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幽州の雄 鮮于輔 追筆

作者: 田子 泰
掲載日:2026/09/16

3年ぶりに更新してみる。

前作:https://ncode.syosetu.com/n4838ie/

AIによる考察強化もあります。


本作品はカクヨムにも転載しております。


一応前回の考察が鮮于輔考察に役に立ちそうなので細かい修正こみで新規執筆。

鮮于輔、字は不明。


KOEI三国志でも14で初登場する存在感のなさと北の重鎮ぶりを考察していければと。


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【参考資料:KOEI 三国志14】


初登場:三国志14


統率74 武力69 知力65 政治70 魅力72


161~229の69歳没


相性:96(蜀[75]と呉[125]の間、【劉虞】[96]と同じ相性・【袁紹】[101]、後漢に近い。【田疇】[42]・【田豫】[31=【司馬懿】]・【閻柔】[40]ら近場の後の魏[25]を生きた人物とは大きく異なる)


所属軍歴

劉虞→閻柔→袁紹→曹操


親愛武将:【閻柔】【田豫】【劉虞】 険悪武将:【公孫瓚】


北にいる無駄がない量産型万能武将。武将数が少ない代わりに能力を万能化させた、設定面倒くさい言われるタイプ。


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【鮮于輔の簡単な歴史】


幽州漁陽郡出身。

初出は劉虞配下の【従事】。


【劉虞】死後、【公孫瓚】に反発。


同僚だった【鮮于銀】、【斉周】と手を組み、【劉和】と【麹義】を援軍に迎え入れ、そして異民族の王になった漢人【閻柔】を【烏丸司馬】に推戴、協力を取り付けて【公孫瓚】攻めを敢行する。


195年漁陽太守【鄒丹】を破り、鮑丘の戦いで【公孫瓚】を破るも、【公孫瓚】の易京籠城の前に敗れる。

その後は故郷漁陽の太守代行となり、【閻柔】の【護烏丸校尉】奪取に協力した。


地盤を固め、盟友に助力し、大敵【公孫瓚】も【袁紹】の手で滅亡と盤面は整いつつある【鮮于輔】であったが、二択の選択を迫られた。


【曹操】か【袁紹】か。建安五年(200年)官渡の戦いである。



【鮮于輔】は判断に迷い、元公孫瓚軍の【田豫】を長史として抜擢して助言を求めた。【田豫】は【曹操】に帰順すべきと進言して、【曹操】に帰順した。


【鮮于輔】は【曹操】から【建忠将軍】【都亭侯】に任命された。


(※対異民族将軍位である【度遼将軍】にも任命されていた資料もあるが、任命されていた時期が不明。【徐邈】伝にも書かれているあたり、兼任していたかも)


建安十年(205年)、【曹操】は【袁譚】を攻略し、【曹操】の支配域が幽州に繋がると正式に【曹操】へ臣従するが烏丸から攻撃を受けて包囲された。


4か月ほど耐えると【曹操】軍の援軍が来たため、烏丸は撤退した。


その後は魏の北を支える将軍として、異民族である烏丸・鮮卑を懐柔して、北部の安定に貢献した。



【劉備】死後、曹丕の命令で【劉禅】の蜀に内密の詔を送って投降を薦めていたとされる。【後主伝】




ここからは筆者の考察だらけ。

資料を乱雑に読み漁って組み合わせいるだけ。

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〇鮮于輔を考える1-鮮于氏から考える

【鮮于輔】は幽州漁陽郡出身。以上。


・・・と言うのはあまりにも寂しすぎるので資料を集めて考察する。

歴史上に残っている鮮于氏はそこそこいる。


〇血縁と思しき人たち 可能性高め。

・鮮于弘[元譽]【膠東王国相】鮮于璜の五世祖

・鮮于操[仲經]【謁者】鮮于璜の高祖父

・鮮于琦[璋公]【孝廉】鮮于璜の曾祖父

・鮮于式[子儀]【督郵】鮮于璜の祖父

・鮮于雄[文山]【州従事】鮮于璜の父

・鮮于璜[伯謙]【後漢/雁門太守】(44-125)[出展:鮮于璜碑]漁陽郡雍奴県出身。

・鮮于寛[顔公]【後漢/太尉掾】(鮮于璜長男)

鮮于黼(せんうほ)[景公]【後漢/州別駕従事】(鮮于璜次男)

・鮮于晏[魯公]【後漢/雁門長史】(鮮于璜三男)

・鮮于魴(鮮于璜孫)

・鮮于倉(鮮于璜孫)

・鮮于九(鮮于璜孫)


・鮮于銀【後漢/騎都尉】同僚。従弟が無難か。鮮于璜孫が三人は存在するから再従兄弟もありうる。

・鮮于嗣【魏 楽浪/涿郡太守】[晋書:毌丘倹伝、張華伝など] 幽州にいる地方官。張華推挙しているあたり、地方の関係があると推測される。子か孫世代の可能性は高いかと


この人たちについては出身地や時代の前後関係から同族であると考察可能。


鮮于氏から考察するために重要そうな書物の存在があった。

《鮮于氏家譜》一巻

《鮮于氏血脈圖》一巻


ただし、両方散逸済みのため、家譜、血脈図を用意出来る程度には豪族であったと考察にはなるだろう。


〇赤の他人 鮮于氏


・鮮于[褒/裒]【京兆尹|新/後漢、出身は上谷郡】[出展:後漢書第五倫伝/陰興伝] 

表記揺れがあるが、同一人物を推測される。第五輪を推挙した人。[上谷鮮于裒]と言う記載がある。また、鮮于璜碑の祖先の祖父世代あたりで被るため、別一族と推測される。

・鮮于丹【呉】は情報が無さ過ぎて考えようがない。呂蒙配下の寄せ集め部隊から出世した将軍。

・鮮于嬰【晋 寧州/平州刺史】[晋書:慕容廆伝など]

初出は【巴西軍司】。【寧州刺史】含めて蜀に縁を持った人物。

・鮮于亮【前燕 揚威将軍/斉郡太守】出身は范陽郡(涿郡|隣郡の人)、特定不可能。

・鮮于乞【趙王|五胡十六国】丁零出身。

・鮮于修礼【北魏】丁零出身。

・鮮于世栄【東魏】漁陽出身。

・鮮于枢【元】漁陽出身。世代が離れすぎてて考察不可能。

・鮮于(セヌ|선우)現代の韓国の姓。起源は明の時代。并州【太原】が本貫。2015年で3,329人。


他の鮮于氏でこんなにいるけど、考察で拾ってほしくないのでここで上げておきます。

鮮于氏の異民族出身は丁零出身が初出のため、考察の邪魔です。



上記を把握した上で鮮于氏を見ていく。


鮮于の姓は箕子朝鮮(紀元前12世紀~前194)の末裔。殷滅亡で国外追放された殷王族の末裔である。某国から存在を抹消される朝鮮王朝だが、出身は中華内部。

この出自に関しては韓国の鮮于(セヌ)氏の自称とも言われたが、1973年5月出土の鮮于璜碑の発掘によって真実と判明した。


[鮮于璜碑一行目【其先祖出于殷箕子之苗裔】]



そして、【鮮于輔】は【鮮于璜】と同郷(同郡出身。同県かは不明)かつ、平和である後漢の100年では全くの別族になることはないと推測できる。時折中央へ向かう人物もいるが【鮮于輔】は中央に興味無し。


・同県かは不明なのだが、【鮮于輔】は元【公孫瓚】配下の【田豫】を旧知として長史に採用している。【田豫】の出身地が【鮮于璜】と同県であるため、同県の可能性がある。


・石碑を作る程度には財力が少しだけあった。

(ただし、死後40年で作成した事から、辺境の豪族にすぎず、資金力や中央への影響力は乏しかった)


【鮮于輔】は【箕子朝鮮の末裔】で漢化した王族の末裔の【地方豪族】。土豪化していたと思われる。

【公孫瓚】戦において、【騎都尉】【鮮于銀】が【従事】【鮮于輔】に従っているため、【鮮于輔】が一族の長、【鮮于銀】が分家と想像できる。

まぁ、筆者の考察なので修正することは十分にありうる。


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【鮮于輔を考える2-劉虞臣下の中での格】


大司馬【劉虞】の臣下を見ていく。名前がわかる限り羅列する。


・【公孫瓚】【奮武将軍】


--無双・大戦の壁--


・【魏攸】【東曹掾|七品官相当】※【劉虞】臣下。【公孫瓚】処分を諫めるも病死、【劉虞】のストッパーが外れる。

・【田疇】【従事/掾】※豪族。【劉虞】の書を持って長安に行く。後に隠居。魏の議郎。

・【鮮于輔】【従事】


--KOEIの壁--


・【温恕】【涿郡太守|五品官】※魏揚州刺史【温恢】の父。臣下ではないが支配下にいる。

・【鮮于銀】【従事→騎都尉|七品官相当】※【田疇】と共に長安へ行き、【鮮于輔】と共に【公孫瓚】に立ち向かった

・【斉周】【従事】※【鮮于輔】と共に公孫瓚に立ち向かった。

・【程緒】【従事】※代郡出身。【公孫瓚】攻めを諫めて処刑された人

・【公孫紀】【従事】※【公孫瓚】攻めを反対して寝返った人

・【趙該】【別駕従事】※名前と役職しかわからない。妹が仙人。【巵林】【霊飛経[上清瓊宮霊飛六甲左右上符]】、【歴世真仙体道通鑑/后集巻三 趙愛児】

・【尾敦】【故史】※【劉虞】の首を奪還して埋葬した人

・【孫瑾】【故常山相】※【公孫瓚】支配に反発して処刑された人

・【張逸】【常山掾】※【公孫瓚】支配に反発して処刑された人

・【張瓚】【常山掾】※【公孫瓚】支配に反発して処刑された人


日本で出ているゲーム類でまともに出てる奴が誰もいないよー。



お前らどうしていたのか武将編


・【盧植】(190~192、【董卓】から出奔後、【袁紹】の軍師として赴くまでの間。末子【盧毓】が幽州にいる事から、故郷涿郡にいたと見る。【劉虞】支配下にいた大物儒者)


・【程普】/【韓当】 呉の武将。幽州出身。二人とも【孫堅】時代からの古参なのだが、いつ従軍したのやら。

【程普】は右北平郡土垠県。【韓当】は遼西郡令支県、公孫瓚と同郷。

・【鄒靖】(幽州の将軍、【劉備】を雇った人物で、【張温】に助言出来る程度の実力者。【張純】の乱以降名前が見えなくなる。病死??)



【劉虞】の臣下は【魏攸】を除いて【従事】だらけで役の高い人物が見当たらない。

一応副州長官と言える【別駕従事】として【趙該】がいるが、彼の記載は道教書籍で唐代で書かれた事、【劉虞】の役職が【幽州刺史】であるため、【劉虞】が群雄化した反【董卓】期でなく、黄巾の乱前の可能性もある。


また、常山が支配下にあるあたり、常山は【劉虞】の影響下にあった事、そこの出身である【趙雲】は【袁紹】支配下では無いため、【袁紹】に従う理由もない。


【劉虞】自身は太尉、大司馬であるため、開府を許される立場であり、専用の臣下を用意出来るが、その役職についているのは【魏攸】だけである。他は誰だったのか、誰も置かなかったのかは不明。



また、【盧植】や一桁年齢の【盧毓】はともかく、【盧植】の他の息子たち、結婚して嫁と子供がいた人がいるため、幽州の役人であった可能性がある=【劉虞】の文官だったとも考察できる。


【温恢】の父、【温恕】は後の考察に影響するため挙げているだけで劉虞配下とは限らない。



ここから見る限り、【鮮于輔】の【劉虞】軍での立場はあくまで州で雇われた役人に過ぎず、豪族の長が役人になった地方議員的な在り方に見える。


【劉虞】の治世で故郷は安定したが、昇進出来たかと言うと割と微妙。

大恩だったかと言われると微妙。まぁ、それでも雇ってもらえるだけマシ。

この後の【公孫瓚】の事を考えると。


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【鮮于輔を考える3-劉虞死後~公孫瓚滅亡】


【鮮于輔】は【公孫瓚】に立ち向かった。理由は推測される。


【公孫瓚】の政治方針。

役人や豪族を活用せず、商人や占い師などの当時評価されない人々。よく税を取り立てる酷史を積極的に採用した。ただ、籠城で五年ほど単独で受けているあたり、ガチで稼いで兵糧を貯めこんでいた【公孫瓚】は評価されるべき。


【鮮于輔】は上記考察から豪族。【公孫瓚】から採用されるはずもなく、解雇される。

上が変わった事による方針180度変更での解雇。まぁ、ブチ切れます。

我らを使わないなら消えろ、わかりやすい戦争理由です。



初登場の仕方的に【劉虞】に対する忠義のために動く人と書かれているが、【鮮于輔】はそれよりは地域に根差している。忠義よりは地域。


鮮于氏考察から【鮮于輔】は土豪タイプ。故郷からは動かない。故郷から動かないけど力は欲しい。故郷から動きたくないから、中央志向は微妙。



どちらかと言うと【劉虞の弔い】と言う大義名分を支持したのは外野である【袁紹】であると推測する。


193年、【袁紹】は【公孫瓚】と【李傕】政権から派遣された【太僕】【趙岐】によって停戦しており、【劉虞】死亡時には【袁紹】は【公孫瓚】攻めが実行出来なかった。

※この停戦も割と謎。ただ、停戦の効力は三年程度効いていて、【鮮于輔】【麹義】敗戦後=曹操が献帝擁立するあたりまで効いている。


【鮮于輔】【閻柔】連合軍は上記の理由により、【袁紹】の直接援護を受ける事が出来なかった。

援護に来れたのは【袁紹】軍じゃない戦力。旗印のボンボン【侍中/劉虞の息子】【劉和】と【涼州の傭兵】【麹義】だけであった。


【麹義】は元々【韓馥】配下ではあるが、正式な支配下ではなく、あくまで傭兵扱いだったのだろう。

だから、不要になったら適当な理由をつけて殺される。


【鮮于輔】は言う事をあまり聞かない異民族以外は【劉和】と【麹義】しか使えず【公孫瓚】に籠城されたが最後、兵站も維持出来ずに敗れた。


【鮑丘の戦い】では野戦、故郷と言うのもあって【公孫瓚】相手だろうと撃破したけど、攻城戦に異民族兵は向かなかった。



【公孫瓚】に敗れたが漁陽に加えて、代・広陽・上谷郡・右北平の合計五郡を【公孫瓚】体制から切り離し、幽州西部の支配を脱却させることに成功している。


その五郡の統括者として【鮮于輔】が居座る事になる。これは後に【曹操】側に着いた時の役職である【督幽州六郡】が支配体制を示している。


ここで寝返らない幽州西部唯一の郡である【涿郡太守/温恕】の存在感。残るは遼西一帯と涿郡ぐらい。遼東以東は【公孫度】が支配しているから。



※【温恕】/【涿郡太守】 【温恢】伝より死亡時に太守であったと考えられる(温恢が故郷に戻った話)。そのため、【温恢】の年齢(温恕死亡時15歳、45歳没)と【張既】の死亡年(黄初4年223年)、その後任の話から【温恢】の死亡年は224~226あたりと考えられるため、【温恕】死亡は194~196年。死後も支配体制が残ったとも考えられる。その残った支配者は【公孫瓚】の最後の助言役となった【関靖】(太原出身)と想像する。あくまで推測だが。



【鮮于輔】は【公孫瓚】に敗れた後、故郷の太守代行になったとしかない。故郷の太守以上の役職には就けない不文律が存在した後漢の時代であるため、太守を自称する事は出来ず、代行でしかない。

中央から離れ、記録者もいない辺境。何をしていたか、どのように安定化させていたかはわからない。

易京の戦いには参戦していただろうが、本隊は【袁紹】なのであくまで包囲支援だけと推測する。


他に当時でわかっている事は【護烏丸校尉】【邢挙】を殺して【閻柔】に与えたことだけ。同時期、【邢顒】が【田疇】の下へ逃げ込む。199年から200年の出来事。



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【鮮于輔を考える4-鮮于輔と袁紹】


【鮮于輔】と【袁紹】。【公孫瓚】攻めで間接的に協力関係にあるが、直接的な協力関係はない。


だが、官渡の戦い以後の【鮮于輔】は【袁紹】ではなく、【曹操】に従って【建忠将軍】【督幽州六郡】【都亭侯】に任命されている。だが、【袁紹】から【鮮于輔】への役職は何もわかっていない。残していないと思われるが、そこまで高い位の役職に就けなったのではないのか。


【閻柔】の【護烏丸校尉】も【邢挙】から奪い取っている。


※【邢挙】自身は名前と役職しか残っていないが近場で同じ姓の人物はいる。魏【太僕→太常・関内侯】【邢顒】・魏【太常・高平侯】【邢貞】。共に冀州河間郡鄚県出身。



将軍位など、【鮮于輔】側から袁紹に取り入った形跡がほとんどないのはどうしようもない。重用されなかった事、また、【袁煕】が積極的に懐柔しようとしていないこともあるか。


【袁煕】に【幽州別駕従事】【韓珩】以外は従わず。【鮮于輔】のみならず、韓珩以外【焦触】らも見限ったあたり、軽んじられていたのは想像できる。【袁煕】が従えられたのは【蹋頓】烏丸たちぐらい。


【丘力居】と【劉虞】は協調していたがその実質後継者たる【蹋頓】と【鮮于輔】と対立するのはなんでだろうね。ここら辺からはもう混乱が混乱を呼ぶ言葉陳列である。



【鮮于輔】は【袁紹】を見限って【曹操】についたわけだが、上記五郡に近場の涿郡を加えた幽州六郡は支配していても【袁紹】、烏丸からは挟まれている。【曹操】の支援を受けられずに孤立する事については何を考えていたのだろうか?


205年。【鮮于輔】は烏丸から攻撃を受けた時、自力では打開できず、【曹操】の援軍によって打破した。【曹操】が来ていたから助かったが、何故?となる。漁陽太守【王松】と【劉放】もそうだけど、どうするつもりだったのだろうか。実際は205年降伏なところを200年と語ったか。役職を受けた時期は200年でいいだろうが、【官渡の戦い】への【曹操】側での参戦を訝しむ。



役職だけもらって、【袁紹】【曹操】両方に両属していたが、204年の鄴陥落で判断を迫られたのだろう。【張燕】も同時期に【曹操】に降伏している。


【閻柔】が奪った【護烏丸校尉】も【牽招】が任命されたぐらいなので、曹操と【鮮于輔】【閻柔】が連携出来ていたのか?となるよね。後に再任されているけど。


(【牽招】が【護烏丸校尉】に任命されたのは白狼山の戦い後なので207年。その前は【司空軍謀掾】。【孫礼】の就任により追い出されたのだろうか?就任タイミングである柳城到着は白狼山の戦い後に占領した拠点。【閻柔】も追従しているだろうが・・・)


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【鮮于輔を考える5-白狼山の戦い前後】


【鮮于輔】と同時期に降伏したとされるのは【王松】。彼は【曹叡】の重臣である【劉放】の進言によって降伏しているが、【劉放】は【曹叡】の近臣。史書におけるその進言の審議は自己申告による誇張もありそうで、非常に疑わしい。


205年に下った幽州人を見ていくと多少は見えてくるか。


【焦触】ら【袁煕】配下は結局情報がなくてわからないが、魏の時代に活躍した人物も何人かいる。



【孫礼】と【田疇】+【邢顒】である。


【孫礼】は【司空軍謀掾】【田疇】は【司空戸曹掾】【邢顒】は【司空掾】。曹操が丞相になったのが208年であり、それ以前に従軍している証拠でもある。(【劉放】も【参司空軍事】で早い)


それに対して、【鮮于輔】と関係を持っていた【徐邈】【田豫】【ともに丞相軍謀掾】と比べて時期に差がある事を役職が示している。


(将軍についている【鮮于輔】から烏丸討伐まで部下を引き抜きにくかったのかもしれない)


【田疇】の降伏自体は207年になるが、【田疇】の部下であった【邢顒】は205年に【田疇】の隠居村を分断して降伏しているため、事実上の降伏は205年と言える。


幽州の人物でそれより早く降伏しているのは【国淵】がいるが、【国淵】は遼東から逃げているので、幽州よりも早く支配下に入っているとみられるため、参考にならない。


あくまで205年に正式に臣従した、それ以前はわからないとしか言えません。【田豫】と【劉放】、二人して同じ事言っているけど。


それでも【鮮于輔】は将軍職を受け取っているので、他幽州降伏者と比べてかなり高い位置にある。【田疇】ら七品官程度の掾に対して、四品官相当の将軍位である。


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【鮮于輔を考える6-北伐以後の行動、整理】


【鮮于輔】は幽州にあり続ける。

将軍位は建忠将軍→213年~220年の間に虎牙将軍→224年以降に輔国将軍。


※223年劉禅に勧告した際には虎牙将軍。224年軻比能の弁明時に輔国将軍とある。


三品官相当の将軍位を持って、魏の北部を支えた人物となる。

中央に召集された話もないし、官職も受けていないので、【閻柔】同様ずっと辺境なのだろう。


ただし、魏において重臣の一角に名前を連ねた証拠は存在する。


一つは魏公勧進。


建安18年(213年)5月、【曹操】の魏公勧進の際の連名で【荀攸】、【鍾繇】から始まる臣下一覧に名前を連ねている。(順番としては30人明確にわかっている中の10番目。後ろが【程昱】【賈詡】【董昭】と言う【曹操】を支えた文官に加えて、【曹洪】【曹仁】ら親族、【王朗】【王粲】【韓浩】のような文官たちも名前がある。前にあるのは上記【荀攸】ら以外には【夏侯惇】と人食いの話を持つ【王忠】【毛玠】や【凉茂】などがいる。詳しくは魏公勧進でググれば百度あたりで勧進魏公の項目が出てくるため、そこで一覧が見れる。見づらいけど)



そして、魏国建国時の魏上尊号碑では六番目に名前がある。

【華歆】【賈詡】【王朗】【曹仁】【劉若】の次に名前がある。


謎な人物もいるが、【閻柔】と共に辺境を司る上位の位にいたことは間違いない。



最終の【輔国将軍】は三品官相当。州の【従事】から始まって、紆余曲折あったとは言え、魏の重臣として辺境の核と担った。


周辺異民族との折衝を得意としており、鮮卑【軻比能】も【鮮于輔】健在時にはあまり動きが見られない。

224年【軻比能】は【田豫】の対処のために【閻柔】ではなく【鮮于輔】に泣きつく書簡を送り、皇帝に取り次いでもらうあたり、異民族にも顔が利き、中央への連絡が出来る重鎮であるのは事実。


【閻柔】【鮮于輔】の二人がいなくなって、【田豫】【牽招】らの時代になると【軻比能】は外交的な対応が出来なくなり、暴れまわる事になる。


また、【徐邈】が禁酒令を破って飲酒した際、【鮮于輔】は【曹操】に弁明して免罪を勝ち取るほどには信用されていたこともうかがえる。


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【鮮于輔を考える7-字あざな】

鮮于輔の字が史書にない理由。

同格クラスで字が無い人物を調べると上記に書いている人名が一人上がる。

魏公連名文で【鮮于輔】よりも上で【曹丕】即位時の連名は【鮮于輔】の次な人物。


人肉喰らいで【曹丕】に馬鹿にされて、【呉質】と一緒に【曹真】の体形をあおった男(呉質別伝より。【王粲】伝だと【曹洪】と一緒に諫めているが、この話は黄初5年(224年)とある事、【曹丕】から冷遇されている【曹洪】が同席している事も謎)。


【軽車将軍】【都亭侯】【王忠】である。


司隷扶風郡と言う中央出身でありながら、徐州時代の【劉備】に負け、【曹丕】にいじられると言う雑魚属性がついたためか、今の評価もあまり高くないが、将軍位を持っているので高位ではある、はず。無駄に長生き(正始三年(242年)死亡が記録されている)だし。



【王忠】の場合は中央にいた記録もあるのに項目を除外されているあたり、評価は芳しくなかったのだろう。【鮮于輔】は中央にいなかったため、評価を落とされた可能性はある。


【魏略】で伝を建てられている中では【王忠】は【張繍】【張燕】ら群雄と同じ巻に書かれているのに対して、【鮮于輔】【閻柔】は【公孫瓚】附属伝として書かれているあたり、辺境の野蛮人扱いをされていた可能性もある。

正直、【魏略】【典略】については地方の扱いが悪いと言うより、情報を集める力が弱かったと見る。逆に中央の事象については強い。


【劉虞の雨乞い】も雨季乾季で季節感が合わないのもどうなんでしょう。


【鮮于輔】伝が部下で事実上の後継者である【田豫】伝ではなく、【公孫瓚】伝につけられた事も割と謎で、中央から嫌われて、書物に残されなかった説があるのかな。かなり偏見的な見方だけど。



もう一説は本当に中央では誰も知らなかった説。


【鮮于輔】は基本辺境にいて、中央では将軍位を名乗るため、字ではなく、諱での宣言が多かった。上記の魏公勧進などは字ではなく、諱で記されている。


【曹操】と部下であった【徐邈】助命の話が残っているが、それをしたのが中央であったかは定かではない。210年以降の幽州は小規模の反乱と異民族懐柔がメインで、【曹彰】や【裴潛】など一部の治世者の名前しか残っていないあたり、中央から密に記録が取られていない事もわかる。


そこからそもそも連絡が取れておらず、後年書物にまとめる際に誰も知らなかったと言う状況になった説。1800年前の情報網を信じてはいけない。


ただの暴論である。




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【筆者の鮮于輔評価】


【鮮于輔】は【劉虞】の忠臣でも【公孫瓚】の仇敵でも【曹操】の将軍でもない。

後漢末から魏初にかけて、幽州の在地秩序と中央政権を繋ぎ続けた【北辺の調整者】である。

【劉虞】の従事として始まり、【公孫瓚】によって破壊された幽州の旧秩序を再構築し、その後は【曹操】に接続することで自らの勢力を維持した。

曹魏成立後も中央に移らず、虎牙将軍・特進・県侯という高位を得ながら幽州に留まり、烏丸・鮮卑との交渉を担った。


その存在は華々しい戦功としてではなく、「彼がいる間は北が大きく崩れない」という形で現れる。


だからこそ、史書では目立たない。

しかし、【鮮于輔】が消えた後の北辺を見ると、その不在の大きさが分かる。


【閻柔】が鮮卑と住んで、【田疇】は働かない、【劉和】が来てぐちゃぐちゃな幽州を繋ぎ止めた。

そして、敵であった【田豫】を配下に加えて、その進言を受けて判断する。


その判断が正確で、大きなミスをしない。ただし、大成功もしない。


・【公孫瓚】を倒せなかった。けど、【袁紹】が倒した。

・【袁紹】には乗らなかった。

・【曹操】に早期に接続した。

・205年には烏丸に包囲された。でも【曹操】が助けた。

・魏でも中央政界のトップには行かない。

・蜀を説得しても成功しない。

・【軻比能】の件でも、彼自身が解決するわけではなく、【文帝】【曹丕】に取り次ぐ。


縁の下の力持ち、苦労人。地味で好き放題やるネットワークを支える大黒柱。本人も上に立って纏めようとしないが、いつの間にか中心になっている。


人の見る目はかなりある。【田豫】【徐邈】を見出し、【劉放】も本拠のある漁陽にいる。【曹叡】代以降の臣下を輩出している。


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