月のまにまに
雲が渦巻き、草木が暴れて、森全体が揺れております。
ぐわあぐわあと風が荒々しく音を運び、遠くにあるはずの川のせせらぎががらがらと地鳴りのようにそこかしらげ暴れまわって。
いつも静かな大木が何か大きな生き物のように恐ろしげに身体をくねらせて、ばりばりと灰色雲は腹を立てての大泣きのこどものように。
まるで、龍でも飛んでいるような、そんな大嵐です。
しっかりと地面を掴んでいるはずの木々でさえも、少し油断してしまえばざんばらと根こそぎに引き剥がされてしまいそうな、恐ろしいかぎりの大風が通り過ぎては押し寄せて、そこらにあるもの全てが落ち着きのない様に。
森に潜む動物たちも、草木に潜む昆虫たちも、これではよほど心寂しい気分を味わっているのだろう。
そんなひどい有り様の日でありました。
そんな日に、それは訪れたのです。
小さな森の一角。人々が暮らす村から少し外れた森のうち。
何の変哲もない場所で、それは訪れたのです。
月がまんまると照る望月のこと。
ぐわあぐわあ。がららんがららん。
荒々しい風にさらされながらも、その森でも一際大きな老木に掴まって、皆々がぎゅっと身を寄せあわせて耐えている、そんな狸どもがおりました。
由緒正しき化け狸を祖先とするという大狸が一匹。
それを大将とした十数匹程度の荒くればかりの集団です。この辺りの森一帯を根城とし、普段ならやれ畑やら、やれ古寺やらとまだ若い狸たちが勢いにまかせて荒らしに荒らし回り、こずるい中年狸どもはそれけしかけてはげらげらと笑い転げている。
家畜を脅かし、人に悪さし、悪戯三昧悪行三昧。
性悪なことばかりしでかしているこずるい狸ども。辺りの人々に迷惑がられ、また、そのあまりのあくどさに畏れられ、悪名ばかりがとどろく悪党どもの集団でした。
最近などはもう、狸どもに悪さをされては困ると信心深い爺婆などがお供えや貢物をもっていくことでそれを治めようとするほどで。
しかしまあ、それでもやはり狸は狸。
いくら偉そうに振る舞ってはいても、地震雷火事親父……そんな本物のお天道様にはかないません。ましてやこんな見たこともないほどの大嵐。それに立ち向かえるほど豪気なものなど一匹もおらず、普段は荒々しくわめきたてる狸どもですらぶるぶると小さくなって怯えているばかりでした。
まんまると寄り集まって、大きなけむくじゃらとなって大嵐から身を守ろうと必死となって。いつもの堂々たる親分狸とすらその風格など見あたらぬ様で尻尾を縮みあがらせている。
他の獣どもと何も変わらぬ様子で狸どもも震えて続けていたのです。
そこに、草をかきわける音がありました。
いつもならここらは性質の悪い狸どもの縄張りと誰も近づこうとはしないはずの場所なのですが、確かに草がかさかさと音を立て何かが近づいてくる気配。こんな空風が怒っている日より、狸どもが機嫌も悪く目を据わらせているだろう日に、わざわざどんなもの好きがこんなところに訪れるのだろうと、狸どもは首を傾げました。
がさがさと草花がかきわけられて(向こう側ではがらがらと岩が崩れ落ちたような音をしております)、ほんの少しだけゆれた林の向こう(隣では大木が今にもちぎれ落ちそうなほどに軋んでいて)。
狸たちが嵐に息をころしながら見つめる先に姿を現したのは小さな子ども……まん丸な瞳にほっそりとした頬をした、少々線の細い童でした。
簡素な、薄雲の色をした衣。そこらの農家で畑の手伝いをしている時分の、ちょうど遊び盛り食べ盛りであるだろうそこらにいくらでもいそうな童です――不思議なのは、それがどうしてこんなところにいるだろうか、ということとその着ている衣が、なぜだかちっとも濡れている様子がないことです。
こんな大嵐で、いったいどうやったらそんなことができるのか。まるで、雨粒の方から童を避けて通っているような、童の周りだけ心なしか風がゆるんでおり、童が姿を現してから狸どもに吹きすさんでいた大風も大分とゆるんでいる様子なのです。
妙なことだ。おかしな話だ。そのように騒ぐ狸ども……それに気づいた様子もなく童は、何やら鼻歌などを歌いながら気軽な様子でそこらを歩き回っております。
足元に生えていた草を千切ってみたり、葉々の合間にある赤い木の実口に含んで転がしてみたり、枝を振り回して石ころを投げて、奔放に辺りを歩き回っております。
この薄ぼんやりとした林のうちでも、その灰の着物は不思議と目を引く様子で狸どももじっとそれを見つめておりました。
小岩をひっくり返した虫を探り、ひゅんひゅんと枝を振って鳴らしてみたり。
ちぎりとった葉っぱに唇をあて、ひゅうひゅうと笛と鳴らしてみたり。
好き勝手にふるまって、堂々とそこらを歩く。
初めは物珍しかった童の様子も、とくにこれといって特別なことをするわけでもないようで――そのうち狸どもは飽きはじめました。飽きるどころか、だんだんと腹を立てはじめたのです。
あんな童がどうしてあんなに偉そうに歩き回っているのか。この大狸を畏れていないというのだろうか。
緩まった風に本来の気質を取り戻した狸どもは嵐にたまったうっぷんに、その楽しそうな童が許せなくなってきたのでしょう。ぐらぐらと、大鍋の水が徐々に熱をもっていくように童へ向かってだんだんとその目をいからせて、八つ当たりにも似たような気持ちとなっていきました。
どうにも腹が立つ。どうにかその鼻を明かしてやりたい。
そのうち、ある一匹がいいました。
「あんなものこそ、ちょっくら化かしてやってこの世の道理ってもんを教えてやらねばならん」
もう一匹も言いました。
「ここで侮られてしまったら先祖たちに申し訳がたたぬ。どうにじゃ奴を追い出してやろうぞ」
そうだそうだ。やってやろう。やってやろう。
化かしてやろう。化かしてやろう。
皆々、口々にそう呟いて、人を化かすことができる(とされる)形に銘々が位置につき、うんと力を込めて必死に「化かそ、化けそ」と唸り出しました。
周り中に響いた大風に負けぬぐらいに真剣に、ぼうぼうぼうと妙なうめき声を上げながら、今まで成功もしたことのない化かしに必死となって。
そうしてしばらく。その唸り声がしばらく続いた後――ぴたりと、それが止んだのです。
あれだけ激しかった嵐がみるみる間に弱まり、雨・雷といった大音がぐるりと円で囲んだような形に飛びのいてしまったのです。時折、飛び込んでくる大きな風の音以外は遠くへと行ってしまい、空にはわずかながらの星々が覗くほど。あまりの様子、ぽかんと狸たち自体も呆気にとられ、何だか落ち着かない様子で空を見上げてみれば、まあるく浮かんだ月が大きく辺りを照らしているのをが見えました。
本当に嵐はさってしまったのだ。
そう狸たちは実感しました。
おお、これぞ大狸の神通力よ。これぞ先祖代々続いてきた化け狸の実力であり、はるか大妖として名を馳せた己たちの所業である。
その成功に狸たちは一斉に喚きだし、ぶるんぶるんと身体を震わせて雨に濡れた毛を逆立て震い立ちます。
恐ろしき狸たち。天候をも操る狸ども。
この山林いったい全てを支配し、あの鼻持ちならない狐どももくしゃくしゃにしてはじき出してやれるだろう。
そう意気巻いて、のりにのった狸たち。
その声に――
「おや、そこに誰かいるのかい」
童が声を出したました。
狸どもは改めて、童の存在を思い出しました。そして、言葉が通じていることにも気づきました。
さすがは化け狸、人の言葉も判ってしまうものだ。
そう勘づいて、さっそく狸たちはえへんえへんと咳払いをしました。この神業狸どもの力、見せてやるのももったいないがせっかくだから披露してやろうかと。
うずうずとした調子にまかせてのぼせあがったのどを震わせます。
「やいやい小僧。こんなげにも恐ろしき大風の日に、手前はこんなところまで一体何をしにきたのだい」
もっともらしいおどろおどろし気な声でそう伝えました。
脅かすのはちょいと待ってもいいだろう。化かす相手がおらねばつまらぬと。
「こんな天気だからこそ仕事がなくなってしまったんだよ」
せっかくだからこの辺りを覗きに来てみたんだ。
そう童はくすくす笑うようにしながら答えました。
「へん、そりゃあ豪気なことだ。ここりゃにゃ恐ろしい大狸なんぞが潜むというのに」
「その狸を見物しようかと思ってね。まさか、他に誰かがいるとは思っていなかったけれども」
ふふふと楽しそうに童はわらっております。
それが気にくわぬながらも狸ども豪気に笑い返します。
どう化かそう。どうおどろかそう、頭の中はそればかり。
「そうだ。ちょいと顔を見せてくれませんか」
「なぜだい」
「顔を見せてくれなきゃ、誰と話しているのかわからないじゃないかい」
「別にお前の顔なんてみたくもないさ」
そういえば、狸どもは正面からはっきりと童の顔を覗いたわけではありません。けれどもまあ、そんなものをわざわざ見ることもないだろう。どうせすぐ追い出すのだから。
面倒そうに狸たちがそう断ると、童は言いました。
「こっちは話し相手がほしいのだがね。ここらにおりてきたのは久しぶりだから、そういう相手に飢えているのさ」
おりてきたという言葉に、狸どもは気づきました。
ははあ、少し都にいっていたおのぼり小僧なのか。どうせ、都で買ったお高いものでも見せびらかせに外にでていたのだろう。あの不思議な衣も都会で流行りのものなのかもしれない。
不思議がわかった。種が割れた。
謎がとけたことにますます、狸どもは調子づきます。
「話すなら勝手に話せばいいさ。つまらない話なら聞いてもやらんがね」
「そうかい。どうせなら肩を並べて話したかったんだがね」
まあいいや、と童は肯きました。
そして、何を話そうかと迷うようにうんうん唸りながら首を傾げて。
「そうさね。ならば、顔を合わせてはできない話でもしてみようか」
「顔を合わせてではできぬ話?」
どうせつまらない話だよいやいや、己の恥を晒した滑稽談でもきけるのかもしれないじゃないか。どうせ下卑た話さ、それが人間というものだから。それなら狸も変わりないだろうさ。
落ち着きなく、それぞれが好き勝手にはやし立ております。
その間も童の言葉は続いておりまして。
「面と向かってはどうにも面ばゆい、向かわぬからこそ語れる話というものもあるだろうさ」
なんだか生意気にもそんな言葉を。
どうせ親に怒られて家出しているのだとか、寝小便をした布団を隠しているだとか、そんなものだろう。そう狸どもが馬鹿にすると。
そうかもしれないな、と童はまたひとしきり笑います。
そして、また、話し始めます。
「たとえば、ここでこう話はしているのだが、互いの姿は一度として確認していない――よしんば、お前さんからは見えていても、こっちからは何も見えてやしないんだ」
「だから、どうしたというね」
こちらからははっきり見えているというのに。
化かされている人間はこんなにもおかしいものなのかと狸どもは顔を見合わせて笑っており。
「ああ、そうさね。もしかしたら、その見えない向こうにいる誰かが実は人間じゃあなかったりすんじゃないかとか。たとえば」
どきり、その言葉に心の臓を震わせました。
まさか、自分たちが狸であることがばれてしまったんじゃないかと、背骨からしっぽの先の毛筋までぴんと張り、ぶるりと身体全体で震え上がってしまいます。
それでも胆力のある一匹が言い返しました。
「たとえば、なんだというんだい」
「たとえば、神様やら仏様といった具合のものが嵐に紛れて姿を隠しているんじゃないかとかね」
童の口から出たのはそんなもの。
狸などとは掠めもしない答えに狸どもはほっと胸をなでおろし、げらげらとまた笑いあいました。神だとか仏だとか、人間というのはすぐにそんなことをいったりするものだと。
ならばここらでちょっくら脅かしてやろうか。
「ばかものめが。そんなことあるわけないじゃないか」
「おや、そう思うのかい?」
笑いながら返すのは大男でも怯んでしまいそうな迫力あふれた声。
狸の一匹が胸いっぱいに吸い込んだ息を使ったいかり声に――けれど、童は大して驚いた様子も見せません。
「なら、こうやって見えている姿だって別のものかもしれないじゃないか」
何か言い返してやろうと一匹が言いました。
狸どもの中でも多少知恵が回って弁の立つものです。
「いくら見えていたって、それが何の皮を被っているかわからない。この前拾ったぷっくり太ったとちの実だって、開いてみれば虫食いのからっぽだったりしたんだからさ」
見えているからといってそれが本当とはかぎらない。
大きな木の実がちゃんと身がたっぷりとつまったものなのかは食べてみたいとわからない。
そういった狸に。
「そうだね。見えているからといって、それが本当なのかはわからないものだ」
うんうんと、童は頷きました。
こころなしか、先ほどよりも楽しげに――けれど、よくよく見れみればそれははっきりとわかりません。笑っているということはわかるのですが、なんだかその口も目もはっきりとはわからぬのです。
ただただ、目が丸い。ただたん、笑い声が混じっている。
ただ、それだけで。
「見えていなくともわからぬし、見えていてもわからぬものわからぬものだ」
どちらも似たようなものだと。
童はまたくすくすと笑っております。笑っているように思えるのです。
「でもま、このまま顔を見せないままでいるなら、わたしの中ではいつまでたってもわたしの想像通り。この森には話し相手を騙す化け狸がいることにでもなってしまうかもしれないよ」
そういう童。その童が今、一体どんな表情をしているのか。
なぜだか、いくら覗き込もうとしても狸どもにはそれがわからぬのです。そして、また不思議なことにそれを真っ正面から見ようと、そこに回り込んでみようという気も起きないのです。
気になりはするのだけれど、どうしても足が竦んでしまう。前足も後ろ足も、ぴりぴりと痺れたようになって動く気さえもし抜けてしまう有り様です。
ただ不思議なことに、確かに口だけは動かせるのです。
その不思議に、また狸どもは不安となって。
「お前さんは、人間なのかい?」
「さあ、どうだろうね。お前さんたちにはどう見えているのだい」
そう童はいってにこりと微笑んだように見えました。
童のように見えていたものが、楽しそうに。
それに狸どもはだんだん不安となって、ぶるぶるとなんだかわからに具合に震えはじめました。何かはわからないのだけれど、どうしようもなく恐ろしくなってしまって、心の臓まで冷え込んでしまったようで。
これから一体、己たちはどうなってしまうのだろう――閻魔の前に引き出されたように。
「そろそろ下りの時間だ」
冷えた風が吹いてきて、はっと狸どもは我にかえりました。
一瞬、どこか遠くに連れ去られてしまったように狸どもはぼうっとしていたようです。
童はとくに変わった様子もなく、そこにおり――はっきりとはわからないけれど、確かに何の変哲もない童のようで。
「話し相手をありがとうよ。そろそろ行かなければ仕事に遅れてしまう――おさぼりはいけないからね」
そういって、狸どもに手を振りました。
背中を向けて、二歩三歩と歩いた後、先ほどの草笛をぶうと鳴らし。
そうして、名残惜しそうにうんと息を吐きだしました。
狸どもの前でその吐いた息がきらきらと、わずかばかりの光を放ち――ぷうと泡のようなものがふくらんで、それが――
ぶうんぐわわん。ざばらんぐららん。
けたたましい大風が吹き抜けて、狸たちの掴まっている木々すら根こそぎに飛ばされてしまいそうな迫力ある響きが吹き抜けました。たまらず狸どもが陣形を乱してちりじりとなり、化け騙しの術がまるで泡が割れるようにぷつんとはがれ落ちて……そして、何もかもが吹き飛んでしまうような大風が通り過ぎた後。
そこに残っておりましたのは、嵐も何もないただただ露に僅かに濡れただけの草木のみでした。
先ほどまで確かにいたはずの童の姿などは影も形もなく、静かで真暗な中空に、あの童の瞳と同じようなまあるいお月さまがぽつんと浮かんでいるだけ。灰色の雲がうすく散っております。
ぽかんとする狸たちの上で、誰かが笑ったような暖かな風が吹き抜けました。
嵐などなかったような静かなお月様の下。
ひゅうひゅうと、草笛が鳴いております。