第36話 王国の真実
元勇者カイル・バーンズの襲撃という一大事件は、俺たちの勝利で幕を閉じた。
カイルは国境付近へ追放され、テラ・テルマエには再び平和な日常が戻ってきていた。
だが、あの一件は俺たちに、ある予感を抱かせていた。
王国の崩壊は、俺たちが考えているよりも深刻な段階にあるのではないか、と。
その真実を確かめるため、今日は研究所長のヘレナと、療養所長のザラを招いての報告会が開かれることになっていた。
場所は、俺の居住ユニットのリビング。
重い話になるのは目に見えている。だからこそ、俺は少しでも場の空気を和らげようと、朝からキッチンに立っていた。
「……よし、温度は完璧だ」
俺はミスリル製のボウルの中で艶やかに溶けた黒い液体――カカオ豆を加工した菓子「ショコラ」を、ゴムベラでゆっくりと撹拌していた。
以前、リーリャに振る舞った時は板状のものだったが、今回はもっと手の込んだ「ひとくちサイズの宝石」を作るつもりだ。
まずは中身作りだ。
温めた生クリームにショコラを溶かし、そこに風味付けの果実酒と、荒野で採れたベリーの煮詰め汁を加える。
滑らかになるまで混ぜ合わせ、冷やして適度な固さにする。
甘酸っぱいベリーの香りと、カカオの芳醇な香りが混ざり合い、それだけで幸せな気分になる。
次はコーティング用の準備だ。
ここが職人の腕の見せ所、「温度調整」だ。
湯煎で50度まで上げ、結晶を完全に溶かす。
次に氷水に当てて27度まで下げ、不安定な結晶を排除する。
そして再び32度まで上げ、安定した結晶核を形成させる。
この一手間を加えることで、口溶けは絹のように滑らかになり、表面には鏡のような光沢が生まれるのだ。
「型に流し込むぞ」
マザーに作ってもらった、幾何学模様の金属型に、調温したショコラを流し込む。
一度ひっくり返して余分な液を落とし、薄い殻を作る。
冷蔵庫で冷やし固めた後、中に先ほどのベリー味の中身を絞り入れる。
最後に、もう一度ショコラで蓋をして、再び冷やす。
型から外すと、そこには宝石のように輝く、黒い粒たちが現れた。
表面に金粉を少し散らせば、王侯貴族の茶会に出しても恥ずかしくない逸品の完成だ。
「これに合わせる飲み物は……」
濃厚な菓子には、少し変わった食感の飲み物を合わせたい。
俺が用意したのは、「キャッサバ」に似た芋の根から採れるデンプン粉だ。
これに水を加えて練り、小さな球状に丸める。
たっぷりの湯で茹でると、白かった団子が半透明になり、モチモチとした弾力が生まれる。
これを冷水で締め、さらに黒砂糖を煮詰めたシロップに漬け込む。
団子が黒く染まり、芯まで甘みが染み渡る。
いわゆる「黒真珠の団子」だ。
グラスの底に、この黒い団子をたっぷりと入れる。
そこに、濃いめに煮出した紅茶と、たっぷりのミルク、そして少しの練乳を注ぐ。
黒と白と茶色のグラデーションが美しい。
名付けて「黒き餅玉入りの乳茶」。
「完成だ。……喜んでくれるといいが」
俺はトレイに載せ、リビングへと運んだ。
足元ではシロが「僕のは?」という顔で着いてくるが、これは人間用だ。後で犬用のクッキーをやるから我慢してくれ。
リビングでは、ヘレナとザラ、そしてソフィアとリーリャも同席して待っていた。
皆、表情は少し硬い。
「お待たせ。甘いものでもつまみながら話そう」
俺がテーブルに皿とグラスを置くと、女性陣の目が釘付けになった。
「まあ……! なんて美しい黒の宝石でしょう……!」
ヘレナが眼鏡の位置を直し、感嘆の声を漏らす。
「こっちの飲み物も不思議ね。底に沈んでいる黒い玉はなにかしら? 薬の材料?」
ザラが興味深そうにグラスを透かして見ている。
「毒じゃないから安心してくれ。芋の粉で作った団子だよ。太いストローで、団子ごと吸って飲むんだ」
俺が飲み方を教えると、皆、恐る恐る口をつけた。
ズズッ。
スポン。
口の中に飛び込んでくる、モチモチとした食感。
「……んんっ!? なにこれ、面白い!」
ララが声を上げる。
噛めば黒糖の甘みが広がり、濃厚なミルクティーと混ざり合う。
「食べるお茶……ですわね。新感覚です」
ソフィアも気に入ったようだ。
そして、メインのショコラ。
ヘレナが指先で摘み、口に運ぶ。
パリッという繊細な音がして、殻が割れる。
中からとろりと溢れ出す、甘酸っぱいベリーのクリーム。
「はぁ……。溶けますわ……。遺跡の発掘品のように繊細で、深遠な味……」
ヘレナが陶然とした表情になる。
ザラも一口食べて、妖艶に微笑んだ。
「媚薬ね、これ。脳がとろけるような甘さだわ。……疲れが吹き飛ぶ」
場が和んだところで、俺は切り出した。
「さて。……そろそろ本題に入ろうか。王国の現状についてだ」
その言葉で、場の空気が一瞬で引き締まる。
甘い香りの残る部屋に、冷たい現実が降りてくる。
ヘレナが表情を正し、持参した資料を広げた。
そこには、マザーのセンサーで観測した王都周辺の魔力分布図が描かれていた。
「まず、私の方から。王都の大結界について報告します」
彼女は眼鏡を光らせ、地図上の王都を指差した。
「結論から言いますと……『崩壊』は始まっています」
「崩壊……?」
リーリャが息を呑む。
「はい。先日、内務大臣が『不調』と言っていましたが、そんな生易しいものではありません。アルド様が抜けたことで、結界維持のための魔力循環が完全に破綻しています」
ヘレナは図面上の赤いラインをなぞった。
「本来、王都の結界は地下の魔力溜まりからエネルギーを吸い上げ、循環させることで維持されています。ですが、その制御弁の調整を行っていたのが、他ならぬアルド様でした。貴方がいなくなった今、制御を失った魔力は逆流し、回路を焼き切り始めています」
『補足します。私のシミュレーションでは、あと数日で第1防壁が消失。一ヶ月以内に、王都全域の魔導インフラが機能を停止します』
マザーの無機質な声が、絶望的な未来を告げる。
「インフラ停止……。つまり、水道も、灯りも、防衛機能も全て消えるということか?」
「ええ。それだけではありません。逆流した魔力が暴走すれば、王都の地下で大規模な魔力爆発が起きる可能性すらあります」
全員が沈黙した。
それは、都市の死を意味していた。
「……次は私ね」
重い空気の中、ザラが口を開いた。
彼女は一枚の羊皮紙をテーブルに置いた。
そこには、王都から流れてくる風の成分分析結果が記されていた。
「私は『衛生環境』の観点から調査しました。……最悪よ」
ザラは眉をひそめ、不快そうに言った。
「王都の下水道機構、あれも魔導制御されていたわよね? それが止まりかけているせいで、汚水の浄化が追いついていないわ。すでにスラム街を中心に、悪臭と瘴気が漂い始めている」
「瘴気……」
「ええ。不衛生な環境は、病魔の温床よ。私の予測では、あと二週間もしないうちに『黒死熱』のような強力な感染症が発生するわ。……いえ、もう発生しているかもしれない」
ザラは氷の入ったグラスをカランと揺らした。
「魔力不足で治療院の設備も動かなくなる。薬も足りなくなる。……爆発的な感染拡大は避けられないわ。一度広がれば、王都の人口の半分が死に絶えるでしょうね」
結界の崩壊と、疫病の蔓延。
二つの破滅が、同時に王国を襲おうとしている。
かつての栄華を誇った大国が、内側から腐り落ちていく様がまざまざと思い描かれた。
「……自業自得、と言ってしまえばそれまでですけれど」
ソフィアが冷たく言い放つ。
「彼らは技術者を軽視し、医療予算を削り、見た目の華やかさだけに金をかけてきました。そのツケが回ってきただけです」
「だが、民に罪はないだろう」
リーリャが痛ましげに言う。
彼女の種族もまた、理不尽に故郷を追われた身だ。逃げ惑う人々の姿が重なるのだろう。
「……アルド、お前はどうするつもりだ?」
ヴァネッサが俺を見た。
全員の視線が俺に集まる。
助けに行くか? それとも見捨てるか?
俺は一口、甘いミルクティーを飲んだ。
黒い団子のモチモチとした食感を噛み締めながら、考えを巡らせる。
かつての職場。かつての同僚たち。
彼らに対する情がないわけではない。だが、今の俺には守るべきものがある。
「……俺たちは、ここを動かない」
俺は静かに、しかしはっきりと告げた。
「王国を救う義理はないし、俺一人戻ったところで、もう手遅れだ。爆発寸前の炉心に飛び込むような真似はしない」
それに、と俺は続けた。
「俺たちが介入すれば、王国はまた俺たちに依存するだろう。『困ったらアルドに頼めばいい』とな。それでは何も変わらない」
厳しい選択だというのは分かっている。
だが、領主として、ここの住民を危険に晒すわけにはいかない。
「ただし……逃げてくる者は受け入れる」
俺は窓の外、北の空を見上げた。
「国は滅びるかもしれない。だが、人は生き残る。逃げ延びてきた難民、職人、技術者……。生きようとする意志を持つ者は、可能な限り受け入れよう。そのための準備を始める」
「……そうこなくっちゃな」
ララがニカっと笑った。
「難民が増えれば労働力も増えるし、需要も増えるわ。商機よ、商機! 備蓄食料と医薬品、買い占めておくわね!」
「ちゃっかりしてるな……。でも、頼むよ」
「防疫体制も強化しておくわ。外からの病魔をここに入れないように」
ザラもやる気を見せる。
「私は結界の強化と、避難民の選別機構の構築を急ぎますわ。マザーさんと連携して」
ヘレナも眼鏡を押し上げた。
「私はギルドとして、難民の保護申請と、周辺国への根回しを進めます。……忙しくなりそうですわね」
ソフィアが書類を整理し始める。
リーリャとヴァネッサも、それぞれの持ち場の強化を誓ってくれた。
方針は決まった。
王国の崩壊は、もはや止められない。
ならば俺たちは、その余波からこの「楽園」を守り抜き、そして新しい時代のための「箱舟」となるだけだ。
「よし、解散だ! それぞれ準備にかかってくれ!」
俺が号令をかけると、皆一斉に動き出した。
悲壮感はない。あるのは、やるべきことを見据えた前向きな意志だけだ。
部屋に一人残った俺は、最後のショコラを口に放り込んだ。
甘く、ほろ苦い味。
これが、大人の味というやつか。
「……行くぞ、シロ」
足元のシロを抱き上げると、シロは俺の顔を舐め、「頑張れ」と言うように尻尾を振った。
これから来る冬の時代。
だが、この温かい場所があれば、俺たちはきっと乗り越えられる。
窓の外では、マザーが新しい区画の整地を始めていた。
その轟音は、王国の崩壊の足音をかき消すように、力強く響き渡っていた。




