲う側ではない。どんな意味でも、だ。

 だが俺は彼女の隣にいて、彼女は俺の腕を抱いている。何だ? いったい何があった? いかん、頭が混乱して何も思い浮かばない。

 彼女を起こす? それが一番いい気がする。俺が起こしてやればまだ言い訳もしやすい、かもしれない。

「か、神崎?」

 熟睡して一声かけたぐらいでは起きないだろうと思っていたのが間違いだった。彼女は俺の声に反応して、そっと目を開けた。

「ん? おはよう相馬くん」

「あ、あの、さ、もう昼前みたいなんだけど、図書館には行かないのか?」

 わずかな沈黙。神崎は机の上に置いてある小さめの時計に目をやり、顔を青褪させた。

「なあ、大丈夫なのか?」

「うーん、ちょっと危ないかも。ていうか、遅刻? 相馬、くん、ちょっと悪いけど、帰ってもらえるかな」

 必死に平静を保っているが、明らかに動揺している。もしかしたら彼女はこのことを忘れていたのかもしれない。そして起きたら俺と一緒にいるつもりだったとか考えていたり……否、それはないな。

 ともかく俺は帰るようにと言われたのだから、その通りにしよう。だが、帰る前に一度確認しておきたいことがある。聞くのも怖いが、それでも聞かないで帰るとそれを引き摺ってしまいそうでもっといやだ。

「えっと、俺、お前に変なことしていないよな?」

「え?」

 彼女は俺から視線を外し、作り笑いを浮かべる。

「う、うん、何もしてないよ。それより私が寝てる間、何かあった?」

 あからさまに俺が何かしたような言い方をしている。それでいて問い詰めさせないように、逆に問いかけてきた。

「ああ、一応あったけど、それはお前が帰ってきてから話すよ。それでいいよな?」

 小さくうなずく彼女を見て、俺は窓から出て行った。

 自室に戻ったあと、冷静にあの女のことを考える。彼女から感じたものは、黒と白。あれは両方を兼ね備えていた。それも今までに見たことのないようなもの。そうだ。俺はもう何も見えなくなっていたはずなのに、その俺にでも彼女の姿が見えた。もしかしたら、本体はもっと別の姿をしていたかもしれない。だが何もわからない。

「思い出した」

 不意に、頭上から声が落ちてきた。見上げるとそこには、あの少女の顔があった。驚きのあまりに小さな悲鳴をあげてしまったが、今の彼女からは禍々しさを全く感じられない。あのときとは全く違う雰囲気を持つ彼女は、俺に向けて笑みを浮かべた。

「貴方、私のことを覚えていないのかしら?」

「覚えているも何も、神崎の部屋で会ったことしか」

「そんなのは当たり前でしょう。私は貴方のことを思い出せたというのに、貴方はまだ思い出せないの? 私たちが会ったのは、あの娘が家族を失った日、だよ」


          四


 神崎愛美。

 彼女が引っ越してきた一昨年の冬。俺のところに、彼女が挨拶をしにやってきた。そしてまるで女神のような美しい笑顔で、初めまして、と。そして自分の名前を言った。一瞬だが、この子は人間なのだろうかと、本気で悩んでしまった。少し前まで見えていた異形のものの類なのではないだろうか。そんなことを、ほんの僅かにだが思っていた。

 だがそれはありえないと、自分で分かっていた。もう見えないものを、また見えるようになるなんてことがあるわけがない。だから余計に話し辛く、彼女の顔もまともに見ることができなかった。そんな俺に気付かないのか、彼女は笑いかけ、

「同い年だよね? 学校も一緒だといいね」

 と言っていた。

 翌日、彼女は同じ学校に通うということを伝えに来てくれた。正直、嬉しかった。俺は女子生徒との関わりはあまり持っていなくて、それなのにこんなに奇麗な子と一緒に学校に通えるとなると、喜ばずにはいられなかった。だが、彼女の前ではそれを表に出さぬよう、細心の注意を払うことを心に誓った。

 そのまま二ヶ月が経ち、卒業まであと僅かとなった。俺と神崎は、できるだけ近くの高校に揃って受験し、共に合格。一緒に喜び、教科書等の販売会、入学前の説明会なども一緒に行った。

 いつの間にか俺たちは親しくなり、まるで幼馴染のように錯覚することもある。いつも一緒にいるのが当たり前のような俺達。本当に付き合っているようなそんな気分にも陥った。家族ぐるみでの外出などもある。夜になればお互いの部屋のベランダに出て、高校生活を一緒に楽しく過ごすことを約束していた。この楽しい日々が、いつまでも続いてくれれば、と願った。だが、そんな想いもすぐに崩れ去ってしまった。

 入学式が間近に迫った頃、神崎は家族で旅行に出掛けていた。場所は箱根の温泉だそうで、温泉巡りなどが好きな彼女が立案したところなのだろう、と勝手に想像していた。

 そして帰宅予定日。その日の朝あったメールでは、夕方までには着くと思うとあった。だが午後六時を過ぎても帰ってくるどころか、連絡の一つもない。何かあったのではと、俺は両親に聞いてみた。だが彼らも何も聞いておらず、心配しているところだったらしい。

 もどかしさの余り外に出ようとしたそのときだった。携帯電話の着信音が部屋の中に響き渡った。俺はそれに飛びつくようにして、電話に出た。

「もしもし、神崎か?」

「う、うん。は、早く来て! お父さんとお母さんが、あ、ああ」

 泣くのを堪えるようにして喋る彼女。一体何があったというのだろうか。

「おい! 今すぐ行くから場所を教えろ!」

「え、えっと、町の外れの、神社」

日馬(くさま)神社か。すぐだから、絶対そこを動くなよ! いいな」

 念を押して、俺はさっさと通話を切った。そして机の中に入っている白い護符の束を持って、階段を駆け降りた。すると丁度父親がいて、俺の持つ護符に目をやった。

「それを持つのは、久しぶりだな」

「使わなきゃいけないときが来たんだよ」

「そうか。じゃあ、せいぜいがんばれよ」

 父親は、母親と妹と違って、それなりに俺のこの力を認めている。使いどころを間違えない限りは、一切口出しをしない。だが、手助けもしない。関わりたくないという意思を、真っ直ぐぶつけてきてくれるぶん、この父親は信じることができる。

「ああ、行ってくる」

 俺は、父親に笑ってそう言い残し、神崎のもとへ走った。


          五


 日馬(くさま)神社。この日馬市に古くからある神社で、三百年の歴史があるらしい。関東大震災や、世界大戦などでも傷一つつかなかった。当然そんな神社があれば有名になる。だから正月には多くの人が、市外から訪れる。

 だが今は三月下旬。今の時期に神社を訪れるなんてことはほぼ有り得ない。それなのに何故神崎はあの神社に行ったのだろう。人ならざる者によって護られる神社に。

 走りながら何度もそれを考えた。何故あの神社に行かなければならないのだろう、と。ただ見てみたかった? 否、彼女は俺や家族と正月に行っているはずだ。それなのに何もない神社を見に行っても仕方がないだろう。この時期に何かお参りするようなことでもないだろうし。

 それでは何故?

 浮かび上がる最終的な答えは一つだった。

 人ならざる者によって護られる神社。彼らは人のために護っているわけではない。自分たちのために護っているのだ。人と関わらないために。だが正月だけは多くの人が訪れる。そのときだけは、神主との交渉によって人に危害を加えることを一切しない。だが彼らの主な食料は、魂。人が多く訪れる時期に魂を喰らえずに、腹を空かした者が、極稀に訪れる参拝者を喰らうことは考えられないのだろうか、と。

 これこそが俺の導き出した答え。だが正解だとは思わない。思いたくもない。もしそうなら、彼女の両親だけではない。彼女自身も危ない。

 しかしまだ一つ疑問が残る。だが神社まであと少しなのだ。それならばこの目で確認すればいい。

 神社への石段を駆け上がる。何度も上ったことのあるこの石段がとても長く感じられる。早く上りきり、彼女たちを救わなければ。

 ずっと走り続けていたため、体力に限界が近づいてきた頃、ようやく石段を上り終えた。すると目の前に広がったのは、朱色の空と、赤黒い水溜り。その水溜りの中二に二人倒れていて、その側で一人が座り込み、見動く一つしない。まるで生きていないようにも見える彼らに近寄る。

 思ったとおり、神崎一家だった。倒れているのは神崎の両親。座り込んでいるのが神崎だ。両親は両手足を切断されており、その切り口から大量の血が今もなお溢れ出していた。それが頭で理解できると、吐き気を感じた。だがここでそんなものを感じていてはならないと、必死で抑えた。

「神崎、大丈夫か?」

 彼女は見たところ、傷一つない。だがその目は生きている者の目ではない。まったく生気が感じられず、俺の声にも反応しない。きっと両親の死をその目で見たのだろう。だからそのショックでこの状態にあるだけなのだ。

 彼女の顔と同じ高さに自分の顔を下し、彼女の肩を掴んだ。

「しっかりしろ! 今救急車を呼ぶから!」

 呼んだところで大した意味はないだろう。だがそれでも必要なことのような気がする。彼女の両親のためにも。そして、彼女自身のためにも。

 消防署に連絡をした俺は、救急車が来るまで彼女の傍についているようにと言われた。言われずともそうするつもりでいたから、帰れと言われずにホッとした。

 彼女を一人にさせることはできない。今は人ならざる者の気配は感じられないが、それでも油断はできない。ただ気配を消して、タイミングを見計らっているだけかもしれないからだ。

 しかし一つ疑問がある石段を上る前に感じた疑問と同じものが。ここの神主は何故出てこないのだろう。彼には依然、自分の能力について相談したことがあり、それに似たような能力を自分も備えていると言っていた。ならば彼は彼女を救うことだって出来た筈だ。彼が人ならざる者を退治している現場だって見た。まさか、彼が襲うように仕向けたのではないだろうか。否、それは有り得ない。彼は人ならざる者のための場所を用意していると話していた。それなのにここで人を喰わせるなんてことはしないはずだ。

 俺は神主が言っていた食事場というのは墓地であると思っている。そこでなら人を殺さずとも数多くの魂を喰らうことができるから。それを確認しようと訊ねたときははぐらかされてしまったが、それらしい答えはもらっている。

 そう思った直後、強風が吹いた。片手だけ神崎の肩に掴まっていたのだが、彼女が風で後ろに倒れてしまったため、俺もそれにつられて一緒に倒れてしまった。まるで俺が彼女を押し倒したかのような形になり、そこで彼女の視線が俺に向いた。

「そう、ま、くん?」

「ああ、俺だ」

 出来るだけ冷静に、彼女をあまり刺激しないように言葉を選ぼう。

「あ、あのね、今までお父さんとお母さんが、鬼みたいなのに殺される夢を見たの。手足をもがれて、それで心臓を抉って食べたの。手足はもがれたのに、抉ったほうには何にも傷がつかなくて、そんなことあるはずないのにね。凄く怖かったの」

 今にも泣き出しそうな顔で、事実を夢であったと思いこんでいる彼女を見ると胸が痛んだ。彼女は両親の死をなかったものにしようとしている。そう感じたから、俺は事実を包み隠さず伝えなければならないのだと悟った。

「お前の両親が死んだのは、事実だ。鬼みたいなやつも、存在する。今この場には――」

 言いかけたとき、寒気を感じた。何かが背後に立っている。

「貴様は、人か。それとも妖か?」

 問いかけ。男とも女ともわからない、年老いた老人のようなしわがれた声。しかしその声とは裏腹に、それから発せられる殺気のようなものがピリピリと肌に伝わってくる。この殺気だけで、人を殺すことができるのではと思うほどのもの。

 まるで人を憎んでいるかのようなそれに、俺は疑問を持った。当然人ならざる者は、人により居場所を奪われてしまっている。これだけでも十分に人間を恨む理由に足り得る。だが今までその恨みや憎しみを表に出さなかったはずだ。それなのに今になって、このときに何故人を殺す?

 俺は、そいつのことを正面から見据えることを覚悟した。俺が人とわかれば襲ってくるだろう。それでも、俺は後ろの奴と向き合わなければならない。

 だから、これが最後になってもいいようにと、俺の後ろにいる者に気付き震える神崎の頬をそっと撫でる。

「大丈夫。お前は、俺が命を賭けてでも護ってやるから」

「え?」

 言葉にならないような声だったが、久しぶりにまともな反応をもらえた気がする。きっと、彼女は大丈夫だから。

 そう思って、俺はポケットに突っ込んであった護符を数枚握りしめ、振り返った。

 視線の先、そこには俺の三倍もあろう巨躯の者がいた。しかしまるでテレビ画面に映る砂嵐のような外見で、その形は形容し難いものだった。

「貴様、人だな。貴様! 我の身体を返せ!」

 そいつは訳のわからない言葉を発しながら、何の予備動作もせず、ギリギリ見える速度で俺の前に突っ込んできた。最初はただそれだけに思えた。だがそのとき、俺は思い切り吹き飛ばされ、賽銭箱に叩きつけられた。身体中に強烈な痛みが走る。背中への衝撃が強く、肺が潰れてしまったのではと思うほどだった。しかし握りしめた護符のおかげでそれは免れたようだった。

 俺の持つ護符には、不思議な力が宿っている。それは十分程度、俺の身体を少し頑丈にしてくれて、僅かに身体能力も上げてくれるというものだ。効果は枚数を多く握り潰すほど増大する。先ほど握り潰したのは四枚。それでも相手のスピードには追いつけなかった。ならばもっと多くの枚数を潰すしかない。残りは十六枚。しかしこれを全て使えば、限界を超え、きっと彼女を助けることなく俺の身体が壊れてしまう。だから少しずつ様子を見なければならない。

 身体を起こし、更に四枚の護符を潰す。

 直後、身体の痛みは和らぎ、再び突っ込んでくる相手の動きが良く見えるようになった。だから相手が近づいてきたところを見計らい、ギリギリのところで避ける。すると相手は俺がぶつかった所為で歪んでしまった賽銭箱に突っ込み、粉々にしてしまった。当然中に入っていた硬貨は辺り一面に散らばる。

 それを見ながら、もう二枚握り潰し、体勢を立て直そうとする相手に突っ込んだ。

 相手の目がどこにあるのかわからない以上、動けないうちに攻撃するか、相手より速く動く以外に勝つ方法はない。ならば、護符を出来るだけ使わずに済む前者を選ぶ。

 拳を握りしめ、それを相手の身体に幾度となく叩きこむ。出来れば相手が消え去るまでそうしていたい。だが、それが出来るほど簡単な相手ではない。

 わずかにこちらの打撃で怯んだが、すぐに次の動きを見せたのだ。左の拳を当てた直後、人肌のようだった感触がまるで水のようなものになり、俺の拳を取り込んでしまった。すぐに引き抜こうとするが、まったく身動きが取れない。そのとき、俺は大きな過ちを犯していることに気が付いた。

 相手は、わざと俺に隙を見せたのだ。俺は人ならざる者にそれほどの思考力があるなんて思ってもみなかった。だから単純に避けて攻撃の繰返しをすればなんとかなるかもしれない。そう思っていた。だがそれこそが大きな間違いだった。こいつは人の魂を二つも食っているのだ。それならばそれ相応の知能を身につけていたところで何の不思議もない。それに今になるまで気付けなかった。

 俺はもう、殺されるのを待つしかない。

 人ならざる者が、徐々に俺を取り込んでいく。中は心地よく、このまま取り込まれるのを黙って見ていても良いような気がしてしまう。

 俺の半身が取り込まれようとするその時だった。一人の男の声が、この境内に木霊した。

「喝っ!」

 俺は何度もこれを耳にしたことがある。ここの神社を護る者。ここの神主である、鏑木正臣の声を。

 すぐに俺は勝利を確信した。俺も神崎も助かる。この人ならば、すべてを終わらしてくれる。

「相馬! 私に助けを乞うか。今まで私のもとに訪れていたのは何のためだ。自分の護るべきものを、他人に護らせるのか。もしもそうならば、私はお前を助けるつもりなどないぞ」

 思いもよらぬ言葉。彼はこの期に及んで、傍観者でいるつもりなのだ。

「お前ならば、今のその状況からでも相手を打ち負かすことが出来るはずだ。残る半身にある、自分の力を思い出せ!」

 そうだった。まだ俺には、十枚もの護符が残っている。まだそちらは取り込まれていない。ならば、まだ勝ち目はあるではないか。

 三度、ポケットの中の護符を握りしめる。ありったけの数を。壊れる前に、この相手だけは仕留めてみせる。中から破壊してやる。

 取り込まれた半身の側で、何かが弾け飛び、俺は意識を失った。


          六


「そして貴方の身体の内側はズタズタに引き裂かれた状態となったが、それを鏑木正臣の力によって回復した。自宅のベッドの上で目覚めた貴方は、何故彼があの子の両親を助けなかったのか疑問に思い、問い質すため再度あの神社へと向かった。だがそこに彼の姿はなく、あの日から神社に人の姿はないのよね?」

 少女は俺の隣からこちらの顔を覗き込むようにして、あのときのことを語った。何故彼女はそれを知っているのだろう。あのときにあったと言うが、俺にはそんな記憶など一切ない。

「その顔じゃあ、何も覚えていないのね。貴方が意識を失っている間のことを」

 呆れたように溜息を吐かれ、不快に感じたがそれを抑えた。

「夢の中のことをほとんど覚えてないのと一緒だろ。まあ、微かにでも覚えているものなんだろうけどな。ふつうは。だがそれもないし、俺はそのときに何かを体験したという記憶もない。お前のことだって、昨日見たのが最初だと思ってる」

「そう、ならそれはそれでいい。ただ一つ言っておくと、あの神崎愛美は今危険な状態かもしれない。中には貴方達の言う人ならざる者がいて、それの力は徐々に大きくなっている。私はそれに取り込まれそうになったけど、どうにか外に逃げることができた。まあ、一瞬意識を乗っ取られて、しまったけどね。でも貴方のおかげで私は助かった」

 そこで一息ついて、さらに続ける。

「貴方にはそれだけの力がある。あの護符に頼らなくても、人ならざる者を退けるだけの力が。でもこのままあれを放っておけば、貴方でも太刀打ちのできない相手になるの。だから、早めにあいつを、夢魔を倒さなくちゃいけない」

 彼女の言っていることのほとんどが意味のわからないものに感じられるが、だが神崎に危険が迫っていて、俺ならば助けることができるかもしれないということ。

 そうだ。彼女はまた命の危険に晒されているのだ。まだ具体的な兆候は見られないが、記憶がおかしくなっている。もしこのまま放っておけば自我が崩壊し、生きているとは言えない状態になってしまうのかもしれない。

 それだけは避けなくてはならない。だがその前にどうしても知っておかなくてはならないことがある。今隣にいる少女。彼女もまた、人ならざる者。神崎の中にもそれがいるという。そして彼女は神崎の中のものに取り込まれそうになった。つまり人ならざる者は、共食いをするということなのだろう。では、それと人の魂を喰らうのでは何が違うのか。素直にそれを問うと、彼女はなんの躊躇いもなく答えてくれた。

「違いならあるわよ。人の魂を喰らうと得られるものは、空腹を満たすというだけのもの。けれど、自分以外の人ならざる者を喰らう、取り込むといったことをして得られるものは、空腹を満たせるだけじゃない。自分の強さのパラメーターを上げることになるのよ。別に人の魂でも同じことは可能だけど、数の問題よ。人を喰らうより、仲間を喰らったほうが、ずっと良いってこと。まあ私の場合は、それでも大して強くなれないけれどね。もう、それすらもできない、不安定な存在だから」

 最後の消え入るような声は、ほとんど独り言のように聞こえた。表情もどこか物憂げで、もう余命幾許もない者のようだった。

 だがその表情もすぐに明るくなり、別の話をし始めた。

「そうだ。これから私、ここであなたと一緒にいることにする」

「はあ?」

 いきなりわけのわからないことを言い出す少女。藪から棒にそんなことを言われて、はいどうぞと言えるはずがない。それに人ならざる者、つまり普通の人間には見えないからと言って、万人に見えないわけじゃない。俺や俺の家族だって、一応見ることはできる。俺以外は力など持ち合わせていないが、それだけのことはできるのだ。

 もしかしたら他にも見える人間がいるかもしれない。否、神崎も見えているはずだ。あのときの体験から、たまに変なものを見るようになったと相談を受けたことがある。もしこのまま一緒にいることになれば、俺の私生活に支障をきたす恐れがある。それなのに一緒にいるなど、無理がある。

「無理だ。絶対に」

「貴方の許しなんて関係ない。私はここにいる。私にはもう、誰かの命を奪ったりする力すらない。つまり自分で自分の身を守れないの。だから、貴方に護ってもらうしかないの。大丈夫、あの神崎愛美を助けるときは、手助けしてあげるから。あ、それから私のことは、これから葉月と呼ぶこと。よろしくね」

 満面の笑みで勝手なことを言うそれは、神崎のものにどこか似ているような気がした。俺は女性に振り回されるタイプなのかもしれないと、心の底からそう思った。



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