第41話 王国の暴挙、軍事侵攻
王都の空は、絶望の淀みに覆われていた。
かつて都市全体を優しく包み込み、あらゆる外敵から民を守っていた半透明の防壁――『大結界』が、数日前に完全に消失したのだ。
空を遮るものがなくなったことで、近隣の森から有翼の魔物たちが容赦なく舞い降りるようになった。
さらに深刻なのは、地下の魔導機構の暴走だ。
制御を失った巨大な魔力の渦が、下水道網を通じて地上へと逆流し、汚濁にまみれた瘴気を街中に撒き散らしている。
下町を中心に、高熱と皮膚の黒変を伴う致死性の奇病が猛威を振るい始め、王都は阿鼻叫喚の地獄と化していた。
そんな王都の中心、高い城壁に守られた王城の奥深く。
豪奢な大広間で、一国の主である国王は、玉座に座りながら怒りと焦燥に震えていた。
「ええいっ! 魔法師団は何をしておる! なぜ結界を張り直せんのだ!」
国王の怒号が響き渡るが、集まった大臣や将軍たちは皆、青ざめてうつむくばかりだ。
「も、申し訳ございません、陛下。……結界の基幹術式が複雑すぎて、現在の我々の知識では修復はおろか、現状維持すら……」
魔法師団長が震え声で報告する。
「使えぬ奴らめ! 勇者はどうした!? カイルとやらが魔物を退治すれば済む話であろう!」
「そ、それが……勇者殿の聖剣は深刻な不具合を抱えたまま、彼らパーティは現在、行方をくらませておりまして……」
「なんと情けない! 国の危機に逃げ出すとは!」
国王は苛立たしげに肘掛けを叩いた。
国を支えていた都市設備が崩壊し、頼みの綱であった武力も失われた。
このままでは、王国は内側から腐り落ちるか、魔物の大群に飲み込まれて滅びるかのどちらかだ。
「……陛下」
その時、内務大臣が重い口を開いた。
彼は先月、テラ・テルマエに赴き、四人の女性たちに完膚なきまでに論破されて逃げ帰ってきた男だ。
「全ては……全ては、あの裏切り者、アルド・グレイフィールドの責任にございます」
「なに?」
「奴は国を捨て、東の荒野に『テラ・テルマエ』なる独立拠点を築いております。しかも、あの荒野の地下から『万病を治す黄金の湯』や『大地を豊かにする秘水』を発見し、莫大な富を独占しているのです」
内務大臣の言葉に、周囲の貴族たちがざわめいた。
「さらに奴は、我が国の領土内に眠っていた超古代の『巨大な鉄の兵器』を不当に私物化しております。本来であれば、あれは我が王家の所有物となるべき至宝! それを勝手に起動し、王国の危機を対岸の火事と見物しているのです!」
完全な責任転嫁であり、逆恨みだった。
自らアルドを無能と罵って追放した事実を棚に上げ、自らの失態を全て「アルドの陰謀」にすり替えようとしているのだ。
「おのれ、アルド……。ただの地味な整備兵風情が、我が国から至宝を盗み出し、王都を見捨てるとは……許しがたい反逆である!」
国王の目に、暗い狂気が宿った。
彼にはもう、正常な判断力は残っていなかった。飢えた獣が目の前の餌に飛びつくように、テラ・テルマエの持つ「富と安全」を奪い取るという妄執に取り憑かれてしまったのだ。
「騎士団長! 直ちに第一、第二騎士団を動員せよ! 数は三千!」
「さ、三千!? 陛下、正規軍の半数を割くことになります! 王都の防衛が……」
「構わん! あの拠点を制圧し、巨大兵器と温泉を我が手に収めれば、国は立て直せる! あの生意気な小娘どもも、裏切り者のアルドも、一人残らず捕らえて反逆罪で処刑せよ!」
「……は、ははっ!」
王国の正規軍、約三千。
彼らは魔物から民を守るためではなく、かつての同胞から全てを略奪し、理不尽な怒りをぶつけるためだけに、東の荒野へと進軍を開始した。
◇ ◇ ◇
一方、その頃。
テラ・テルマエは、王国の混乱などどこ吹く風といった様子で、今日も平和な昼下がりを迎えていた。
俺は、マザーが建設した白亜の建物――『テラ・テルマエ第一研究所』を訪れていた。
天井まで届く本棚には、マザーの記録媒体から出力された古代の書物や設計図が所狭しと並べられ、部屋のあちこちには発掘された石板や魔導具の部品が置かれている。
微かなインクの匂いと、乾いた紙の匂いが漂う、静謐な空間だ。
「お疲れ様、ヘレナ」
部屋の奥の大きな机で、山積みの書物に埋もれるようにしてペンを走らせていた女性が、ふわりと顔を上げた。
研究所長、ヘレナ・ワイズマン。
彼女は知的な銀縁の眼鏡を外し、少し疲れたように目元を揉んでから、俺に向けて柔らかな微笑みを浮かべた。
「あら、アルド様。お待ちしておりましたわ」
ゆったりとしたローブから覗く女性らしい曲線と、大人の余裕を感じさせる落ち着いた声。
今日は彼女からの誘いで、この研究所でお茶を飲む約束になっていたのだ。
「差し入れを持ってきたよ。……少し、休まないか?」
「嬉しいですわ。ちょうど、甘いものが欲しかったところですの」
俺は持参したバスケットをテーブルの空きスペースに置き、中身を取り出した。
「今日は『窯焼きの林檎、蜂蜜と香辛料風味』だ。マザーの畑で採れたばかりの林檎を使ってる」
丸ごと火を通した真っ赤な林檎。芯をくり抜いた部分には、芳醇なバターと、肉桂に似た甘く刺激的な香りの香辛料、そしてたっぷりの蜂蜜が詰め込まれている。
魔導窯の熱で芯までじっくりと焼き上げられた林檎は、皮が弾け、中からとろとろになった黄金色の果肉が顔を覗かせていた。
それに合わせて淹れたのは、深い琥珀色をした発酵茶だ。
「まあ……。なんて良い香りでしょう」
ヘレナはうっとりと目を閉じ、立ち上る甘い湯気を吸い込んだ。
俺は彼女の向かいに座るのではなく、隣の椅子を引き寄せて座った。
自然と肩が触れ合いそうになる距離。
ヘレナは避けるどころか、少しだけ俺の方へと身を寄せてきた。
「いただきますわ」
彼女が小ぶりの匙で林檎をすくい、口に運ぶ。
熱々の果肉が口の中でとろけ、香辛料の風味が蜂蜜の甘さを引き立てる。
「……ふふっ。本当に、美味しい。アルド様の手にかかれば、素朴な果実も最高の宮廷菓子に変わってしまいますのね。……私の凝り固まった頭の疲れが、一瞬で溶けていくようです」
「気に入ってくれてよかった。研究の調子はどうだ?」
「ええ、順調ですわ。マザーさんの記憶庫には、私の生涯をかけても読み切れないほどの叡智が眠っています。……でも」
ヘレナは匙を置き、真剣な、しかしどこか熱を帯びた瞳で俺を見つめた。
「古代の遺跡や技術よりも……私は今、貴方という存在の方に、強く惹かれているのです」
「……えっ」
突然の言葉に、俺は思わず言葉を詰まらせた。
「貴方は、ご自分の価値を低く見積もりすぎています。王国の者たちは貴方を『地味な裏方』と呼んだそうですが、私から見れば、貴方のその『全ての技術を繋ぎ合わせ、最適化する手』こそが、何よりも尊い奇跡なのですわ」
彼女の白い指先が、俺の無骨で傷だらけの手に重なる。
大人の女性特有の、優しくて甘い香りが、香辛料の香りよりも強く俺の理性を揺さぶる。
「アルド様。……少しだけ、甘えてもよろしいですか?」
ヘレナはそう言うと、俺の肩にそっと頭を預けてきた。
彼女の柔らかな髪が俺の首筋をくすぐる。
普段はお姉さんぶって皆の相談に乗っている彼女だが、二人きりになると、こうして素直に寄りかかってくれる。
「ああ。俺の肩でよければ、いつでも貸すよ」
「……ふふ、嬉しいですわ」
俺は紅茶の入ったカップを傾けながら、彼女の体温を感じていた。
窓の外では、風が防風林の木々を静かに揺らしている。
このまま時間が止まればいいと、本気で思えるほどの安らぎ。
まさに、至福の逢瀬だった。
だが、その静寂は、無機質な警告音によって無惨にも切り裂かれた。
『――緊急警報。緊急警報』
研究所の壁に備え付けられたスピーカーから、マザーの緊迫した声が響き渡った。
「マザー! どうした!?」
俺はヘレナの肩を抱き留めたまま、通信機に向かって叫んだ。
『マスター。南の荒野の果てより、大規模な軍事行動の兆候を探知しました。……武装した兵士の群れ。騎馬隊、および攻城兵器を伴っています』
「軍事行動だと……? 盗賊の規模じゃないのか?」
『はい。彼らが掲げている旗印を光学レンズで確認しました。……王国の正規軍です』
「王国軍……!?」
俺の脳裏に、数日前に追い返した内務大臣の憎々しげな顔が浮かんだ。
「あの馬鹿ども……。まさか、本気で軍隊を差し向けてきたというのか……!」
『数は約三千。隊列を組み、一直線にこのテラ・テルマエを目指して進軍中です。……現在の速度から計算して、明日の日の出と共に、この拠点の防衛ラインに到達します』
三千の軍勢。
それは紛れもない、国家間における「戦争」の規模だった。
俺たちのような辺境の開拓村を潰すためだけに、彼らは国力の大半を投じてきたのだ。
「アルド様……」
ヘレナが不安そうに俺を見上げる。
彼女の瞳には、かつて理不尽な権力に学問の場を奪われそうになった過去の恐怖が、微かに揺らめいていた。
「大丈夫だ、ヘレナ。怖がることはない」
俺は彼女の手を強く握り返し、立ち上がった。
以前の俺なら、王国の軍隊と聞いて絶望し、逃げ出していたかもしれない。
だが、今の俺は違う。
俺には守るべきものがある。この温かい日常、美味しい食卓、そして俺を信じてくれる家族と仲間たちがいる。
「ここは俺たちの国だ。……泥靴で上がり込むような真似は、絶対に許さない」
俺は懐の通信機を握りしめた。
「マザー。防衛体制に移行する。……全員を集めてくれ。軍議の時間だ」
『了解しました。テラ・テルマエ全域、警戒レベルを最大に引き上げます。――迎撃シークエンス、起動』
俺の「スローライフ」を脅かす最大の敵が、すぐそこまで迫っていた。
だが、迎え撃つ俺の心に迷いは一切なかった。




