第44話 最終兵器の投入
三千の王国軍を無傷で降伏させるという、歴史に残るであろう防衛戦から数日が過ぎた。
テラ・テルマエは、捕虜となった兵士たちの処遇と受け入れ作業で、かつてないほどの忙しさに包まれていた。王都の惨状を知り、自ら進んでこの地の開拓に加わりたいと志願する者が後を絶たなかったからだ。
その膨大な行政手続き、身元確認、そして労働配置を、たった一人で捌き切っているのが、ギルド支部長のソフィアだった。
彼女の執務室の明かりは、ここ数日、夜明け前まで消えることがなかった。
「……ソフィア、少し休め。顔色が悪いぞ」
俺が執務室を訪ねると、書類の山からソフィアが顔を上げた。
完璧に整えられていたはずの髪には少し乱れがあり、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない疲労の色が浮かんでいる。
「あら、領主様。ご心配なく。あと百人ほどで第一陣の仮登録が終わりますわ。それが済めば……」
「ダメだ。今すぐペンを置け。これは領主命令だ」
俺は強引に彼女の手からペンを取り上げた。
「以前、足湯で約束しただろう。二人でゆっくり話す時間を作るって。……今から少し、俺に付き合ってくれ」
強引な誘いだったが、ソフィアは少し驚いたように瞬きをした後、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。
「……強引な殿方ですこと。ですが、領主様の命令とあらば、逆らうわけにはいきませんわね」
俺がソフィアを案内したのは、最近マザーと一緒に建てた「離れ」だった。
木材の香りが清々しい、簡素だが落ち着いた東方の異国風の造り。床には編み込んだ草の敷物が敷かれ、中央には囲炉裏が切ってある。
静寂を重んじる、茶室のような空間だ。
「まあ……。ここは、今まで見たどの建物とも違いますわね。とても心が落ち着きます」
ソフィアが珍しそうに室内を見渡す。
「疲れた時は、こういう静かな場所がいいと思ってな。さあ、座ってくれ」
俺たちは向かい合って座った。
外の喧騒は分厚い土壁に遮られ、ここにはただ、囲炉裏の炭がパチパチと爆ぜる音だけが響いている。
「今日は、腹に優しくて温まるものを用意した。……これだ」
俺が漆塗りの盆に乗せて出したのは、小ぶりな器に盛られた料理だった。
こんがりと黒褐色の発酵調味料を塗って炙った丸い握り飯。
その上に、赤い酸っぱい果実の塩漬けと、細かく刻んだ緑の香草が乗っている。
「ここへ、この熱い『出汁』をかける」
俺は鉄瓶から、琥珀色に透き通った汁を、握り飯の上からたっぷりと注いだ。
ジュワァッ……という音と共に、炙った米の香ばしさと、魚介と昆布の深い香りが一気に立ち昇った。
俺の故郷の夜食の定番、「焼き飯の出汁茶漬け」だ。
「いい香り……。海を思わせるような、深く澄んだ匂いですわ」
ソフィアが目を輝かせた。
「熱いうちに崩して食べてくれ」
彼女は木のスプーンで握り飯を崩し、出汁と共に口に運んだ。
「……っ」
ソフィアの動きが止まる。
そして、ふうっと長く、深い息を吐き出した。
「美味しい……。胃の奥から、じんわりと温かさが広がっていきます。出汁の旨味がとても優しくて……上に乗っている赤い果実の酸味が、絶妙な引き締め役になっていますわ」
彼女は無言で、しかし夢中で匙を動かした。
油っこい肉料理や強い香辛料に疲れた胃袋に、この出汁茶漬けはまさに特効薬だ。
あっという間に器が空になり、彼女は満足そうに口元を拭った。
「食後には、これを」
俺は茶筅を使って、鮮やかな緑色のお茶を点てた。
苦味の強い、深蒸しの茶だ。
それに添えるのは、白と淡い桃色の餡で季節の花を模した、繊細な練り菓子。
「甘い菓子を一口食べて、その後にこの苦いお茶を飲むんだ」
ソフィアは言われた通りに菓子をかじり、緑のお茶を飲んだ。
その瞬間、彼女の顔が「はっ」と綻んだ。
「甘さと苦さが……口の中で完璧に調和しましたわ。なんという計算された美しさ……」
彼女は茶碗を両手で包み込み、俺を真っ直ぐに見つめた。
その眼差しは、昼間の「鉄壁の監査官」のものではなかった。
警戒を解き、心を許した一人の女性の、熱を帯びた瞳。
「……アルド様。貴方は本当に、人の心を解きほぐす魔法使いのようですわ」
「魔法使いって……俺はただの職人だよ。疲れてる人がいたら、休める場所を作りたいだけさ」
「それが、どれほど得難く、尊いことか……」
ソフィアは静かに微笑み、テーブルの上に置かれた俺の手の上に、自分の手をそっと重ねてきた。
冷え性なのか、少しひんやりとした、だが柔らかい手。
「私は今まで、規律と法だけを信じて生きてきました。他人に弱みを見せることは、敗北だと。……でも、貴方の前では、不思議と素直になれるのです」
彼女の顔が、少しずつ近づいてくる。
静かな茶室。二人きりの空間。
彼女の吐息が届くほどの距離で、俺の心臓は早鐘を打っていた。
これは、その、そういうことなのか?
「アルド様。私……」
ソフィアの唇が、微かに開かれた。
その瞬間だった。
『――緊急警報! 緊急警報!』
俺の懐の通信端末から、マザーの絶叫に近い電子音が響き渡った。
あまりの音量に、俺とソフィアは弾かれたように体を離した。
「マ、マザー!? なんだ、どうした!?」
俺が怒鳴るように問い返すと、マザーの声はかつてないほど切羽詰まっていた。
『マスター! すぐに外へ出てください! 南の空です!』
俺たちは顔を見合わせ、茶室を飛び出した。
広場に出ると、エルフたちや難民たちも何事かと外に出て、南の空を見上げていた。
そして、俺はその「異常」に気づいた。
「な、なんだあれは……」
南の地平線。
王都があるはずの方角の空が、どす黒い紫色に染まっていた。
それだけではない。
ズォォォォォン……。
遠雷のような地鳴りが、足元の大地を揺らしている。
『距離30キロ! とてつもない質量と、超高密度の魔力反応がこちらへ接近中です!』
「まさか、王国の増援か!? だが、この地響きは軍隊の行軍なんてレベルじゃないぞ!」
その時、仮設牢獄に入れられていた王国軍の騎士団長が、窓の格子にしがみついて狂ったように笑い出した。
「ハハハハッ! 見ろ! ついに陛下は『あれ』の封印を解かれたのだ!」
「あれだと? 何の事だ!」
ヴァネッサが牢屋の格子を蹴りつけて凄むと、騎士団長は血走った目で叫んだ。
「王都の地下深くに眠りし、建国以前の破壊の象徴! 『古代魔動巨兵』だ! 陛下は貴様らへの憎悪のあまり、国と引き換えにして禁忌の扉を開かれたのだ!」
「なんだと……!?」
俺は息を呑んだ。
国と引き換えに?
あの愚かな王は、自らの国が滅びる道連れとして、制御不能の化け物を呼び覚まし、俺たちの領地に差し向けたというのか。
『マスター! 視覚センサーが対象を捉えました! メインモニターに映します!』
マザーの巨体が広場の中央に移動し、巨大な空中の映像を展開した。
そこに映し出されたものを見て、全員が言葉を失った。
山が、動いていた。
それは比喩ではない。
岩と鋼鉄、そして赤黒く脈打つ魔力回路で構成された、超巨大な人型の兵器。
全長は優に50メートルを超えている。
俺たちの頼れる相棒であるマザーでさえ、見上げるほどの規格外のサイズだ。
一歩踏み出すごとに大地が陥没し、周囲の森や岩山を粉砕しながら、一直線にこのテラ・テルマエへと向かってきている。
「あんなもの……どうやって戦えばいいのよ……」
ララが震える声で呟き、膝から崩れ落ちそうになった。
エルフたちも恐怖に顔を引き攣らせ、子供たちは泣き叫んでいる。
無理もない。
あれは兵器というよりも、歩く災害だ。
このまま到達されれば、俺たちが必死に築き上げた畑も、温泉も、居住区も、全てが一瞬で踏み潰されてしまう。
「……マザー」
俺は通信端末を握りしめ、前を向いた。
『はい、マスター』
マザーの声も、普段のオカンモードではない。純粋な「戦闘兵器」としての冷徹な音声だった。
「迎撃の準備だ。……あんな薄汚い岩山に、俺たちの楽園を壊されてたまるか」
『推奨します。対象の装甲は極めて強固。通常兵装では貫通不可能です。……よろしいですね、マスター?』
「ああ。全機能、解除。魔力供給は俺が全力で行う。……出し惜しみはなしだ」
俺は上着を脱ぎ捨て、マザーの元へと走り出した。
背後で、ソフィアやヴァネッサたちが「アルド!」と叫ぶ声が聞こえた。
「みんなは地下シェルターへ避難しろ! シロを頼む!」
振り返らずに指示を出し、俺はマザーのハッチへと飛び込んだ。
過去の亡霊が、全てを破壊しにやってくる。
だが、俺はもう逃げない。
この温かい生活を、美味しいご飯を、大切な家族を守るために。
俺とマザーの、真の死闘が始まろうとしていた。




