幸福論――ある父親の回想
私には娘がいた。
亡き妻の面影を色濃く宿す、柔らかな金髪と琥珀色の瞳を持つ一人娘のマリア。
どれほど仕事で疲れ果てていても、お帰りなさいと抱き着いてくる娘の笑顔を見れば、一瞬で疲れなど吹き飛んで行った。
可愛いマリア。娘は私の生きる希望だった。
娘が貴族の令嬢として華やかな社交界にデビューし、貴族の元に嫁ぎ、一生涯、何不自由なく幸せに暮らすこと――それこそが、私の人生における最大の目標であり、長年の悲願でもあった。
そうだ。全ては愛しい娘の為だったのだ。
今でこそ貴族を名乗っているが、かつての私は平民だった。
かつての我が商会――クラーク商会は、食料品や日常の消耗品などを扱う小規模な商会だったそうだ。
だが、小さな町のよろず屋に過ぎなかった商会は、祖父の代で大きく変わった。
祖父は隣国の上質な絹織物を仕入れ、自国の貴族層に向けて売り出した。
祖父の目利きは確かだったらしい。
貴族達は、手触りの滑らかな極上の織物に瞬く間に魅了された。
そして商会は、一躍、上流階級御用達の商会へと昇りつめた。
その成功のおかげで、父は男爵令嬢だった母を妻に迎えることができた。
母の実家は貧しい没落貴族に過ぎなかったが、その『高貴な血筋との繋がり』は、貴族達との取引を広げていく上で大きな力になった。
この結婚を祖父や父は大層喜んだが、母自身は平民になった自分のことを不幸だと嘆いていた。
そして、一人息子の私を、どうしても王都の学院に通わせると言い張った。
王都の学院は、主に貴族の子女が通う場所だが、私のような平民にも入学を許されている。
ただし、それには条件が二つあった。
入学試験を優秀な成績で通ることと、多額の寄付を納めること。
幸い、私にはそのどちらの条件も簡単に満たすことができた。
学院を卒業した後、私は父と同じように男爵家の令嬢を妻に迎えた。
彼女は学院の同級生で、私達は在学中からお互いに好意を持っていた。
妻は母と違って、自分が平民に嫁いだことに不満を漏らすことは無かった。
だが一度だけ。
生まれたばかりの娘を腕に抱き、「この子は、デビュタントの白いドレスを着ることは無いのね……」とぽつりと呟いた。
その時の妻の虚ろな表情が、その後ずっと私の頭から離れなかった。
娘が一人で歩き始めた頃。
産後の肥立ちが悪く床に伏せることが多かった妻は、風邪を拗らせてあっけなくこの世を去った。
最愛の妻が旅立ってから暫くの間、私はただ茫然と抜け殻のようになって過ごしていた。
世の中から全ての色彩が失われてしまったかのような虚しさの中、ただひたすら時の流れに身を任せる日々。
だが、ある時久しぶりに抱き上げたマリアの、妻にそっくりな琥珀色の瞳を覗き込んだ時――私はようやく現実へと引き戻された。
娘の小さな手が私の頬に触れる。
その温もりに胸の奥が締め付けられた。
私が最愛の妻を失ったように、この子もまた母を亡くしたのだ。
そして、この子を置いていった妻は、どれほど心残りだっただろう。
溢れ出る涙で頬を濡らしながら、私は心の中で固く誓った。
この子を、絶対に幸せにしてみせる、と。
それからの日々は、とにかく必死だった。
娘を幸せにする――その一心で、私はがむしゃらに働いた。
商会はあっという間に大きくなり、莫大な利益を上げるようになった。
その金で跡継ぎのいない没落貴族の爵位を買い上げ、私は念願だった男爵の地位を手に入れた。
娘はついに貴族の令嬢となった。
これで娘は王宮で行われるデビュタントの夜会に、白いドレスを着て参加することができるのだ。
妻が生きていたら、どれほど喜んだことだろう。
その時の私は、娘が幸せな未来に一歩ずつ近づいていると信じて疑わなかった。
15歳になると、娘は学院に通い始めた。
私自身が学院に通っていた頃には、『成金の平民』などと揶揄されることがたびたびあった。
なので娘も、『成金の娘』と虐められたりしてはいないだろうかと気を揉んでいたのだが――どうやらそれは杞憂だったようだ。
控えめで、あまり前に出ることのない娘は、私と違って周りからそれほど疎まれることは無かったようだ。
けれども、父である私が強引な取り引きをして悪評がたってしまったら、娘までもが悪く言われてしまうかもしれない。
そう思い、今まで以上に誠実な商売をすることを心がけた。
結果的に、目先の利益よりも相手との信頼関係と息の長い付き合いを重視することで、商会の信用はますます高まっていった。
娘は――マリアは、素直で優しい子だった。
どちらかというとおとなしい性格で、外に出かけるよりも、家で本を読んだり刺繍をして過ごすことの方をより好んだ。
友達はそれほど多くはないようだったが、お互いに親友と呼び合う者はいたようだ。
私は自分のことを、娘に甘い父親であると思っていた。
娘の気持ちに寄り添う、話の分かる良い父親だと。
その証拠に、娘にはいつも、好いた男と結婚して良いと言っていた。
学院で気に入った者がいたら言いなさい。できるだけお前の希望が叶うようにしてやろう。ああ、とは言え、相手が格上の伯爵家や侯爵家となると、相当手こずるかもしれないがね。男爵家や子爵家の子息であれば有難いのだが――
そんな風にふざけたように笑いながら言ってはいても、娘の希望を叶える為ならば、私は本当になんだってするつもりだった。
娘を貴族に嫁がせ、幸せな人生を送らせること。
それは私の長年の夢であり、絶対に成し遂げねばならない妻との約束だ。
娘が幸せになるのならば。その為ならば、私はどんな苦労も厭わない。
もうすぐ卒業という頃になって。
娘はようやく、好きな人がいるのだと恥ずかしそうに打ち明けて来た。
だが、信じられないことに、娘が選んだ男は商会で働く平民だったのだ。
早くに両親を亡くし天涯孤独となったその男のことを、私はずっと真面目で仕事のできる人間だと信じ切っていた。
いずれは隣国の支店を任せても良いとまで思い、さんざん目を掛けてやっていたと言うのに、まさか恩を仇で返すとは。
許せなかった。腸が煮えくり返るような怒りを覚えた。
私はすぐさまその男を解雇した。
そして、二度とその顔を見せるなと罵り、叩きだすように追い出した。
私は娘に言った。
あんな男と一緒になっても、幸せになれるはずが無い。
お前は貴族の元に嫁ぎ、何不自由のない満ち足りた人生を送るべきなのだ、と。
だが娘は、縋り付くような目で必死に訴えた。
私はあの人と一緒でないと、決して幸せにはなれない。
私の幸せは私が決める。お父様が決めつけるのはよして、と。
許せなかった。
なんて愚かな事を言うのだと、腹が立って仕方がなかった。
せっかく苦労して貴族の身分を手に入れたと言うのに、何故、自ら進んで平民に戻ろうとするのだ。
だが娘はまだ若い。
しかも大事に育て過ぎたせいか、世間知らずなところがある。
娘には現実の厳しさがまだ理解できていないだけだ。
言葉を尽くして何度も言い聞かせれば、きっと自分が間違っていることに気付くだろう。
そうだ、娘は賢い子だ。
そしてとても優しい子なのだ。
自分を愛する父のこの思いを、きっと理解してくれるに違いない。
だが、私の思いは裏切られた。
娘はある日、黙って姿を消した。
自室の机の上に置かれた手紙には、こう書かれていた。
――お父様ごめんなさい。私は彼と一緒に幸せになります。
手を尽くして娘の行方を必死に捜したが、何故かすぐには見つからなかった。
ようやく娘の居場所がわかったのは、娘が出て行った日から三年以上が経った頃だった。
娘は、王都から離れたグリーンズ子爵領で、ひっそりと暮らしていた。
その子爵家は、娘の親友の嫁ぎ先だった。
ようやく上がって来た報告書には、信じられないことが書いてあった。
娘は、ひと月前に亡くなっていた。
あの男も、娘より半年前に病死していた。
そして二人の間には、生まれて間もない男の赤ん坊が遺されていた。
報告書には、夫の死後、身重の娘が苦労していたことが記されていた。
親友であるグリーンズ子爵夫人からの援助があったとはいえ、一人きりでの出産はどんなに大変で心細かったことだろう。
その後、産後の肥立ちが悪かった娘は、生まれたばかりの子供を親友に託し静かに息を引き取った。
私はすぐに、グリーンズ子爵領へと向かった。
その馬車の中で、私はずっと娘に問いかけていた。
ああ、マリア。お前は幸せになると言って出て行った。なのに、どうして――
グリーンズ子爵領に入るとすぐに、村外れに建つ教会に向かった。
娘の亡骸はそこに埋葬されている。
教会でシスターから娘の墓のある場所を教えて貰い、足早に向かった。
すると、遠目にだが、墓の前に立つ男女の姿が目に入った。
女性の方には見覚えがあった。間違いない。
いくらか年を重ねてはいるが、彼女は娘のたった一人の親友だ。
では、彼女の腕に抱かれているあの赤ん坊は――私は息を詰め、その幼い顔に目を凝らした。
赤ん坊の髪は、黒髪だった。
目を閉じているせいで、瞳の色まではわからない。
だが、その髪だけで、私に嫌悪感を抱かせるには十分だった。
娘と同じ金髪ではなく、憎いあの男と同じ黒髪――言いようのない怒りがこみ上げてきて、私は彼らに背を向け、足早に馬車へと戻った。
結局、赤ん坊はグリーンズ子爵夫妻に引き取られることとなった。
娘の親友だった子爵夫人は、身体が弱く子供を授かることが難しいらしい。
なので、娘の子供を正式に養子に迎えたということだった。
それからの日々は、地獄の様だった。
ああ、マリア。
お前は幸せになると言って出て行ったのに、あんなにも不幸に死んでいった。
あの男を選ばずに貴族の元に嫁いでいれば、今頃お前は、笑顔で暮らしていたかもしれないのに。
どうして私の言う事を聞かなかったんだ――
いや違う、悪いのはこの私だ。
私が意地を張らずに娘とあの男の仲を許していれば、あの子は、マリアは死なずに済んだかもしれない。
少なくとも、あんな遠い所で一人寂しく命を落とすことはなかったはずだ――
八つ当たりのように娘を責め立てたくなる衝動と、自責の念に押しつぶされるような葛藤。
いずれにせよ、絶望と後悔から逃れられることはできないのだ。
そしてその苦しさに耐え兼ねた私は、最後には必ず娘を奪ったあの男のことを呪った。
何年も、何年も。
そんな風に終わりの見えない闇の中でもがき続ける私の元に、ある日突然、手紙が届いた。
差出人はアンソニー・グリーンズ。
彼はマリアの忘れ形見――そう、私の孫だった。
「お初にお目にかかります。アンソニー・グリーンズと申します」
そう言って彼は丁寧に頭を下げた。
憎むべき黒髪――だが、初めて間近で見るその瞳は、亡き妻やマリアと同じ透き通った琥珀色だった。
彼は自分が置かれている状況を淡々と語った。
6年前、12歳の時に亡くなった養父母に代わり、自分がグリーンズ子爵を継いだ。
その際、養父の弟である戸籍上の叔父が、後見人となった。
後見人は賭博で作った借金の為にグリーンズ子爵の資産を無断で使いこんだ。
それだけでは飽き足らず、領地を担保に借金をまで作っていた。
そして先日、後見人の行方がわからなくなった――
最後に彼は、自分とグリーンズ子爵領を買ってくれないか、と言い出した。
つまり、グリーンズ子爵家の借金を肩代わりして欲しい、その代わり自分は何でもする、という取引だった。
「何故、私のところに来た?」
そう問いかけると、彼は少し考えてからこう答えた。
かつて、養父母が貴方のことを信頼できる人物だと話していた。
それに、貴方は爵位を上げることに並々ならぬ意欲をお持ちだと聞いている――
どうやら彼は、私が自分の祖父だと知って頼ってきたわけではないらしい。
張り詰めていた気が緩んだ直後、微かに残念だと思う気持ちが押し寄せて来た。
彼の養父母が私のことを信頼できる人物と評したことは嬉しかった。
だが、『爵位を上げることに並々ならぬ意欲をお持ちだ』という言い方は頂けない。
それでは、『金で爵位を買い上げる野心家ならば、子爵になるチャンスを見逃すはずがないだろう』と侮っているように聞こえて、相手を怒らせてしまう可能性がある。
そういったことは、商談ではできるだけ避けるべきだ。
まあ、こちらを信頼し正直に話をしているのだと思えば、好感が持てなくもないのだが。
いずれにせよ、彼はまだ若い。
それに今は追い詰められていて、言葉を取り繕う余裕も無いのだろう。
だが、こうして一人で乗り込んでくる大胆さは評価できる。
場数を踏ませて鍛えれば、いずれは立派な商人となるはずだ――
そこまで考えてふと、昔、ある男にも似たような印象を持ったことを思い出した。
だが、その考えをすぐさま消し去り、目の前の青年に向かって『いいだろう』と頷いた。
それから私は彼に代わってグリーンズ子爵となり、すぐさま借金を返済し、領地経営に心を砕いた。
先代のグリーンズ子爵夫妻には大きな恩がある。
彼らが守って来た土地を、廃れさせるわけにはいかない。
アンソニーは、隣国の支店で一から商売を叩きこむことにした。
隣国の支店を任せている男は、信頼のおける人物だ。
彼に鍛えてもらえば、立派な男に育つに違いない。
※ ※ ※
あれは、グリーンズ子爵となってすぐの頃。
近くの領地の伯爵家で開かれた、嫡男の結婚披露の夜会。
私は一人の令嬢と出会った。
セシリア・オールコート伯爵令嬢。
新婦の友人として招かれていた彼女の名前には、聞き覚えがあった。
彼女はアンソニーの元婚約者だった。
彼女は新婦と仲の良い友人だったようで、幸せそうに微笑む新婦と笑顔で言葉を交わしていた。
それを見るともなしに見ていると、背後の令息達の囁き声が耳に飛び込んできた。
『セシリア嬢は、パーシヴァル公爵令息の求婚を断ったらしい』
『本当か? 俺はシンクレア侯爵令息との縁談を断ったと聞いたぞ?』
『どちらも真実だ。俺は二人と友人だが、二人ともまだ未練たらたらだったぞ』
『そんな良縁を断るなんて、もったいない。セシリア嬢は今でもアンソニーのことを思っているんだね』
『無理もない。あいつは良い奴だったからな』
孫を褒める言葉も混じっていたせいだろうか。
私は彼らの話をもっとしっかり聞こうと聞き耳を立てた。
彼らはその後、隣国へ行ったアンソニーのことを案じ、新たな婚約を結ぼうとしないセシリア嬢のことも気にかけていた。
そんな話を聞いてしまったからだろうか。
それとも、幸せそうに微笑む新婦を見つめる様子が、どことなく寂しそうに見えたせいだろうか。
その後で挨拶に来た彼女に、私はアンソニーが隣国で元気に暮らしていると伝えた。
すると彼女はパッと明るい表情になった。
やはり彼女は、未だにアンソニーに未練があるようだ。
高位の貴族の令息達から求婚されるだけあって、彼女はとても美しかった。
それに、少し話しただけでも、彼女が思いやりに溢れた心優しい人間だとわかる。
そんな彼女が、このまま婚期を逃してしまうのを見過ごすことはできない。
「ですから、貴女ももう、彼のことなど忘れて幸せになった方がいい」
思わず、私はそんな言葉を口にしていた。
初対面の人間にいきなりこんなことを言われて、彼女はさぞかし不愉快だっただろう。
だが、私はどうしても言わずにはいられなかった。
「……彼にそう言うように頼まれたのですか?」
「いいえ。私個人の意見です。彼はもう平民になったのです。いつまでも彼にこだわっていてはいけない。貴族の女性は貴族の元へ嫁ぐべきだ。そうでないと幸せにはなれない」
それは、私がかつて娘に何度も言い聞かせた言葉だった。
「……私は彼のことを忘れるつもりはございません。それから」
両手をぐっと握りしめ、怒りをこらえるような低い声で、彼女は私の目を見つめながら言った。
「私が何を幸せだと思うのかは、私自身が決めることです」
――私の幸せは私が決める。お父様が決めつけるのはよして!
かつての娘の姿が、目の前の少女と重なる。
「…………そうですか」
かろうじてそう答えたが、その後はもう言葉が出てこなかった。
セシリア嬢は静かに礼を取り、その場を離れて行った。
それからも、彼女とは何度も会う機会があった。
会うたびに、私は彼女に『彼のことはもう忘れて、新しい幸せを手に入れるように』と忠告した。
だが彼女は首を振り、『私は彼のことを諦めるつもりはありません』と答える。
お互いに意地になってしまい、会えば必ずこのやり取りを繰り返した。
だがそれだけではない。
私はアンソニーの近況も伝えたし、彼が未だに独り身であることも教えた。
諦めろ、と言っておきながら、同時に彼女が諦められなくなるような情報も伝える。
己の矛盾に満ちた行動に、自分でも訳が分からなくなった。
だが、そんな会話を交わしているうちに彼女とはすっかり打ち解け、私はいつしか彼女のことを本当の孫のように思うようになった。
※ ※ ※
グリーンズ子爵となって10年。
領地は以前と比べて栄え、子爵家の財産もかなり増えた。
隣国の支店を任せている男から上がって来る報告では、アンソニーはかなり有能で、もう一人立ちさせても何の問題もないと太鼓判を押されていた。
もう、良い頃合いだ。
私は、大事な話があると隣国からアンソニーを呼び寄せた。
『よく頑張ったな。これは祖父から孫への贈り物だと思って受け取れ。商会も、グリーンズ子爵の爵位も、領地も、全部お前に譲ることにする』
何らかの予感があったのか、そう告げても彼はあまり驚かなかった。
だが、続けて告げた言葉には、目を見開いて固まっていた。
『私はお前の実の祖父なのだ』
私は彼に頭を下げた。
私が意地を張っていたせいで、お前の母親は亡くなった。
一人きりになったお前を、父親と同じ黒髪だというだけで引き取らなかった。
そのせいでお前には随分と不幸な目にあわせてしまった。
本当に、申し訳ないことをしてしまった――
許して欲しいなどと言う事はできなかった。
なので、ただひたすら頭を下げ続けるつもりだった。
だが、そんな私に、アンソニーは言った。
『どうか頭を上げて下さい。何があろうと、私にとって貴方は恩人です。借金を抱えて途方に暮れていた時に手を差しのべてくれただけでなく、私が一人前になるまで見守っていてくれた』
その言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
『確かに苦労はしてきたと思いますが、不幸なだけではありませんでしたよ? 養父母に引き取られたことは幸運だったと思いますし、隣国でも多くの優しい人々と過ごすことができました』
そう言って微笑んだ彼の瞳は、妻や娘と同じ透き通った琥珀色で――
堪え切れなくなった感情とともに溢れ出す涙を、どうにも止めることができなかった。
その後、しばらくして。
私の元に、一通の招待状が届いた。
アンソニーとセシリア嬢は、どうやら次の春に結婚式を挙げるらしい。
是非とも祖父として、来て欲しいとのことだった。
ふと見ると、招待状の余白にアンソニーのものではない字で『私の勝ちですね!』と書き添えてあった。
セシリア嬢は、どうやら私と勝負していたつもりらしい。
これには思わず笑ってしまった。
思えば私も随分と年をとった。
最近では、床に伏せることも多くなってきている。
この先、何年生きられるだろうか。
おそらく、それほど長くはあるまい。
妻や娘に会えると思えば、あの世へ行くのも悪くはない。
だが、一つだけ。どうしても心残りがある。
アンソニーとセシリア嬢が結婚し、幸せに暮らす姿をこの目で見届けたいのだ。
彼らが思う、彼らにとっての幸福を、この目で確かめたかった。
欲を言えば、ひ孫をこの腕に抱きたいが、そこまでを望むのは強欲すぎるだろう。
目を閉じ、幸せそうに笑うかつての娘の笑顔を思い浮かべながら、私は心の中でそっと呟く。
――ありがとう、マリア。
お前の選んだ幸せは、この愚かな父をこの上なく幸せにしてくれているよ。
最後までお読みいただきありがとうございました。
この物語は、幸福論(アンソニー視点)、幸福論――セシリアにとっての幸せとは(セシリア視点)に続いて、アンソニーの祖父の視点から『幸福』について考えてみたお話です。
もしこちらのお話をお気に召して頂けましたら、他の二つの短編もあわせてお読み頂けますと嬉しいです。




