拍手喝采に溺れ、教師だった面影は儚く散る
七月に入り、大学の学祭実行委員会が主催する「コスプレコンテスト」の準備は佳境を迎えていた。周囲の学生たちは期末試験やレポートに追われる時期でもあるが、一方で学内は学祭ムードに包まれつつある。そんな中で、小鳥遊 雛は、毎日のようにコスプレ部や有志のメンバーと一緒に衣装や演出、ダンスの練習に忙殺されていた。
元々、体育講師・佐伯 剛だったはずの自分。今やほとんど“男の自分”を思い出せないほど、女子大学生としての生活に溶け込んでしまっている。といっても、記憶の片隅にかすかに残る「自分はもともと男だった」意識は消えきってはいない——そんな曖昧な状態で、さらなる忙しさが雛を襲い続けているのだ。
寮の部屋から大学へ向かう道すがら、朝の陽射しが容赦なく照りつける。雛はひらひらのスカートの裾を押さえながら、小走りで校舎を目指していた。ブラウスの中に包まれた大きな胸が揺れるたび、あまりの熱気にうっすら汗がにじむ。最近になって、本当に身体が女の子仕様になっているのを実感させられることが多い——夏は胸の下に汗が溜まりやすく、ケアが欠かせないのだ。
「はあ……急がないと、ダンス練習遅れちゃう」
息を切らしながら体育館の裏手にあるスタジオへ。そこで、織田 翔太や先輩女子の星川 麗、さらにダンスサークルから助っ人として来てくれているメンバーらが、雛を待ち構えていた。
「お、雛ちゃん遅いぞー。朝っぱらから容赦なく踊ってもらうからね」 「もう、翔太先輩……ふう……」
小柄な体型の雛が息を弾ませていると、ダンスサークルの女子から「じゃあストレッチから始めよっか」と声がかかる。雛は床にマットを敷いて、まずは柔軟体操をしていく。運動オンチゆえに開脚もままならず、太ももや腰を伸ばすたびに情けない呻き声が漏れる。
「い、痛い……もう無理……」 「雛ちゃん、がんばれ。コンテストではステージ上で踊るんだから、体をほぐさないと大変だよ?」
麗が横から声をかけてくる。彼女はもともとスタイルがよく、多少のダンスなら難なくこなせるタイプだ。対して雛は胸の重さや運動音痴が相まって、踊りながらバランスを崩しそうになることもしばしば。実際、この数日の練習でも、何度も転びそうになって周囲をヒヤッとさせている。
「はあ……はあ……足がつりそう……」 「大丈夫? 雛ちゃん、本番でもこんなふうにヘロヘロになっちゃうかも……」
練習の合間にペットボトルの水を飲みながら、雛は少しうなだれる。サークルのメンバーからは「ゆっくり慣れていけばいいよ」と励まされるが、なかなか焦りは消えない。ステージで派手に転倒でもしたら、コスプレコンテストどころではないではないか。
そんな雛の胸中を知ってか知らずか、織田は楽しそうに笑っている。
「でも、その胸揺れパワーは絶対に目立つから、きっと観客は釘付けだよ。ちょっとやそっとのミスなんて気づかれないって」 「や、やめてよもう……! 恥ずかしいんだから、あんまりジロジロ見ないで」
そう言いながら腕で胸元を隠す雛だが、実際、激しい動きをするとバストが大きく揺れ、視線を奪いやすい。織田の言葉は半分イジワルだが、興味本位の男子が多い観客席なら、ある意味“武器”になりそうで複雑だ。
(……昔、いや、男だった頃の俺が見たらどう思うんだろう)
そんなことを考えかけるが、すぐに頭がもやっとして思考が止まる。もはや“男の自分”という存在がどこか他人事のようになっているのだ。
「はい、それじゃあ音かけるよー!」
ダンスサークルのリーダーがスピーカーを操作し、アップテンポの曲が流れ始めた。雛は気合を入れ直し、振り付けを確認しながらステップを踏む。足をクロスさせ、腕を大きく振り、途中で腰をぐるりと回す動作——そこでは思わず胸が揺れてしまい、鏡に映る自分の姿に「うわ……」と困惑しつつも、なんとかリズムを合わせようとする。
「雛ちゃん、胸に意識を持っていかれると足元が疎かになっちゃうから、まずは下半身でリズムをとるの!」 「わ、わかった……!」
あれこれ必死に体を動かし、気づけば3曲分ほど通しで踊らされた。息は上がり、顔は真っ赤。もうTシャツの背中も汗でびっしょりだ。サークルメンバー曰く「これでも初歩的な振り付け」らしいのだから恐ろしい。
「うう……私、こんなんでステージ立てるの……?」 「大丈夫、まだ時間あるし、練習すれば多少はサマになるわよ」
麗が笑顔で励ましてくれるが、雛の不安は消えない。それでも、一歩ずつでも前進するしかない。コンテスト当日まであと十日ほど。時間は限られている。
――――――
ダンス練習が終わった後、雛は大学の教室へ向かう。夕方からは別の授業があり、その合間にメイド喫茶のバイトも入るという大忙しスケジュール。運動したあとメイク直しをしないといけないのが面倒だが、今の自分にとって「化粧は当たり前」になりつつある。くたくたになりながらも、女子トイレの洗面台で少し汗を拭き、鏡を見ながら手早くファンデーションを塗り直す。
「……はあ、ほんとに女の子してるなあ、私……」
呟きながらも手は慣れた動きでアイメイクを整え、リップを塗る。これがいつの間にか苦にならないどころか、適度な快感になっているから恐ろしい。鏡を覗けば可愛らしい少女が映り、仕上がりに「……うん、こんなもんかな」と納得してしまうのだから、変化は進行中だ。
そのまま授業を受け、バイト先のメイド喫茶へ向かって接客業務をこなし、店を出る頃にはもう21時を回っている。いくら若いとはいえ、身も心もヘロヘロになっていた。
(もっと楽に生きたいよ……でも、コンテストがあるから下手に休めないし……)
家路につく道端で、薄暗い街灯の下をトボトボ歩いていると、ふと目の前に織田 翔太の姿があった。
「お疲れ、雛ちゃん。バイト終わるの待ってたんだ」 「……先輩? 何でここに……?」 「いや、明日の練習スケジュールとか打ち合わせしたくてさ。大学で待っててもよかったんだけど、終わりが遅くなるかと思って、こっちに来た」
にやりと笑う織田。その顔には相変わらず悪戯っぽい余裕が漂っている。雛はなんとなくソワソワしながら、周囲を見回す。こんな夜道で織田と二人きりという状況が、なぜか妙に落ち着かないのだ。
「……まあ、いいけど。とりあえず寮に帰りたいし、話は歩きながらでいい?」 「うん、そっちでいいよ」
そうして並んで歩き出す。夜風が少し涼しく、メイド喫茶の制服を脱いでロリータ調の私服に着替えた雛のスカートの裾がふわふわと揺れる。織田は横目でそれを見ながら「今日も可愛いね」とさらっと言ってのけた。
「か、可愛いとか言わないで……」 「別にいいじゃん、事実なんだし。……そうだ、明日のダンス練習は午後イチからにしようと思うんだ。昼前はみんな授業があるし、夕方には学祭のリハーサルもあるし、時間が限られてるからね」
業務連絡はさらっと済ませたあと、織田はスマホをいじりながら何か考えている様子。雛も内心(Rewriteアプリをあいつはどこで管理してるんだろう……)と気になるが、強引に奪うのは難しい。コンテスト本番まで待つしかないのか。
「ねえ雛ちゃん、最近は本当に“雛として”馴染んできたよね?」 「……どういう意味よ」 「いや、男のときはもっとガツガツした感じだったのに、今はすっかり女の子の仕草が板についてるし。話し方も柔らかくなったし、周囲も雛ちゃんの女の子らしさを当たり前に受け止めてる……」
脈絡なくそう言われて、雛は思わず身構える。が、織田は悪戯っぽく微笑むだけで、深い追及はしない。
「とにかく、俺は雛ちゃんが完全に“女の子”として完成する瞬間を見届けたいんだよね。コスプレコンテスト、期待してる」 「……うるさいな。人を観察して楽しむのやめてよ」
つんけんと突っぱねるが、胸の奥に妙なざわめきがある。織田の視線が、自分の姿をなめ回すように追ってくるのを感じると、嫌悪感だけじゃない何かが胸を締めつけるようで落ち着かない。
(もしかして“女の子の体”が、こういう男性のまなざしに敏感になってるってこと? そんなの、やだ……)
そう思いながらも、足取りは自然と寮への道をともにする。途中で織田に「じゃあ、おやすみ」と声をかけられ、別れたあとも、雛の心はざわついたままだった。
――――――
そして数日後。いよいよ学祭前の週末がやってきて、大学ではプレイベントとして小規模なコスプレコンテストが開催されることになっていた。本番のリハーサルを兼ねたコンテストで、当日の進行を確認する目的もあるらしいが、雛にとっては本番前の“試験”のようなもの。ここで舞台慣れをし、失敗を減らせるかが勝負だ。
ステージは大学の講堂に仮設で組まれ、観客席には主に学生や教員、そして学外の人も一部来ている。パフォーマーの数は多くないが、それぞれが自慢の衣装を披露し、歌や踊りなどで盛り上げていた。
「……緊張する……」
舞台袖で待機する雛。今日は簡易版のドレス風コスチュームを着て、先日習ったダンスの一部を披露する予定だ。大きなフリルのスカートにレースの袖、そして胸元はかなり大胆に開いている。ダンスをするたびに胸が上下に揺れるのが難点だが、視線を集めるには十分すぎる。
「雛ちゃん、大丈夫? ちょっと顔が青いよ」 「れ、麗先輩……助けて、めっちゃ足震えてる……」 「大丈夫大丈夫。昨日まで散々練習したじゃない。失敗しても平気だよ、これはあくまでプレイベントなんだし!」
麗の声に勇気をもらい、なんとか立ち上がる。織田が「リズムに乗り遅れないようにするんだよ」と声をかけ、背中をぽんと叩く。どうにか気合を入れ直し、雛はステージへと足を踏み出した。
照明が熱い。客席には思ったよりも多くの人がいて、最前列にはカメラを構えた撮影サークルの連中が並んでいる。突然、雛は恐怖で身体が強張ったが——音楽が流れ始めた瞬間、頭が切り替わるような感覚があった。
(やるしかない……!)
イントロに合わせて歩を進め、軽くターン。観客の目の前でスカートがふわりと広がると、小柄な体にアンバランスなほどの豊満な胸が揺れて、どよめきのような歓声が上がる。恥ずかしさを振り払うようにステップを刻むと、意外にもリズムをとれる自分に驚く。
「……あれ、案外イケてる? 私……」
一瞬、そんな思いが浮かぶ。練習してきた動きを一つずつなぞる中で、ミスがあっても大きくは崩れない。むしろ必死に動いているうちに「楽しい」という感覚が芽生えはじめる。踊りながら、スマイルを意識して顔をあげると、客席からは嬉しそうな拍手と歓声が飛んできた。
「雛ちゃーん!」「可愛いー!!」
まるでライブアイドルを応援するファンの声のようだ。自然と頬が熱くなる。曲のサビに合わせて大きく腕を振り、腰を回すと、胸が弾むのが分かる。でも不思議と恥ずかしいだけじゃなく、快感に近い感情が込み上げてきた。
(……あれ、なんだろう、気持ちいい……)
自分が“女の子の体”として認知され、視線を浴び、そのリアクションに喜びを感じている。今は「こんな姿を男のときの自分が見たらどう思うか」なんて意識は薄く、ただ目の前の観客に向けて全力でパフォーマンスしている——そんな自分に気づいて、戸惑う暇もなく音楽が最終パートへ突入した。
決めポーズ。ドンッと曲が終わり、照明が明るくなると、客席から大きな拍手が巻き起こった。息を弾ませながらステージ中央に立ち尽くす雛。その拍手と歓声の中で、恥じらいよりも達成感が先に立つ。
(や、やった……!)
演技を終えて袖に下がると、麗が満面の笑みで出迎えてくれた。
「すごいじゃん、雛ちゃん! ほとんど失敗なしで踊れてたよ!」 「うそ……ほんと? 私、途中で少しズレた気がしたけど……」 「全然大丈夫! 堂々としてたし、観客もめっちゃ盛り上がってた!」
ガッツポーズをする麗につられ、雛も笑みを浮かべる。追いかけてきた織田も「意外とやるね」と肩を叩いてくる。その表情は嬉しそうだが、どこか狡猾な光が混じっているようにも見えた。
「これなら本番も期待できそうだ。あとは衣装をもっと豪華にして、振り付けも仕上げていけば……“最優秀賞”も夢じゃないかもね」 「そ、それ……本当?」
「もちろん。観客受けはバッチリだよ」
雛は、安堵と高揚が入り混じった胸の鼓動を感じながら、思わず頬を赤らめる。それが「嬉しさ」だと自覚してしまい、戸惑いも同時に膨らむ。
(私、何を目指してるんだっけ……あ、そうだ。優勝して元に戻るんだ……でも、こんなに楽しんじゃっていいのかな……)
頭の片隅で警鐘が鳴る。しかし、それを押し流すように周囲の部員たちから「雛ちゃん最高!」「さすが期待の星だよ!」と褒め言葉が飛び交い、どんどん気分が高揚していくのを止められない。
――――――
結局、そのプレイベントでは観客投票による簡易的な表彰も行われ、雛は「特別賞」として名前を呼ばれた。最優秀賞こそ別の経験豊富なコスプレイヤーが得たものの、雛にとっては大金星。周囲の推しメンバーらが「実質、雛ちゃんが一番盛り上げたよね」と口々に褒め称える。雛は照れくささと嬉しさで頭が真っ白になりながら、ステージを後にした。
その夜、寮に戻ると、大浴場には同じようにプレイベントを終えた女子コスプレイヤーたちが数名来ており、「打ち上げしようよ」と盛り上がっている。雛も麗に誘われ、汗を流すため大浴場へ行くことにした。
浴場の脱衣所はわいわい賑やか。みんなショーを終えた解放感からか、キャピキャピした会話が飛び交っている。雛も衣服を脱ぎながら、いつものようにタオルを手にして胸を隠そうとするが、隣で脱ぎ始めた麗がツッコミを入れてくる。
「雛ちゃん、もうそんなに隠さなくてもいいじゃん。同じ女子同士なんだし」 「い、いや、でも……恥ずかしいし……」
実際に周囲はバストのサイズが様々で、雛ほどの大きさの子はあまりいない。視線を集めているのはわかるが、みんな冗談混じりに「雛ちゃんって本当にすごいね~」と笑っているだけで、悪意はない。
諦め半分でバスタオルを脇に置き、ブラジャーを外した瞬間、ゆさっと胸が揺れ、他の女子が「うわー……やっぱり迫力ある」と感心してくる。こういう場ではもはや半分ネタ扱いなので、雛も苦笑するしかない。
「ねえ雛ちゃん、昔からそんなに大きかったの? 重くない?」 「う、うん……中学生の頃から急に膨らんだみたいで……」
自然とそんな言葉が口をつく。最近、意識しなくても“中学時代から胸の成長に悩んでいた”という記憶が当たり前のように出てきてしまう。自分でも怖いが、もう抗えない。隣では麗が笑顔で「でも、雛ちゃんがコンプレックスをコスプレで克服したって話、有名じゃん」と口を挟む。
「コスプレで身体をポジティブに捉えられるようになったって、雛ちゃん昔言ってたもんね」 「そ、そうだったっけ……そうかもしれないけど……」
もう、男だった頃の自分に関する記憶はとても薄い。むしろ、ここで話している自分は「大きい胸がコンプレックスだった女子学生」という設定を自然に受け入れている——気が付くとそれが怖いのに、抵抗できないままになっている。
(あれ……わたしって、本当はいつから女の子だっけ……?)
頭を振って雑念を振り払い、浴室へ向かう。大浴場では他の女子たちとお互いの背中を流し合ったりしてキャッキャとはしゃぎ、まるで昔からの友人のように打ち解けている。時折、自分が男であった記憶をかすかに思い出し、「こんな場所にいたら普通大変なことだよな……」と頭を抱えたくなるが、気づけば周囲の雰囲気に呑まれてしまう。
「雛ちゃん、背中流してあげるね!」 「わ、ありがとう……でも、あんまり胸のほうは触らないで……くすぐったいから……」 「えー、どこまでオッケーかなー? きゃはは!」
軽いスキンシップが飛び交う中、何度か胸元をタオルで軽く叩かれたりして、雛は顔から火が出そうだ。周囲は無邪気な悪戯としか思っておらず、それはそれで微笑ましい光景に見えるだろう。しかし男だった頃を引きずる雛の意識には、刺激が強すぎる。
(……いや、今さらか。私、もう十分に女子扱いされてるんだから、これが当たり前になりつつあるんだよね)
湯船に浸かり、ぼんやりと天井を見上げる。深い疲れと心地よい解放感が入り混じって、思考がふわふわと浮いていきそうだ。
「明日の練習も頑張らなきゃ……ああ、でも、もう眠い……」
そんなことを口にしている自分に気づき、苦笑する。ここで“私”という一人称を口にしても、まったく違和感がなくなっている自分が怖い。そして次の瞬間、記憶の底で“男の頃の声”がかすかに呟いた気がした。「おい、いつまで女の子のままでいるんだ?」と——。
(でも、もう戻れなくても……いいのかな……)
そんな弱音が、雛の胸中をよぎる。大きな胸が静かに上下する湯面を見つめながら、いつか完全に“佐伯 剛”の記憶が消え去る日が来るのではないか——そんな予感を抱くのだった。
――――――
そして、ついに学祭当日。大学のキャンパスは模擬店や展示で活気づき、メインステージとなる体育館付近は熱気に包まれている。雛は朝からコスプレ部の仲間やダンスサークルのメンバーと合流し、最終リハーサルに余念がない。
ステージ裏では、豪華なドレスをさらに装飾してもらい、ヘアメイクを仕上げてもらう。美しく巻かれた髪、キラキラとしたアクセサリー、レースとリボンがあしらわれたドレス——まるで童話のお姫様のような姿だが、胸元は相変わらず大胆な開きがあり、支えきれないほどのボリュームが揺れるたびにドキッとする。だが、今日はもう“恥ずかしがっている暇などない”と、雛の中の何かが割り切っていた。
「雛ちゃん、準備OK?」 「うん……大丈夫。……行ってくる」
自分でも驚くほど落ち着いた声。ステージで踊ることへの緊張はあるが、プレイベントをこなした経験からか「やれる」という確信が少しだけある。それでも背筋がピンと伸びるのを感じ、意識を高める。
「絶対優勝してやるんだから……!」
そう呟いたとき、ステージ脇に立っていた織田が近づいてきた。その手にはスマホが握られている。Rewriteアプリが入ったあのスマホだろうか。彼は静かに雛の肩を叩き、耳元で囁く。
「がんばれよ、雛ちゃん。もし優勝できたら、“約束”を守ってあげる。……だから、思いきりステージを楽しんでおいで」
その言葉を聞いた瞬間、“ああ、そうだった”と雛は思い出す。“優勝したら元に戻れる”という約束。でも、不思議なことに、その事実にさほど心が動かない自分がいる。
(本当に……戻りたい……のかな……?)
たった一瞬そんな疑問が頭をよぎるが、スピーカーから呼び出しのアナウンスが聞こえ、考える暇はなくなる。「次の出場者は小鳥遊 雛さん!」という声に、雛はドレスの裾を持ち上げ、ステージへと足を踏み出した。
客席は満員。大勢の視線を浴びて、スポットライトが眩しい。音楽が鳴り始め、雛は華麗なステップで踊り出す。ふわりと広がるスカートと豊満な胸の揺れが観客の注目を一瞬でさらう。それでももう、恥ずかしさよりも高揚感のほうが勝る。何度も練習してきた振り付けを的確にこなし、曲のサビで大きくターン。客席からは歓声と拍手が波のように押し寄せる。
(楽しい……!)
そう、今はこの瞬間がたまらなく楽しい。踊っている自分が輝いている気がして、コスプレやファッションを「好き」と思う気持ちが本能から湧き上がる。曲が終盤に差し掛かり、決めポーズへ突入すると、まるで時間がスローモーションになるかのような錯覚を覚える——最後のターンをし、胸元の装飾を揺らしながら右手を高々と伸ばすと、ドンッと曲が止んだ。そこにスポットライトが一点集中する。
「……はぁ……はぁ……!」
息を切らしながら客席を見渡すと、ものすごい拍手と歓声が響いている。舞台袖で見守る麗も織田も、ガッツポーズをしてくれている。その光景を見た瞬間、“教師だった自分”という記憶の最後のピースがぷつりと切れたかのように感じた。
(ああ、私……昔からずっとコスプレが好きで、今日まで頑張ってきたんだよね。男だった? そんなの、最初からあり得ないじゃん……)
頭の中で何かがすうっと溶けていく。もう昔の自分を思い出せない。胸の奥がとても軽くなって、安堵に似た幸福感が広がっていく。
そのままステージを降りると、周囲のコスプレ仲間たちが駆け寄ってくる。「雛ちゃん、最高だったよ!」「これ、優勝狙えるかも!」と口々に褒めちぎり、雛も「えへへ、がんばっちゃった……」などと照れ笑いを浮かべる。もはや戸惑いも迷いもなく、完全に“コスプレ大好きな女子学生”としての自分を受け入れている。
――――――
何人もの演技が終わったあと、ステージでは結果発表の時間がやってきた。学祭実行委員が用意した投票制度により、審査員と観客投票を合計した総合点で最優秀賞が決まるという仕組みだ。雛は舞台上で他の出場者たちと並んで結果を待っていたが、ドキドキと胸の鼓動が止まらない。
「それでは、コスプレコンテスト最優秀賞の発表です……」
会場が静まり返る。司会が封筒を開け、中の用紙を読み上げると——
「最優秀賞は……小鳥遊 雛さん! おめでとうございます!」
その一言を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。気づけば「う、嘘……私が……?」と両手で口元を押さえている。会場からは大きな歓声と拍手が巻き起こり、仲間たちの祝福の声も飛んでくる。
「うわああ……ほんとに……わ、私……優勝……」
涙がこぼれそうになる。ステージ中央で賞状とトロフィーが手渡され、笑顔の学祭委員が「おめでとうございます!」と祝福してくれる。そんな中、雛は視界の端に織田の姿を見つけた。彼も拍手しながら、どこか含みのある笑顔を浮かべている。
(あ……そうだ。私、“願い”を叶えてもらわないと……)
そう思い出したとき、自分が“男に戻る”という目的はもうほとんど消え失せていた。代わりに胸の奥で別の衝動が膨れ上がってくる。まるで新しい記憶が書き足されたかのように——。
「そう……私、ずっと織田先輩のこと……好き、だった……」
まるで昔からずっと片思いしていたような錯覚。いや、錯覚ではない。Rewriteの力によって“記憶”が上書きされ、雛は本気でそう信じ始めていた。ステージ上でスポットライトを浴びながら、先輩に想いを伝えたい気持ちが込み上げてくる。
「大勢の前だけど……言っちゃえ……!」
胸をどきどきさせながら、雛は花束を手にステージを降り、織田のもとへ駆け寄る。観客が何事かとざわつく中、雛はひざまずくような仕草で織田を見上げた。
「翔太先輩……! 今まで何度も告白して……振られて……でも、私、諦められなくて……。お願いです……今度こそ……ひなと付き合ってくださいっ!」
声が震える。まわりから歓声や驚きの声が上がるが、雛の耳にはあまり入ってこない。織田の瞳に映っている自分がすべてだ。織田はほんの少し間をおいてから、いたずらっぽい笑みを浮かべて肩をすくめる。
「仕方ないなあ……そこまで言うなら、考えてやらないこともない」 「ホント……!?」
雛の目に涙が滲む。織田は「おいおい、泣くなよ」と苦笑しながら、そっと雛の手を取った。周囲から拍手と冷やかしの声が巻き起こり、学祭のステージ裏は一気に騒然となる。まるでドラマのクライマックスのようだ。
「み、みんな! ありがとうございます……!」
雛は我に返り、周囲に向かって照れながらお辞儀をする。最優秀賞を勝ち取り、さらに恋人まで手に入れた——そんなシンデレラストーリーに、集まった人々も盛大な拍手を送ってくれている。
(ああ……私、ずっと織田先輩に告白し続けてたんだ……ようやく報われたんだ……)
Rewriteによる新しい記憶の圧倒的な書き換えで、雛の中にあった“元は男だった”という意識は完全に消え去り、代わりに「高校時代から何度も先輩にアタックした末、ようやく恋が実った」という史実が脳内を占めている。織田を見つめる雛の瞳には、純粋な乙女の恋心が宿っていた。
――――――
その後、コンテストの表彰式が滞りなく進み、雛はステージでトロフィーを受け取り、満面の笑みで「ありがとうございました!」と挨拶した。会場は興奮の余韻に包まれ、雛は控室に戻ってからもたくさんの人に「おめでとう!」と声をかけられる。いまや、“コスプレ界の新星”として知名度まで上がりつつある。
「お疲れ、雛ちゃん。よかったね、優勝!」 「ありがとう、麗先輩……!」
麗や仲間たちが温かく抱きしめてくる。まるで家族同然の仲間意識に、雛も感極まって泣きそうになる。そして、そのまま駆け足で寮へ戻り、一息ついたころには日が暮れかけていた。
コスプレ衣装を脱いで落ち着きたい——そう思って寮の部屋に戻ると、麗が「今から大浴場で祝勝会じゃないけど、みんなでゆっくり入ろうよ!」と誘いに来る。「もう練習も本番も終わったから、ダメ出しも何もないし、存分に羽伸ばそう!」とのこと。雛も賛成してバスタオルを手に部屋を出た。
―――――― こうして訪れる女子寮の大浴場、3回目の大きなイベント。すでに先輩たちが集まっており、「雛ちゃん、ホントにおめでとー!」と祝いの言葉をかけてくれる。雛は恥ずかしそうに笑いながらも、今や完全に「女の子同士の空間」に何の抵抗もなく溶け込んでいた。
「いやー、ほんとすごかったよ、雛ちゃんのダンスとあの衣装! 胸がぽよんぽよん揺れててさー、男子客大歓声だったもんね」 「も、もう! 恥ずかしいから言わないで……でも、ありがと」
裸のままタオル一枚を腕にかけ、雛は浴槽に浸かる。バストは相変わらずド派手に揺れるが、周囲も慣れた様子で笑い合うだけだ。大きな湯船には、コンテストを手伝ってくれた友人たちも入り、互いの健闘を讃え合う和気あいあいとした雰囲気が広がる。
「雛ちゃん、告白も成功しちゃってさ……ほんと、よかったね」 「うん……私、ずっと先輩が好きだったから……今日ようやく正式に恋人にしてもらって、夢みたい……」
ぼんやりと湯面を見つめながら答える雛。その笑顔にはもはや“教師の名残”など微塵も感じられない。昨日まで心を揺らしていた“男だった自分”の記憶は、綺麗さっぱり消え失せてしまったのだ。
(最初から、私はこうしてコスプレを愛し、胸が大きいことに悩みながらも前を向いてきた……そして高校時代から織田先輩に何度も告白して、今日ようやく報われた……本当に幸せ……)
湯気の中でにっこり微笑む雛の姿は、生まれながらの女子大生そのもの。かつての体育講師の面影は、もう世界のどこにも存在しない。Rewriteアプリの力は完全に行き届き、雛は新しい人生を何の疑いもなく受け入れていた。
「それじゃあ……これから、先輩とのラブラブ生活が始まるのかな。えへへ……」
そんな想像を膨らませながら、雛は大きな胸を湯の中でぷかぷかと浮かべ、しあわせそうにため息をつく。周囲の友人たちも「いいなあ!」と冷やかしたり、「私も早く彼氏ほしい~」と盛り上がったり、楽しげなガールズトークが続く。学祭の大成功を祝うようにして、夜はゆったりと更けていった。
――――――
こうして、小鳥遊 雛の「コスプレコンテストで優勝する」という目標は無事に達成された。そして、同時に“男だった記憶”は跡形もなく消え失せ、恋も成就。まさにハッピーエンドさながらの結末だった。
ただ、その一方で、Rewriteアプリの持ち主・織田 翔太は、何やら不敵な笑みを浮かべてスマホ画面を見つめている。学祭の喧騒が去った夜のキャンパスで、彼はぽつりと呟いた。
「さて……雛ちゃんの改変は一段落。次は誰を書き換えてみようかな。うふふ……楽しみはまだまだ終わらないね」
その手中にあるスマホの画面には、無数の“ターゲット”候補が映し出されていた。織田は指先をスッと滑らせ、Rewriteアプリのアイコンをタップする。闇夜に一瞬だけぼんやりと輝く赤青グラデーションの光が、不気味な予兆を孕んでいた——。
――――――
その頃、女子寮の部屋では、雛がスマホを見つめながら、恋人として成立したばかりの織田へのメッセージを考えていた。頭の中には、織田への思い出が次々と溢れ出す。もちろん、Rewriteによって作られた“嘘の記憶”なのだが、今の雛にはそれが紛れもない真実だ。
「……ああ、もう、照れちゃう。なんて送ればいいの?」
顔を赤らめ、頬杖をつく。ベッドの上にはコスプレ大会でもらったトロフィーが置かれ、その隣には大きなぬいぐるみ。すべてが新しい自分の居場所を物語っていた。
「そうだよね……もう私は“雛”なんだから……。これから、もっともっとコスプレも恋も、めいっぱい楽しんじゃおう……!」
そう呟く声は、甘い囁きのように部屋の静寂へ溶けていく。少女の頬を彩る幸福な笑み。それはどこにも“男の頃の迷い”を感じさせない。これがRewriteアプリによって作られた“第二の人生”だとしても——今の雛にとっては、確かな現実であり、大切な幸せそのもの。