第10話 湧き出たのは命の湯でした
地下三千二百メートルから汲み上げたエーテル水の恩恵は、まさに奇跡と呼ぶにふさわしいものだった。
マザーのプラントで適正濃度に希釈し、整地したばかりの畑に散布してからわずか一日。
赤茶けた土が広がっていただけの荒野は、今や見渡す限りの緑に覆われていた。
「……成長速度、早すぎないか?」
俺は目の前に広がる光景に、ただ呆然とするしかなかった。
植えたはずの野菜の種――マザーの備蓄庫で数千年の時を超えて眠っていた古代種たち――が、一夜にして発芽し、双葉を広げ、中にはすでに青々とした本葉を茂らせているものまである。
足元では、シロが嬉しそうにキャベツ畑の中を走り回り、迷い込んだ白い蝶を追いかけている。
ここは本当に、昨日まで死の荒野と呼ばれていた場所なのだろうか。
『エーテル水の活性効果ですね。植物の細胞分裂を極限まで加速させています。味も保証しますよ。栄養価は通常の野菜の五倍、成長速度は約二十倍です』
マザーが得意げに解説する声がスピーカーから響く。
水と大地と、太陽。そして超古代の圧倒的な技術。
これらが揃えば、不毛の地など存在しないのかもしれない。当面の食料問題は、これで完全に解決したと言っていいだろう。
「さて……。水も食料も確保できた。生存に必要な基盤は整ったな」
俺は深く息を吐き出し、視線を居住ユニットの裏手にある岩場へと向けた。
衣食住の衣はマザーの合成繊維がある。食は畑と備蓄でなんとかなる。住は快適なコンテナハウスがある。
ならば次は、この生活拠点をさらに充実させるための拡張工事だ。
「マザー。次は施設の増築といこう」
『増築、ですか?』
「ああ。以前作ってくれた岩風呂も最高だが、これだけ生活基盤が安定したんだ。どうせなら、あの岩風呂を拡張して、本格的な湯治場を作ろうじゃないか」
職人としての血が騒いでいた。最低限の生存が保証された今、次に向かうべきはより高い生活の質の追求だ。
『承知しました、マスター。実は、先日のエーテル水脈調査の過程で、さらに興味深い反応を探知しています。深度四千五百メートル。マグマ溜まりの熱干渉を受ける岩盤層の隙間に、高圧の熱水だまりが存在します』
「四千五百メートル……。エーテル水よりさらに深いのか」
『はい。成分構成が異なります。エーテル水が純粋な魔力水であるのに対し、こちらは周囲の岩盤から豊富なミネラル分を溶かし込んだ、正真正銘の天然温泉です』
「ビンゴだ。それを引こう」
俺は即決した。
良い仕事をするには、良い休息が必要だ。そして最高の休息には、最高の湯が必要なのだ。
「場所はあの高台がいい。荒野を一望できて、夜には星が綺麗に見えるはずだ」
『了解しました。景観を重視した設計にしますね。では、掘削手順を開始します。マスター、少し揺れますよ』
ズウンッ……!
マザーが移動を開始する。
六本の多脚が岩場をしっかりと踏みしめ、巨大な身体を固定する。
腹部から展開されたのは、前回使用したものよりもさらに太く、鋭利な輝きを放つ超深層岩盤破砕用ドリルだ。タングステン合金の表面に、魔力強化の術式が幾重にも刻み込まれている。
『目標深度四千五百。岩盤硬度、最高級。……出力最大。掘削開始』
ガガガガガガガガガガガッ!!!!!
凄まじい轟音と共に、巨大な刃が大地に突き立てられた。
地面が震える。だが、不快な揺れではない。大地を切り拓く力強い鼓動だ。
硬い岩盤が豆腐のように削り取られ、排出口からは粉砕された土砂が猛烈な勢いで吐き出されていく。
俺は少し離れた岩陰から、その光景を見守っていた。
シロが不思議そうに首をかしげて俺の足元に寄ってくる。大きな音に少し驚いているようだ。俺はシロを抱き上げ、その背中を撫でながらマザーの作業を見つめる。
千メートル、二千メートル。
マザーの掘削速度は驚異的だ。
通常の魔法土木工事なら数ヶ月かかる深度を、彼女はわずか数十分で突破していく。
三千メートルを超えたあたりで、ドリルの回転音が甲高くなった。極めて硬い地層に入ったのだ。
『硬質玄武岩層を通過中。……回転数上昇。冷却液注入』
プシュウゥゥゥ!
白い蒸気が噴き上がる。
摩擦熱で赤熱しそうになる刃を、冷却魔法を付与した液体で冷やしながら、マザーは容赦なく掘り進む。
その姿は、まさに開拓の神の眷属のようだ。
そして、開始から約二時間後。
『――目標深度に到達。岩盤、貫通します』
ズドンッ!!
腹に響く重い衝撃音と共に、ドリルの抵抗がふっと消えた。
その直後だ。
シューーーーーッ!!!!
掘削孔から、高圧の蒸気が空高く噴き上がった。
続いて、ドクッドクッという脈動と共に、液体が溢れ出してくる。
「出たか」
俺は身を乗り出した。
噴き出した湯は、透明ではなかった。
夕日を受けてキラキラと輝く、その色は――。
「……黄金色?」
そう、黄金だ。
琥珀色にも似た、深く美しい金色。
それが惜しげもなく溢れ出し、乾いた地面を濡らしていく。
あたり一面に立ち込める湯気からは、鉄分と硫黄、そしてどこか甘いような芳醇な香りが漂ってきた。
『成分分析完了。含鉄-ナトリウム・カルシウム-塩化物泉。空気に触れることで鉄分が酸化し、美しい黄金色に変化しています』
マザーの声が弾んでいる。
『さらに、微量のエーテル成分と、地下深層特有の希少元素が溶け込んでいます。効能は疲労回復、神経痛、筋肉痛、冷え性、切り傷、火傷、美肌効果。加えて、魔力回路の微細な損傷を修復する魔力治癒効果まで確認されました』
「魔力治癒だって?」
『はい。浸かるだけで魔力の通りが良くなり、活性化します。まさに命の湯と呼ぶにふさわしい、極上の源泉です』
「最高じゃないか」
俺は喉を鳴らした。
期待以上だ。魔力治癒効果を持つ温泉など、王都の文献でしか読んだことがない。
「よしマザー。早速器を作るぞ。湯が冷めないうちに」
『了解しました。最高の場所に、最高の大露天風呂を建設しましょう』
ここからは手際の勝負だ。
マザーが繊細な作業用の腕部を展開する。
掘削で出た大量の岩石を、マザーの加工熱線が切り出し、研磨し、瞬く間に美しい石材へと変えていく。
俺も指示を飛ばす。
「湯船の底は平らな石を敷き詰めてくれ。座った時に肌触りがいいようにな」
「縁は少し高めにして、頭を乗せられるように。寝湯ができる空間も確保する」
「あそこの巨大な岩は動かさず、そのまま景観として活かそう」
俺とマザーの連携は完璧だった。
俺が思い描き、マザーが形にする。
石を積み上げ、隙間を耐熱セメントで埋め、湯口を作る。
源泉からの配管には、温度調整用の弁を取り付ける。これで熱すぎる源泉を、加水なしで適温まで冷まして注ぐことができる。成分を少しでも薄めないためのこだわりだ。
仕上げに、周囲を目隠しするための石垣を組み、少し植栽を施す。
わずか一時間。
荒野の高台に、高級な湯治場も顔負けの立派な大露天風呂が完成した。
『注水開始します』
ザアアアアア……。
湯口から黄金色の湯が注がれる。
広い湯船が満たされていくにつれ、湯気がもうもうと立ち込め、周囲の空気を温めていく。
水面に夕日が映り込み、黄金色がさらに燃えるような茜色へと変わっていく。
「……完璧だ」
俺は作業着を脱ぎ捨てた。
荒野の風は冷たい。だが、目の前には圧倒的な熱量の塊がある。
手ぬぐい一枚になり、湯船の縁に立つ。
足先に湯をかける。
熱い。だが、心地よい熱さだ。
俺はゆっくりと、黄金色の湯の中へと足を踏み入れた。
チャプン……。
膝まで、腰まで、そして肩まで。
濃厚な湯が全身を包み込む。
「うぅぅぅぅぅ…………ああぁぁ…………」
深い溜息が、喉の奥から漏れた。
圧倒的な快感がそこにあった。
黄金の湯が肌に吸い付き、身体の芯まで一瞬で熱を伝えてくる。
重厚な湯の圧力。
血流が巡り始め、強張っていた筋肉が一本一本ほぐされていく。
それだけではない。魔力治癒の効能だろうか、体内の魔力回路の隅々にまで温かいエネルギーが染み渡り、疲労が根本から洗い流されていくような感覚があった。
俺は湯船の縁にある、頭を乗せるために作った窪みに後頭部を預けた。
全身の力を抜く。
身体がふわふわと浮遊する。
見上げれば、空は藍色に変わり始め、一番星が瞬いていた。
「……極楽だ」
本当に、心の底からそう思った。
十日前まで、俺はどうしていた。
王城の底冷えする工房の片隅で、油まみれの毛布にくるまり、明日の仕事のプレッシャーに胃を痛めていた。
それが今はどうだ。
黄金に輝く極上の湯に身を沈め、世界で一番美しい星空を見上げている。
誰にも急かされることなく、ただ、自分自身のためだけに時間を使っている。
『マスター、湯加減はいかがですか?』
湯船の脇に置いた通信端末から、マザーの優しい声が聞こえる。
「最高だよ、マザー。絶妙な温度だ」
『それは良かったです。のぼせないように、冷たいお水も用意してありますよ』
腕部が伸びてきて、キンと冷えた水が入った木桶を縁に置いてくれた。
俺は桶を浮かべ、水を一口飲んだ。
冷たい水が火照った体に染み渡り、意識が静かに澄んでいく。
「わふぅ」
シロが湯船の縁に前足をかけ、不思議そうにこちらを覗き込んでいる。
湯気が熱いのか、鼻をひくひくさせているのが可愛い。
「お前も入るか? シロ」
俺が湯をすくってかけると、シロはビクッとして身震いし、慌てて逃げていった。
どうやら犬に温泉の良さはまだ早いらしい。
『ふふ、シロちゃんには後でぬるめのお湯で体を洗ってあげましょうね』
「そうだな。……ありがとうな、マザー」
俺は夜空を見上げたまま、静かに礼を言った。
「お前がいなきゃ、この楽園は作れなかった」
『お礼を言うのは私の方です、マスター』
マザーの声には、温かい情愛が滲んでいた。
『私は作られた存在です。誰かに必要とされ、誰かのために機能を使うことが、私の喜びであり、存在意義なのです。貴方が私を相棒と呼んでくれたから、私はこうして輝くことができています』
マザーの巨大な単眼が、暖色の光を放ちながらゆっくりと明滅する。
それはまるで、湯気に煙る月のように優しく、俺を見守っていた。
『さあ、今は何も考えずに、ゆっくり温まってください。貴方はもう、誰に遠慮する必要もない、この地の主なのですから』
「ああ……そうさせてもらうよ」
俺はもう一度、深く湯に浸かった。
黄金色の湯が、俺の身体と心を包み込んでいく。
ここが俺の居場所だ。
不毛の荒野と呼ばれたこの場所は、今や豊かな水と緑、そして命の湯が湧き出る楽園へと変わりつつある。
この温もりを、この安らぎを、俺たちの手でもっと大きく、豊かにしていくんだ。
夜風が吹き抜け、湯気を揺らす。
心地よい疲労感と、満ち足りた幸福感に包まれて、俺は目を閉じた。
――こうして、追放された魔導工学師と、お節介なAI重機の、最初の大きな節目は幕を閉じた。
だが、俺の新しい人生は、まだ走り出したばかりなのだ。




