第38話 民衆の脱出
朝。
意識の浮上よりも先に、鼻先をくすぐる温かい息遣いと、濡れた感触があった。
「……んん……」
目を開けると、視界いっぱいに銀色の毛並みが広がっていた。
「わふっ! くぅ~ん!」
愛犬のシロだ。
俺の胸の上に陣取り、前足をちょこんと揃えて乗せている。
ピンと立った三角の耳、琥珀色のクリクリとした瞳。
そして、俺が起きたとわかった瞬間、千切れんばかりに尻尾を振り、顔中をペロペロと舐め回してきた。
「こらこら、くすぐったいって。おはよう、シロ」
俺が両手でシロの頬を包み込んで撫でると、シロは目を細め、喉の奥で「グルルル……」と猫のように満足げな音を鳴らした。
ふにふにとした肉球が俺の腕に押し当てられ、その温もりが朝の冷え切った空気を溶かしていく。
なんて愛らしい目覚まし時計だろうか。
ベッドから起き上がると、シロは俺の足元をまとわりつくようにトテトテとついてくる。
「ご飯! ご飯!」と全身でアピールしているのだ。
『おはようございます、マスター。そしてシロちゃん。朝食の準備はできていますよ』
リビングに出ると、マザーの温かい声が迎えてくれた。
テーブルには俺用の焼き立てパンと目玉焼き、そして床の専用トレイには、シロ用の「特製ミルク煮」が湯気を立てている。
肉と野菜を細かく刻み、栄養満点のミルクで柔らかく煮込んだ絶品だ。
「よし、食べていいぞ」
俺が許可を出した瞬間、シロは猛然とボウルに顔を突っ込んだ。
ハグハグハグッ! チャッチャッチャッ!
一心不乱に食べる音。
夢中になりすぎて、鼻の頭や口の周りが真っ白なミルクまみれになっている。
時折「ぷはっ」と顔を上げて息継ぎをし、またすぐにボウルに顔を戻す。
そのがっつきっぷりと、白ひげを生やしたような泥棒猫ならぬ「泥棒狼」顔がたまらなく可愛い。
「ほら、こぼしてるぞ」
俺は苦笑いしながら、柔らかい布でシロの口周りを拭いてやった。
シロはされるがままになりながらも、まだボウルの底をペロペロと舐め続けている。
この無邪気な食欲こそが、平和の象徴だ。
だが、この平和な日常の外側では、世界が大きく軋み始めていた。
朝食を終え、俺がマザーと共に居住区画の拡張工事の段取りを確認していると、警備を任せている子機から緊急の通信が入った。
『マスター。南の街道より、多数の生体反応が接近中。……武装した兵士ではありません。民間人の集団のようです』
「民間人……ついに来たか」
先日、ヘレナとザラが予測した王都の崩壊。
そこから逃げ出してきた難民たちだろう。
「ヴァネッサ、ソフィア! 入り口に集まってくれ。受け入れの準備だ!」
俺は声を張り上げ、シロを伴って拠点の入り口へと急いだ。
マザーも巨大な身体を動かし、俺たちの背後に控える。
やがて、荒野の彼方から砂埃を上げて近づいてくる一団の姿が見えた。
ボロボロの荷馬車が数台。それを引く馬も痩せこけている。
歩いている人々は、老若男女合わせて五十人ほどだろうか。
誰もが疲労困憊し、着ている服は煤と泥で汚れ、足元はおぼつかない。
過酷な逃避行だったことは、その姿を見れば一目でわかった。
「止まれ! 何者だ!」
ヴァネッサが大剣を抜き放ち、鋭い声で威嚇する。
難民の中に紛れて、盗賊や王国の間者がいないとも限らないからだ。
「ひぃっ!?」
「お、お助けを……! 私たちはただの町人です……!」
先頭を歩いていた、煤けたエプロン姿のずんぐりとした男が、膝をついて懇願した。
俺はその男の顔を見て、目を見開いた。
「……ガムリの親方か?」
「え?」
男が顔を上げる。
太い腕と、立派な顎髭。ドワーフの鍛冶職人、ガムリだ。
王都の下町で工房を構えており、俺が魔導具の部品を特注する際、よく世話になっていた腕利きの職人だった。
「アルド……アルドの旦那か!? 生きていたのか!」
「親方こそ! どうしてこんな辺境に……」
ガムリの親方は、俺の顔を見るなり、安堵のあまりその場で泣き崩れた。
彼だけではない。その後ろにいた人間族の大工のトマや、細工師の女将さんなど、王都の下町で真面目に働いていた見知った顔がいくつもあった。
俺が「地味な仕事」をしていた王城の連中とは違い、彼らは現場の苦労を知り、俺の技術を正当に評価してくれていた良識ある職人たちだ。
「アルドさん……王都は、もう終わりです……」
トマが震える声で語り始めた。
「大結界の南側が完全に崩壊しました。それだけじゃない。地下の魔導設備が暴走して、下水道から瘴気が溢れ出してきたんです」
「瘴気だと……」
「ええ。熱病が流行り始め、街は大混乱です。ですが、貴族や王族は自分たちの区画だけを封鎖して、下町を見捨てました。あの勇者パーティの賢者と聖女の小娘たちも、いち早く王都から逃げ出したそうです」
やはり、か。
あいつらがここへやって来たのは、王国を見捨てた後だったのだ。
「もう王都では生きていけねえ。そう絶望していた時、行商人から噂を聞いたんだ」
ガムリの親方が涙を拭いながら言う。
「東の荒野の果てに、豊かな緑と黄金の温泉が湧く街がある。そこには、王国を追放された凄腕の魔導工学師がいる、とな。……俺たちは、その噂だけを頼りに、死に物狂いでここまで逃げてきたんだ」
彼らは俺を頼って、この過酷な荒野を越えてきたのだ。
力弱く座り込む子供たちや、怪我を負った老人たちの姿が目に入る。
「……よく生きてここまでたどり着いてくれた」
俺はヴァネッサに合図をして剣を収めさせ、彼らへ向かって大きく頷いた。
「歓迎するよ。ここは『テラ・テルマエ』。あんたたちの新しい家だ」
「おおぉ……!」
難民たちから、嗚咽のような歓声が上がった。
「ソフィア! 行政手続きと身元確認は後回しだ。まずは彼らに休息を!」
「承知いたしました。ザラさん、怪我人と病人の選別をお願いします!」
「ええ、任せてちょうだい」
テラ・テルマエの迎撃体制が、瞬時に「救護体制」へと切り替わる。
その只中で、シロがトテトテと難民たちの元へ駆け寄っていった。
「わふっ!」
シロは、疲れ果てて座り込んでいた小さな女の子の前にちょこんとお座りをした。
そして、小首をかしげて「だいじょうぶ?」とでも言うように、そっと女の子の手の甲を舐めた。
「あっ……わんわん……?」
女の子が恐る恐るシロの頭に触れる。
シロは嫌がるどころか、自ら頭をすり寄せ、コロンと仰向けになって真っ白なお腹を見せた。
『撫でていいよ!』のポーズだ。
「ふふっ……あったかい……」
女の子の顔に、今日初めての笑顔が浮かんだ。
それを見ていた大人たちの間にも、ふっと柔らかな空気が流れる。
過酷な逃避行で張り詰めていた彼らの心が、シロの底抜けの愛らしさによって、ゆっくりと解きほぐされていくのがわかった。
まさに、最強の癒やし手だ。
「さあ、まずは腹ごしらえだ! 熱いうちに食べてくれ!」
広場の中央で、巨大な湯気が立ち昇っていた。
マザーの建設用大鍋を使って俺が作ったのは、「豚肉と根菜の特製味噌煮込み汁」だ。
荒野で獲れた岩豚の肉をごま油で炒め、大根、人参、ゴボウに似た根菜、そしてエルフたちが育てたネギをたっぷりと入れた。
味付けは、マザーが発酵させた特製味噌と、少しの生姜。
具材の旨味が溶け出した、黄金色の熱々スープだ。
それに合わせて、マザーの自動調理機が大量の丸パンを焼き上げている。
「う……うめぇ……! なんだこれ、涙が出るほど美味え……!」
ガムリの親方が、大きなお椀を抱えるようにして汁を啜り、ボロボロと涙をこぼした。
他の人々も無言で、しかし夢中で料理を胃に流し込んでいる。
冷え切った身体の芯から温める、強烈な熱量と塩分、そして優しさの味。
「ゆっくり食べてくれ。おかわりはいくらでもあるからな」
俺がお玉を振りながら言うと、彼らは何度も何度も頭を下げた。
食事が終わると、次はザラによる健康診断、そして「風呂」の案内だ。
「服を脱いで、そこの湯でしっかり泥を落としなさい。それから湯船に入るのよ」
ザラの指示に従い、男たちは大露天風呂へ、女たちは先日完成したばかりの女性専用風呂へと向かう。
数分後。
露天風呂の方から、地鳴りのような「おおおぉぉぉ……」という感嘆のどよめきが上がった。
「アルドの旦那……こりゃあ天国だ……」
黄金色の湯に肩まで浸かった職人たちが、骨抜きになったような顔で空を見上げている。
魔力治癒効果を持つ源泉が、逃避行で傷ついた彼らの筋肉を、足の豆を、そして擦り減った精神を癒やしていく。
「生きてて……よかったなぁ……」
誰かの呟きに、皆が無言で頷いた。
彼らの背負ってきた地獄を思えば、この湯はどれほどの救いになったことだろう。
数時間後。
風呂から上がり、マザーが用意した清潔な服に着替えたガムリの親方とトマが、俺の元へやってきた。
「旦那。いや、領主様」
ガムリが深く頭を下げた。
「命を救ってもらったばかりで厚かましいのは百も承知だが……俺たちを、ここで働かせてくれないか」
「親方……」
「風呂から上がって、この街の設備を見せてもらった。あの信じられねえ巨大な鉄のゴーレムの造り。そして……旦那があの台所で使っていた、ミスリルの包丁や鍋」
ガムリの目が、鍛冶職人としての凄まじい熱を帯びていた。
「国宝級の金属を、あんな風に日用品に加工するなんて……王都じゃ絶対にできねえ芸当だ。俺は職人として、あんたの技術に惚れた。ここでなら、王宮の連中の顔色を窺うことなく、本当に良いものを作れる気がするんだ」
「俺も同じ気持ちです」
トマも強く頷いた。
「俺たちの腕は、あんたの領地作りの役に立つはずです。どうか、俺たちをここの領民として迎えてください!」
二人の熱意は本物だった。
俺は、自然と笑みをこぼした。
「頭を上げてくれ、二人とも」
俺は二人の肩を叩いた。
「俺は前から、気心の知れた職人仲間が欲しいと思ってたんだ。鉄と木材の加工なら、マザーよりあんたたちの方が繊細な仕事ができるだろう」
「ってことは……!」
「ああ。歓迎するよ、ガムリの親方、トマ。これから忙しくなるぞ。まずはあんたたち家族が住む家を、自分たちの手で作ってもらおうか」
「おうっ!! 任せておけ!!」
ガムリとトマが、感極まったように固い握手を交わしてきた。
その手は分厚く、タコだらけで、油と鉄の匂いがする。
間違いなく、信頼できる職人の手だ。
こうして、テラ・テルマエは初めて「人間の領民」を受け入れた。
エルフの農業、マザーの土木・工業、そして王都の熟練職人たちによる精密加工。
これらのピースが噛み合った時、この領地の発展速度はさらに爆発的なものになるだろう。
その日の夜。
難民たちが仮設の宿泊所で深い眠りについた頃。
俺は居住ユニットのテラスで、一人夜風に当たっていた。
足元では、一日中愛嬌を振りまいて子供たちの相手をしていたシロが、俺のスリッパに顎を乗せて爆睡している。
「わふぅ……すー……」
時折ピクピクと耳を動かす寝顔が、たまらなく愛おしい。
「お疲れ様、シロ。お前も立派にこの街の癒やし手だな」
そっと頭を撫でてやると、シロは気持ちよさそうに寝返りを打ち、さらに俺の足にぴったりとくっついてきた。
俺は視線を上げ、テラ・テルマエの景色を見渡した。
あちこちの建物から漏れる、温かい魔導灯の光。
王国の冷たい闇とは対照的な、命の息吹が感じられる光だ。
『マスター。避難民の受け入れプロセス、第一段階完了しました。明日から、彼らの労働適性を診断し、各区画への配置を行います』
マザーの静かな報告が響く。
「ああ、頼む。……しかし、いよいよ国らしくなってきたな」
『はい。テラ・テルマエは、もはやただの開拓地ではありません。絶望から逃れてきた人々の、希望の「箱舟」です』
箱舟、か。
俺は夜空の星を見上げた。
王都の崩壊は、これからさらに加速するだろう。
もっと多くの人々が、この光を頼ってやって来るかもしれない。
その全てを受け入れられるかはわからない。だが、俺の技術と、マザーの力、そしてここに集った仲間たちの絆があれば。
「……やってやるさ。最高に温かくて、美味い飯が食える国を作ってやる」
俺は静かに決意を言葉にした。
足元のシロが、俺の言葉に応えるように「くぅん」と小さく鳴いた。
明日からは、新しい職人たちとの街づくりが始まる。
忙しくなるぞ。
俺はシロを抱きかかえ、温かい部屋へと戻っていった。




