第一章 夢
一
まだ八月に入ったばかり。夏休みと言う名の長期休暇もまだまだある。
正直俺は、夏休みが好きではない。まず今では大半の高校に冷暖房が完備されているというのに、何故このような長い休みを用意するのだろう。
そして何故この夏休みの中で夏期講習を設けるのか。こんな自主参加のものがあるから、同じ学年の中で大きな学力の差が生じるのではないだろうか。
こんな不公平なものが好きであるという人間の気持ちなど理解できない。
しかし、しっかり欠かさず夏期講習に参加している俺がそんなことを言ったところで説得力がないので、一度だって口にしたことはない。
別に周りに遅れを取るのが嫌だから、わざわざ白いチョークで黒板に書かれた字や、補足などをノートに書き写すわけではない。
俺は一学期の半分近くをサボタージュしてしまい、強制的に参加を余儀なくされてしまったのだ。何故半分近くも行かなかったのか。それは別に大した理由ではなく、ただ学校に行くのがダルいと感じていたからだ。
これまで小学校、中学校と、目立った休みがなかった分、俺の行動は目立っていた。何せ、病欠すると連絡して、近くのコンビニに買い物に出ただけでサボっただろと言われるくらいだ。
だから一学期の後半は休むことなく通ったのだが、終業式間近になって、担任からこのままだと出席日数が足りなくて進級出来ないと脅された。
しかし夏期講習などに出席していれば、なんとかなるかも知れないというのだ。俺はそれを真に受け、今に至るというわけだ。
だが、一学期の前半は前学年の復習がメインで、俺は大して遅れを取っていない。そもそも、休んでいる間に二年生で習う内容の半分以上は頭に入っている。その上、一昨年の冬に隣に引っ越してきた家族の一人が俺と同じ学校に通っていて、俺が休むと必ずノートを持ってきてくれていた。
その彼女も、この夏期講習を受けている。席も隣だ。しかし何故彼女は夏期講習を受けているのだろうか。彼女は一日たりとも休んでおらず、成績も学年順位で上位に位置している。そんな彼女が参加している理由はなんだろうか。
「相馬くん、授業終わったよ」
俺の名前を呼ぶ声のするほうを見ると、先ほどの話の少女、神崎愛美の人差し指が俺の左頬に触れた。
「ふふ、引っかかった」
「お前、ホントやることがガキっぽいぞ」
今の俺の言葉で、満面の笑みで喜んでいたのが一変し、両頬を膨らませ、あからさまに不機嫌な顔になった。
「な、なによ。子ども心を忘れまいとする私をバカにするの?」
「おい、それだとお前が不機嫌になるのは間違いだろう? ガキっぽいと言われたら喜ぶべきだぜ」
「へ、減らず口!」
そう言って先に帰ろうとする彼女の手を、俺は無意識のうちに握っていた。
当然彼女は驚いた顔でこちらを見ている。
「どうせ隣なんだから、先に帰ってもしょうがないだろ」
とっさにそう言っていた。こんなこと、言ってはいけないのに。
「なんで?」
俯いて、彼女は呟いた。
「なんで相馬くんは、そんなこと言うの?」
「……悪い。こんなこと言うつもりはなかった――」
言いかけて、窓の外を何か大きなものが落ちたのを見た。鳥なんかよりも大きな、飛んでいるわけでもなく、ただ落ちている。
窓の側に行き、鍵を開けていると隣に神崎が寄ってきた。
「どうしたの?」
窓に背を向けていた神崎にはわからなかったのだ。先ほど落ちたのは、人だ。
窓を開けて下の校庭を覗いた神崎が、大きな悲鳴をあげた。
二
屋上から飛び降りたのは、一年生の男子生徒。死因は頭を強く地面にぶつけたことによる脳内出血。と言われるものだと思っていたのだが、落ちる際に怖さの余り、ショック死してしまったということだそうだ。
地上六階建ての屋上から落ちたというのに、目立った外傷はほとんどなく、検死を行った人も驚いていたらしい。
そして彼は入学当初から虐めの対象になっていたらしい。それも、担任の教師が率先してそれを行っていたというのだ。親や警察にいうようなら、殺すなどと脅され続け、今日という日を迎えてしまった。
当然、その担任の教師は懲戒免職処分とされ、他にも男子生徒四人が退学処分となった。
しかし自殺した男子生徒は、遺書などを残していなかった。自宅の自室や、彼のクラスの教室、家族や友達の思い当たる場所を探しつくしたが、結局見つかることはなかった。
というのが二日前、俺と神崎が見た自殺の実態だった。
「こんなもんでいいか?」
夏休みというのに俺は報道部の活動を手伝っていた。
一週間に一度、夏休みだろうが何だろうが構わず活動する新聞部。主な活動内容は学校で起きた様々なことを小冊子やプリントにして配るというもの。
夏休みは人がこないので配らないが、始業式になると一カ月分を増刊号と称して配布する。
こういうものはあまり読まずに捨てられるものだと思っていたのだが、編集者である部長の腕が良いのか、全校生徒のほとんどが毎週これを楽しみにしている。
ちなみに部長は神崎。現在三年生の部員がいないから、ということらしい。そして俺は、こないだのことを許して欲しければ手伝うようにと脅されていた。
「うん、ありがと。これで今週分は大丈夫そうね」
俺が調べたメモを受け取ると、彼女は笑みを浮かべた。
「でも明日は学校入れないだろ。てか夏休み中はもう入れないかもしれないぞ」
「まあ、そしたら図書館かしらね。幸い部員はみんな図書館の近くに住んでるし」
「そう、か」
うん、と楽しそうに笑う彼女を見て、俺はどうしても謝らなくてはいけないと思い、しかし踏みとどまった。あのときのことを、こんなことだけで許してもらっていいわけがない。
俺の彼女に対しての罪は、こんなに軽いものじゃない。謝って許してもらえるようなものでもない。俺は一生を掛けてでも償わなくてはならないのだ。たとえ彼女がそれを望まなくとも。俺にはそれしかできないから。
「どうしたのよ」
ぼーっとしていた俺の目の前にいつの間にか神崎の顔があった。驚きはしたが、それを何とか表に出さずに済んだ。
「いや、なんでもない」
「嘘。絶対に何か隠してそうなんだけど」
「本当に何でもないんだよ」
「ならいいけど、私に隠し事するのは、できる限りしないでね」
念を押すように言われ、俺は無言で頷いた。だが、もともと隠し事などするつもりはない。少なくとも、彼女が知るべきことは、絶対に。
「それにしても、最近多いよね。自殺」
「ん? そうなのか?」
このところまともにテレビや新聞を見ていない俺にはさっぱりだ。自殺者が増えている。まあ、そんなことは聞いたことはあるが、また最近増えたとでも言うのだろうか。
「あれ、知らないの? ここ最近、この区の学校だけで二十人以上が自殺してるんだよ。って、学校サボってた人にはわからないか」
このあたりの学校だけで二十人を超える自殺者。つまりほとんどが学生だろう。しかしいくら自殺者が増えているからと言って、さすがにこれは多すぎやしないだろうか。
「まあとにかく今日はありがとね。それにしても自分から手伝ってくれるなんて、珍しいこともあるものね」
「は?」
思わずそう口にしていた。神崎は忘れているのだろうか。俺が一昨日言ってしまった言葉を。そしてそれを許す代わりに手伝えと脅してきたことを
「何よ」
毅然とした態度で、まるで自分がなにも忘れていないとでも言うように聞き返してきた。だから俺も彼女の間違いを指摘する気が失せてしまった。
「い、いや、なんでもない。ただ、これから俺の部屋に勝手に来るのだけはやめてくれないか?」
「なんで? 家だって隣なんだし、窓から侵入しても大丈夫なんじゃない? ……あれ、私何か忘れてないかな」
やはり忘れている。だが、なんとなくは覚えているらしい。ならば思い出させたほうがいいのだろうか。 ……とりあえずはもう少し様子を見ることにしよう。何か、何かがおかしいから。
「じゃあ、もう帰るね」
そう言って、彼女は俺の部屋を出て行った。
外はもう暗くなり、外に見えるのは街灯と雲の上にある月の明かりだけだ。そのほかには何もない。私は、なんでそう思うのだろう。
何か忘れている気がする。とても大事なことを。そう思ったのは相馬くんの部屋で、自分で言った言葉が頭の隅っこに引っ掛かってしまっているからだ。
“家だって隣”
ああ、そういうことか。思い出した。男子生徒が自殺した日、相馬くんが私に言った言葉じゃないの。
このことで私が落ち込んで、彼が何でもするから許してくれと言って、私は彼に今回の自殺者のことを調べてくれたら許すと言ったのだ。
何故私は忘れていたのだろう。確か昨日の夜、寝る前までは覚えていたはずだ。
それで、眠りについた私は――、そうだ、私は夢を見たんだ。
青く澄んだ空間。私は水に浮いているはずなのに濡れてはいなかった。しかしその不思議な光景はどこか懐かしく感じられた。初めて見たはずなのにそう感じるのは何故だろう。
ずっとぷかぷかと浮いているのが心地よくて、嫌なことなんて全部忘れてしまいそうで、そう思っていたら綺麗な女の人が現れたんだ。
「私は貴方の苦しみを、取り除く者。貴方が口にしなくとも、私が貴方を救います」
そして私は目覚めたのだ。夢の中に、あの記憶を置き去りにしたまま。
何か。何か得体の知れないものが私の中に?
そう思った瞬間、体中に寒気が走った。身体が震え上がり、床に尻餅をついてしまった。
私の中に何かがいる。そしてそれは、私の嫌な思い出を忘れさせている。もしこのままこんなことが続いてしまったら、私は相馬くんとの出会いを、大切な思い出を忘れてしまうかも知れない。
今回のように、思い出すきっかけなど皆無に等しいあのときのことを。




