第34話 勇者の乱入
王国の使者を撃退してから数日が経った。
テラ・テルマエには再び穏やかな日常が戻っていたが、少しだけ変化があった。
それは、ギルド支部長となったソフィアの働きぶりだ。
彼女は「鉄壁」の二つ名に恥じず、領内の法整備や書類仕事を完璧にこなし、ララと連携して外部との交渉もまとめてくれている。
だが、少し働きすぎなのが玉に瑕だ。
「……ソフィア。そろそろ休憩にしないか?」
俺が執務室を訪ねると、ソフィアは書類の山に埋もれていた。
眼鏡が少しずれている。
「あら、領主様。……いえ、まだこちらの申請書が残っておりますし、エルフ区の居住権登録も……」
「それは明日でいい。マザーも言ってるぞ。『支部長の疲労度が規定値を超えました。強制的な休息を推奨します』ってな」
俺が言うと、ソフィアは観念したようにペンを置いた。
「……マザーさんには敵いませんわね。分かりました。少しだけ、休憩をいただきます」
「よし。なら、外の空気を吸いに行こう。新しい施設ができたんだ」
俺たちは連れ立って、領内を歩いた。
名目は「新施設の視察」だが、実質的にはデートだ。
ソフィアはいつもの制服姿だが、今日は上着を脱いで白いブラウス姿になっている。風に揺れるスカートと、時折髪をかき上げる仕草が、普段の堅い印象とは違って新鮮だ。
「見てくれ。あれが完成したばかりの『足湯茶屋』だ」
俺が案内したのは、メインの露天風呂から引いた湯を使った、足湯専用のスペースだ。
屋根付きのテラスに長いベンチが置かれ、足元には黄金色の湯が流れている。
そこでは、エルフたちが収穫した果物を使った果実水や、マザー特製の軽食を楽しむことができる。
「まあ……素敵ですわね。仕事の合間にここで足を温めれば、効率も上がりそうです」
「仕事の話はなしだ。ほら、座って」
俺たちは並んでベンチに腰を下ろし、靴と靴下を脱いだ。
チャポン、と湯に足をつける。
じんわりとした温かさが、足先からふくらはぎへと上がってくる。
「ふぅ……。気持ちいいですわ……」
ソフィアが眼鏡を外し、目を閉じた。
その顔から、いつもの「鉄の微笑」が消え、年相応の女性の柔らかな表情が浮かぶ。
彼女もまた、重責を背負う一人の人間なのだ。
「無理してないか? いきなりこんな辺境の支部長なんて」
俺が尋ねると、彼女は薄目を開けてこちらを見た。
「無理? とんでもない。……ここは私にとって、理想郷ですわ」
彼女は湯面を見つめながら、静かに語り出した。
「ギルド本部では、常に派閥争いや足の引っ張り合いばかりでした。正しいことをしようとしても、政治的な理由で潰される。……息が詰まりそうでした」
彼女の手が、膝の上で握りしめられる。
「でも、ここは違います。誰もが前を向き、より良い生活を作ろうとしている。アルド様、貴方が作るものには、全て『優しさ』が込められています。この足湯も、家も、料理も」
ソフィアが俺の方を向き、微笑んだ。
それは営業用の笑みではなく、心からの感謝のこもった笑顔だった。
「だから、私はここで働けることが幸せなのです。……ただ、少しだけ」
「少しだけ?」
「……貴方とこうして、二人きりで過ごす時間が少ないのが、不満ですけれど」
彼女は少し顔を赤らめ、上目遣いで俺を見た。
不意打ちだ。
あの鉄壁のソフィアが、こんな可愛らしいことを言うなんて。
「そ、それは……善処するよ。俺も、ソフィアともっと話したいし」
「約束ですよ? ……では、証拠として」
彼女は俺の腕に自分の腕を絡ませ、頭を肩に乗せてきた。
柔らかい感触と、石鹸の香り。
足元は温かく、肩には愛おしい重み。
最高の時間だ。
だが、神様というのは意地悪らしい。
この幸せな時間を、唐突に断ち切る者が現れた。
『――警告。緊急事態発生』
マザーの声が、二人の甘い空気を切り裂いた。
ソフィアが弾かれたように体を起こし、瞬時に「支部長」の顔に戻る。
「どうしました、マザーさん!?」
『南側の荒野より、単独の生体反応が接近中。……速度は緩やかですが、殺気が異常です。識別信号照合……該当者あり』
「誰だ?」
『元・勇者パーティリーダー。カイル・バーンズです』
「カイルだと……?」
俺は息を呑んだ。
いつか来るかもしれないとは思っていた。
だが、まさか一人で来るとは。
「ソフィア、君はここで指揮を。俺が行く」
「いいえ、私も行きます。ギルド支部長として、不法侵入者を見過ごすわけにはいきません」
彼女は眼鏡をかけ直し、キリッとした表情で立ち上がった。
俺たちは急いで足湯を出て、南の入り口へと向かった。
拠点の入り口には、すでにヴァネッサとシルヴィアが待ち構えていた。
シロも俺の足元に来て、低い声で唸っている。
そして、荒野の彼方から、ふらふらとした足取りで歩いてくる人影があった。
黄金の鎧は泥にまみれ、かつての輝きを失っている。
自慢の金髪はボサボサに伸び、無精髭が生えている。
その手には、赤錆の浮いた聖剣が握りしめられていた。
「……カイル」
俺が呼びかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
その目は充血し、狂気じみた光を宿していた。
「アルドォォォ……! 探したぞ、アルドォォォォ!!」
カイルが叫んだ。
かつての爽やかな勇者の面影はない。そこにいるのは、憎悪に囚われた亡霊のようだった。
「どうして一人で来た? 仲間はどうした?」
「仲間? はっ! あんな役立たずども、捨ててきたわ! 聖剣が錆びたのも、俺の評価が落ちたのも、全部あいつらのせいだ! いや、お前のせいだ!」
カイルは聖剣を俺に突きつけた。
「お前がいなくなってから、何もかもがうまくいかない! 飯は不味いし、風呂はぬるいし、魔物は強いし、王様はうるさいし! 全部、全部お前の呪いだろ!?」
「呪いなんかじゃない。それが『普通』なんだよ。お前が今まで、どれだけ俺に頼りきりだったか、まだ分からないのか?」
「うるさい! 黙れ黙れ黙れ!」
カイルは聞く耳を持たない。
彼は周囲を見渡し、テラ・テルマエの豊かな緑と、美しい建物を見て、さらに顔を歪めた。
「なんだ、ここは……? なんで追放されたお前が、こんな楽園みたいな場所に住んでるんだ?」
「俺たちが作ったんだ。俺と、仲間たちでな」
「仲間……?」
カイルの視線が、俺の周りにいる女性たちに向けられる。
凛としたヴァネッサ、冷ややかなシルヴィア、知的なソフィア。そして、遠くから心配そうに見守るリーリャやララ、ヘレナ、ザラ。
「ふざけるな……。ふざけるなよ!!」
カイルの体から、どす黒い魔力が噴き出した。
それは、勇者の聖なる力とは似て非なる、歪んだ執着の奔流だった。
「俺は! 勇者だぞ! なのに泥水をすすってここまで来たんだ! なのになんで、お前だけが幸せになってるんだ!?」
純粋な嫉妬。
そして逆恨み。
理屈などない。ただ、自分が不幸な時に、他人が幸せであることが許せないのだ。
「許さない……。お前だけ幸せになるなんて、絶対に許さない! この場所も、その女たちも、全部壊してやる! 俺と同じどん底に叩き落としてやる!」
カイルが聖剣を振り上げた。
錆びついた刀身が、悲鳴のような音を立てて魔力を帯びる。
「死ねぇぇぇぇッ!」
カイルが地面を蹴った。
腐っても勇者。その速度は常人を遥かに超えている。
一瞬で間合いを詰め、俺の首を目掛けて剣を振り下ろす。
「させるか!」
ヴァネッサが動こうとし、シルヴィアが指を鳴らそうとする。
だが、俺はそれを手で制して一歩前に出た。
「……マザー!」
『了解。対勇者用・防衛シークエンス、起動します』
俺の声に応え、背後に控えていたマザーの巨体が駆動音を上げた。
カイルの凶刃が俺に届く直前、俺たちの間に見えない壁が出現する。
ガギィィィンッ!!
聖剣が弾かれ、カイルがたたらを踏む。
エネルギーシールドだ。
「なっ……!?」
カイルが驚愕に目を見開く。
「悪いがカイル、ここはお前が暴れていい場所じゃない。……帰れと言っても聞かないなら、力ずくで排除する」
俺は静かに告げた。
これは、俺の過去との決別だ。
そして、この楽園を守るための、最初の試練だ。
「ナメるなぁぁぁッ!」
カイルが再び剣を構え、全身から稲妻のような魔力を迸らせる。
本気だ。
勇者としての矜持も捨て、ただの復讐者として、彼は俺たちを壊しにかかる。
俺はマザーを見上げた。
阿吽の呼吸。
マザーのアームが動き、俺の前にある「装備」を差し出した。
「行くぞ、カイル。……お前との腐れ縁も、これで終わりだ」
俺は装備を受け取り、装着した。
戦いの火蓋が、切って落とされた。




