せかいいちの幸せ者
ほんのり焦げた匂いが部屋の隅に薄く漂っていた。
テーブルの上には、彼が珍しく作った料理が並んでいる。
「すごいね、頑張ったんだね」
沙耶は思わず笑った。
彼女の言葉に、彼──涼は、どこか照れくさそうに肩をすくめる。
口元に浮かぶ微かな笑みが沙耶の胸をいたずらにくすぐる。
「たまには俺だってやるんだよ。ちょっと焦げたけどな」
ぶっきらぼう。でもそんな言葉さえ愛しく思えた。
涼の気まぐれはいつも突然で、けれどその一瞬の優しさに沙耶は心を救われてきた。
どんなに理不尽でも、彼の笑顔ひとつですべてが報われる気がした。
世界で一番見たいと願うのは、愛する彼のその笑顔だけだ。彼の微笑みにすっかり沙耶の心は取り憑かれてしまった。
だからこそ沙耶はずっと、彼の喜ぶ顔を見るために生きてきた。彼と恋人になってからもう三年。いつの間にか、鏡を見るよりも彼の顔を見る方が多くなっていた。
彼は沙耶の理想を詰め込んだような存在。容姿だって申し分なく、自分の姿を見るよりも彼を見ている方が気が休まるのだから仕方がない。
彼が自分を選んでくれたこと自体が奇跡なのだ。
放してなるものか。放されてたまるものか。
それが意地なのか献身なのか。沙耶は涼の機嫌がよくなるように、服も髪型も話し方すら変えてきた。
彼の望みを叶えることが、自分の幸せだと思っていた。
そう信じて疑わなかった。
疑うわけもない。この三年間、沙耶は確かに彼といられて幸せだった。幸せに違いなかった。
幸せでなければならなかった。
──幸せに決まっていた。
けれど、その夜。
たった一つの出来事が、彼女の曇りなき眼に墨を注す。
油がはねて、涼の頬を突き刺す。フライパンからの思わぬ攻撃に涼は小さく叫んだ。
「熱っ!」
彼の声に驚いて駆け寄った沙耶は、顔を青くして彼の頬に手を伸ばす。火傷を心配したのだ。
しかし沙耶の白い手が彼の視界を掠めた瞬間、乾いた音が響いた。
「ッチ、触んな!」
冷たく、矢のような声が耳を通ると同時に沙耶の頬に衝撃が走り、視界が一瞬途切れた。
何が起きたのか咄嗟には理解できなかった。
気のせいだろうか。
沙耶はただ、呆然と立ち尽くし、瞬きをして涼の顔を見やる。
大好きな顔に浮かぶのは怒りでも後悔でもなく、ただの苛立ちだった。火傷した頬を自らの人差し指でそっと撫で、ぶつくさ言いながら氷を取りに背を向ける。
謝罪の言葉は、どこにもなかった。
沙耶が頬を叩かれたと気付いたのは、彼が氷を頬にあて、こちらを横目で見た時だ。
彼は沙耶を叩いた自覚すらなさそうだ。
「やけどしちまったよ。料理って難しいな」
涼は眉尻を下げて情けなさそうに笑う。
沙耶の目尻に微かに浮かんだ涙が彼の瞳に捉えられることはなかった。
夜遅く、自宅に帰った沙耶は鏡の前に立った。
彼の作った料理からは何も味がしなかった。食べた記憶すら怪しい。それでも彼の得意気な笑顔だけははっきりと脳に焼き付いていた。
恐る恐る頬を鏡に近づければ、まだ赤い痕が残っている。やはりあれは幻ではない。
彼の口が触れたのは沙耶の唇だけ。あの刹那の出来事には何も触れなかった。それどころか、夕食の褒美を当然のように求めてきた。
断ることを知らない沙耶は今夜も彼の期待にだけ応えた。誰よりも近くで沙耶の顔を見たはずの彼にはこの痕が見えなかったのだろうか。
腫れた頬に手を添え、沙耶は自分の肌が確かにそこにあることを確かめる。
腫れはいつ引くのだろう。会社で何か言われたら何と答えればいい。
けれどそれよりも、鏡に映る自分の瞳がどこか他人のように見えた。
──私、何のために……。
「ねぇ」
呟いた声が、やけに静かに響いた。
思い返せば、最初の頃は彼の言葉のすべてが嬉しかった。「お前は素直でいいな」と笑ってくれたあの日。
でも気づけば、その“素直さ”は、彼に都合のいい従順さに変わっていた。
彼が望む言葉だけを口にし、彼が望む笑顔だけを浮かべる。
その繰り返しが、いつしか自分を空っぽにしていった。
鏡越しに見つめる自分は、もはや知らない人間だった。口を開いても、額を撫でても、髪を触っても──そこに映るのは名も知らぬ他人だ。
その日を境に、世界の見え方が少し変わった。
腫れた頬のことを考えるのを避けることで、いつも脳を支配していた顔が自然とぼやけていったのだ。
朝、カーテンの隙間から差し込む光がやけに眩しく感じた。
通りを歩く人々の声、風の音、信号の青。
どれもが妙に鮮やかで、異世界のように感じられた。
彼のいない時間が──彼のことを考えない時間が、こんなにも穏やかだなんて。
涼はその後も、何事もなかったかのように接してきた。
沙耶が沈黙しても、彼は気づかないふりをした。
「なに、まだ機嫌が悪いのか」
そう言って笑うその顔に、もう昔の優しさはなかった。
腫れた頬は次第に元に戻ったが、沙耶の頭の中はすっかり様変わりしていた。まるでデトックスをしたような感覚だ。
彼はなぜ私を叩いたのだろう。
なぜ見て見ぬふりをするのだろう。
彼の照れ隠しか、それとも──。
あの一瞬から数週間が経った頃、沙耶はついに口にした。
彼の顔が脳内から出ていったと入れ違いに、ずっと胸にしまっていた言葉だ。
「別れよう」
涼は何を言われたのか分からないように目を見開いた。
「……は? 冗談だろ?」
「本気だよ」
「待てよ、なんでだよ。もしかしてあの夜のことか? 俺が悪かったんだろ? なぁ、あの時は──」
「違うの。もう、無理なの」
沙耶は淡々とした調子で首を横に振る。
ようやく彼の口から「あの夜」の言葉が出てきた。自覚はあったのだ。それなのに今の今まで謝らなかった。咄嗟のことならば、普通はそうならない。
思っていなくても「ごめん」と口をつくはずだ。
少なくとも相手を大事に思っているならば。何かしらの情が存在するならば──凶悪犯でももっとうまくやるだろう。
沙耶の疑念が確信へと変わる。もうとっくに、彼の洗脳は解けていた。
妙に冷静な沙耶とは真逆に、怒りに震えた涼は両手で沙耶の腕を掴んだ。
「ふざけんなよ。そんなこと言って。分かってんだろ? 俺にはお前しかいないんだよ! それに、俺以外の誰がお前なんかの相手をすると思う?」
感情のない怒号が部屋中に響く。
昔なら、その言葉ひとつで心が揺れた。
ごめんなさいと言って、涙でぐしゃぐしゃになりながら彼に抱きつき、怒りを宥めたことだろう。
けれど今は、ただ遠くに聞こえた。
虚空に響く雑音に過ぎなかった。
見て見ぬふりをしていたくせに。違う。見て見ぬふりしてたのは自分の方だ。
彼の手を静かに振りほどき、沙耶は真っ黒な瞳でぴしゃりと言い放つ。まるでシャッターを閉めるように無機質な声だった。
「ごめんね。もう、あなたの“幸せ”にはなれないの」
彼の顔に一瞬、焦りが浮かんだ。表情は分かりやすいのに、それでも彼は何も言えなかった。言葉が浮かばないようだ。
口をぱくぱくして、餌を求める鯉のように沙耶を見つめるばかりだった。
きっと彼の中で、沙耶は“いなくならない存在”だったのだ。だからこそ、頭が真っ白になっているに違いない。
どうしてあんなにも彼を愛せたのだろう。
もはやあれが愛だったのかも分からない。
分かるのは、自分を見る彼がただの肉の塊だということだけ。
唇を結び、沙耶は踵を返して彼のもとを去った。
玄関の扉を開けると秋の風が頬を撫でた。
沈みかけた太陽が街を黄金色に染めている。
その光の中に立つと、胸の奥で何かがゆっくりほどけていくのを感じた。
涙が一筋、頬を伝う。
悲しみの涙ではないと沙耶は自覚していた。
だから恥ずかしくとも、少しの無様を自分に許した。
歩き出すたびに足元の影が伸びていく。
長く伸びた自分の影の向こうに、まだ見ぬ明日が広がっている気がした。
ふと立ち止まり、空を見上げる。
夕陽がゆっくりと沈んでいく。
そのあまりの美しさに、なぜだか笑みがこぼれた。
青とオレンジが溶け、ピンクと紫が出会う。
贅沢な色の世界を漂う雲は力強く、優雅であたたかい。
──やっと自由になれたんだ。
胸にぱっと浮かんだ言葉は誰に向けたものでもなかった。
けれど、世界がその声に静かに応えたような気がした。
誰かに合わせて生きる必要は、もうない。
誰かの機嫌で一日を決めなくていい。
これからは、自分の笑顔を自分でつくっていけばいい。
そう思った瞬間、風が少しだけ強く吹いた。
「おかえりなさい」
まるで天使が耳元で囁いたようだった。
髪が揺れ、夕陽が瞳の奥で光る。
沙耶の瞳にもようやく微笑みが戻ってきた。本人も気付かぬ、柔らかな笑みだった。
夜になっても涼からの連絡はなかった。
スマートフォンの画面が静まり返っている。
その沈黙が不思議と心地よかった。
テレビの音も消して窓を開ける。
外の空気は少し冷たく、どこか懐かしい匂いがした。
ビルの向こうに小さな星がひとつ光っている。
その星を見つめながら、沙耶は回顧する。
自分はずっと、誰かの幸せの一部でいることを望んでいた。でもそれは幸せの形じゃなかった。
本当の幸せなど誰にも答えはなく、どんな答えでも構わない。今の自分にとってそれはきっと、自分を許すこと、なんだ。
頬杖をつき、沙耶は目蓋を閉じる。すべてを放した途端、自分の呼吸音が愛おしく感じられた。
今なら、色んな答えを見つけられそうだ。
大好きだった。命綱とも言えた涼に別れを告げるなど思いもよらなかった。少し前ならば、そんなことをする自分を縛り付けただろう。
けれど実際に別れた今、失ったものよりも得たもののほうがずっと大きかったと感じる。
自分を取り戻す勇気と、生きることの静かな喜び。
世界は変わらないようでいて、自分が変われば、すべての景色が違って見える。
ベッドに入った沙耶はそっと息を吐いた。
心がやわらかく満ちていく。
なんだ。恐れることなどなかった。
孤独は、もう沙耶を脅かすことはなかった。
──終わりじゃない。はじまりなんだ。
そう気づいた瞬間、彼女の胸は安らかな想いと希望で一杯になった。もう涙は出てこない。
そして、心の中で静かに呟いた。
私は今夜、世界でいちばんの幸せ者になれた。




