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明日の猫

明日は、猫の嫁入り

作者: haregbee

鼠の鳴き声が聞こえる度、少女の華奢な身体に震えが走った。


幼い頃、従兄から大きな鼠を顔に押しつけられて以来、少女は鼠が大の苦手になった。


鳴き声だけでも叫びだしたいほど恐ろしいのに闇の中では聴覚が鋭敏になり、床を這う音まではっきりと聞こえた。


叫んだところで助けがくることはない。


むしろ、竹刀で折檻されて、蔵に閉じ込められる時間が余計に長くなるだけだ。


悲鳴を上げないよう唇をきつく結ぶと、少女は両手を耳に当てて目を瞑った。


恐怖の中で少女の胸にひとつの願望が宿った。


生きている価値がないというならば、いっそ殺してほしい。


固く閉じられた目元から一筋の涙がこぼれ落ちた時、闇を呑みこむように強烈な光が少女を包み込んだ。




杯を置いた青年は、庭の方に身体を向けると、大儀そうに声をかけた。


「太郎や。そこにいるか」


「ワンッ」


威勢のいい返事と共に生垣から飛びだしてきた白い獣は、縁側までやってくると、寝そべっている主人をルビーに似た深紅の瞳で見上げた。


「猫が一匹来ている。蔵まで迎えに行ってくれ」


「ワンッ」


太郎は快く承知すると、蔵の方へ駆け出した。


程なくして戻ってきた太郎の背には、一人の少女が乗っていた。


見慣れない着物を着ていて、短い丈の下から白い脚がすらりと伸びていた。


身を起こして抱き上げた身体は、羽根のように軽い。


小柄で随分と痩せているが、十五歳くらいだろうか。


涙で濡れた頬を着物の袖で拭ってやると、少女はわずかに身じろぎをした後、背中を丸めた。


無垢な仕草を見つめていた青年の口元に自然と笑みが浮かんだ。


「なあ、太郎。命を捨てたいと願うのは、どんな時だろうか」


「ワンッ」


太郎はさっぱり想像できなかったが、一応吠えておいた。


「この娘は、命を捨てたようなもの。そして、誰もその命を欲しがらぬ存在。いわば、捨て猫だ」


「ワンッ」


だからといって、異界から攫ってくる言い訳にはならないと太郎は内心思っていたが、反論して主人の不興を買う気はなかった。


「捨て猫は、拾った者の物にしてよいのだったな」


「ワンッ」


最初からそのつもりだったくせにと思ったが、忠実な太郎は、少女を抱いた主人が襖の奥に消えていく様子を尻尾を振りつつ大人しく見送った。




「守谷。守谷早生は来ておらんのか」


「ここに」


品の良い落ち着いた声の方を見やると、背の高い青年が戸口に立っていた。


遅れてきたことを恥じる風でもなく悠然と立つ様は、図太いというより、貴人特有の尊大さが滲み出ていた。


堂々たる遅刻だが、初老の教師は注意の言葉をかけることなく、出席の印をつけた。


「相変わらずの特別待遇だな」


席に着くと、隣の木戸萩見が待ち構えていたように話しかけてきた。


「そうしてくれと頼んだ覚えはない」


淡々とした口調で答えた早生は、講義中だというのに黒板を見もせず、書物に視線を落とした。


「素っ気ないよ、君」


萩見は、学友の整った横顔を眺めながら、ため息をついた。


守谷早生は、すれ違う者を振り向かせずにはいられない美貌の男で、公爵家の次男である。


それだけでも十分なはずだが、一度読んだ書物の内容を全て記憶してしまう早生は教師達よりも膨大な知識を所有している。


恥をかくのを恐れるあまり、教師達は早生に必要以上に話しかけず、学友達の大半も彼を遠巻きにしていた。


好んで早生に話しかける奇人である萩見は、つれない態度にもめげずに再び話しかけた。


「今日、御宅に伺ってもいいかい」


「無理だな。客人が来ている」


「客人?兄上のか?」


「いいや」


そう答えた早生の声は、どこか楽しげに響き、書物で口元を隠しているが、笑っているように見えた。


思い出し笑いをするなんて、普通の助平な男じゃないか。


萩見はいささか興味を失ったように早生から視線を外して、黒板の方を向いた。







目を覚ました時、芙由は見覚えのない部屋にいた。


畳が敷かれた床や枕元で揺れるランプの光は、芙由に馴染みのないものだった。


蔵に閉じ込められていたはずだった。


建て直したばかりの北原の家に和室はないので、芙由は自分がどこにいるのか見当もつかなかった。


部屋の中を見回していると、襖が開いて、長身の青年が入ってきた。


美しいと形容できるほど端正な顔立ちをしているが、この青年にも見覚えがなかった。


青年は、学ランを着ていて、今時珍しく学帽を被っていた。


「顔色が悪い」


青年は片膝をついてひざまずくと、手を伸ばして芙由の顔に触れた。


冷たい指先が頬を掠めて、芙由はビクンと震えたが、勇気を出して口を開いた。


「あなたは誰?ここはど、」


「どこだろうとよいではないか」


青年は芙由の言葉を遮ると、芙由を横抱きにして胡坐をかいた膝の上に乗せた。


「私の名は、早生。お前の名前を教えておくれ」


優しい手つきで髪を梳かれている内に芙由の意識はぼんやりとしてきた。


まるで暗示をかけられているようだった。


「ふゆ。北原芙由」


切れ長の目がふっと満足そうな笑いを含んだ。


「いいかい、芙由。お前が死にたいと願った時、私はお前の命を譲り受けた。お前は髪の毛一本まで私のものになったわけだ」


「あなたのもの?」


芙由はうわ言のように呟いた。


「そう。私は、お前の主人だ」


「北原の家に帰らなくていいの?」


返事の代わりに芙由の額に口づけを落とすと、少女はすうっと寝入ってしまった。


帰らなくていいどころか、二度と帰らせる気などない。


青年は、少女の額に現れた禍々しい紫の文字を愛おしげに見つめた。



「使い魔を増やしたと聞いたぞ」


守谷浅武は、賛成しかねるといった表情で、弟を見上げた。


「増やしたといっても、愛玩用だ。可愛いだけが取り柄の役立たずに過ぎないが、こちらの魔力を浪費することもない」


「好き勝手に使い魔を増やすと議会に目をつけられる。今後は控えなさい」


「魔力のない者がひがんでいるだけだ」


早生は容赦なく言い捨てて、部屋を出て行った。


浅武は弟がいなくなると、深いため息をついた。


見目麗しく、強い魔力を持った弟を羨ましくないといえば、嘘になる。


しかし、不遜で身勝手な性格だけはいただけない。


浅武は、むやみに他人と争ったり傷つけたりするのは好きではなかった。


ゆえに弟のような性格になってしまうくらいなら、平凡な自分でいる方がましな気もするのだった。


「女でもできれば、丸くなるだろうか」


浅武は、思い浮かんだ案をそれとなく口に出してみたものの、女性に優しい弟の姿を想像することはできなかった。



早生の自室では、部屋の隅に敷かれた布団の中で少女が丸くなっていた。


掛け布団をはがすと、早生は少女の隣に寝転んだ。


突然冷気に晒されたせいだろう。


眠っている少女は、暖を求めて早生にしがみついてきた。


「据え膳食わぬは男の恥だな」


肌蹴た浴衣からのぞく白い肌に唇を寄せた時、少女が目を覚ました。


「わせ?」


寝起きの掠れた声が甘美な誘いに聞こえたので、早生は行為を続行した。


しっとりとした肌は滑らかで吸いつくように柔らかい。


鎖骨の辺りを強く吸うと、白い肌が一点だけ赤く色づいた。


「やめて、早生」


小さな手が背中を叩いたので顔を上げると、今にも泣き出しそうな芙由が目に映った。


早生は、潤んだ瞳をじっと見つめてから、口を開いた。


「いいか、芙由。何度も言っているが、お前は私のものだ。私の望み通りに扱ってよい存在だということを自覚しろ」


咎めるように言い聞かせると、芙由は叱られた子供のように身を竦ませ、緊張のせいか、せわしなく瞬きを繰り返した。


「しかし。まあ、よいか」


小動物のような愛らしさにあっさりと陥落した早生は、芙由を強く抱きしめた。




芙由は、自分が「使い魔」になると言われた時、まったくぴんとこなかった。


しかし実際に早生の部屋から一歩でも外に出ると、紛うこと無き黒猫になってしまうのだから、芙由が「使い魔」とやらになったことに疑いの余地はなかった。


一度屋敷の外に出ようとしたら、はじき飛ばされてしまったので、外には出られない。


逃げる気は全くなかったのだが、外に出ようとしたことがばれた夜は、早生に散々いたぶられたので、もう二度としないと心に決めた。


結局早生が学校に行っている間、芙由は猫の姿になって、屋敷内をうろつくのが日課になった。


金の鈴をつけて「みゃあ」としか鳴けない黒猫の芙由を怪しむ者はいないので、好きなだけ屋敷を探検することができた。


何日か過ごして、早生達が生きている世界は、芙由の世界と異なった世界だと分かった。


雰囲気としては、江戸末期から明治期にかけての近代日本といったところだが、江戸や明治といった名称が存在しないので、芙由の知る日本ではないことは確かだった。


早生は、公爵家の次男で、姓は守谷といった。


守谷家は、芙由がかつて住んでいた北原の家よりも大きな屋敷で、大勢の人が働いたり、出入りしていた。


屋敷で働く人々は芙由を見かけるたび、頭を撫でてくれるので、芙由は彼らのことがすぐに好きになった。


他人に優しくされたり、可愛がってもらった記憶のない芙由にとっては驚くべきことだった。


こんなことなら、最初から猫に生まれていれば幸せだっただろうと本気考えたりした。


とりわけ好きになったのは、公爵夫妻だった。


早生の兄である守谷浅武は、若年ながら、当主として公爵家をしっかりと支えているようだったし、妻の彰子は、優しい心遣いで夫に尽くしていた。


早生の兄だということもあって、初めの内は警戒して近づかなかった芙由だったが、愛情溢れる夫妻を見かける度にどんどん好きなり、最近では彰子の園芸仕事について回るまでの仲になった。


芙由は、彰子の傍で寝転んでいて、虫が彰子に寄ってくると、飛び上がって退治した。


その度に彰子は鈴を転がしたような笑い声を上げて、芙由の頭を撫でてくれるので、芙由は嬉しくて仕方がなかった。


浅武も気のいい男で、彰子のお気に入りの猫を見かけると、親切な態度を示してくれた。


芙由が生臭い魚よりも甘い菓子を好むと知った浅武は、時々こっそりと珍しい菓子を差し入れしてくれることもあった。


ある晩、浅武に貰って取っておいた菓子が早生に見つかった。


早生は、豆に砂糖がついた菓子を忌々しげに睨んだ後、口に放りこんでしまった。


「近頃、餌付けされとるようだな。菓子くらい、欲しければいくらでもやるぞ」


「早生にもらうと見返りを要求しそうなんだもの」


うっかり本音を漏らしてしまった芙由は口元を押さえたが、後の祭りだった。


早生は笑顔を浮かべているが、周囲には明らかに不穏な空気が漂っていた。


「私がいつどんな見返りを求めた?」


布団の中に逃げ込もうとしたが、足首を掴まれて、布団も払いのけられてしまった。


艶やかな笑みを浮かべた早生の筋張った手が芙由の浴衣の帯にかかった時、ふと動きが止まった。


「お前、年は幾つだ?」


「十四」


芙由が答えると、硬い胸板に頭を引き寄せられた。


頭上で早生がふうと息を吐いた気配がした。


よく分からないが、芙由は自分が危機を脱したことを察した。


「十五になったら、嫁入りだ。それまで、見返りは期待しない」


布団に入って目を閉じると、どこかで鼠の声がしたが、不思議と恐怖は感じなかった。


まるで本物の猫になってしまったようだ。


本当は明日で十五歳だけど、黙っておいた方が良さそうだと考えながら、芙由は深い眠りの中に落ちていった。

続編は「明日は、猫に革靴を」です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今回も素敵でした〜。毎回どきどきさせられっぱなしです!
2011/11/07 22:37 退会済み
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