教師の名残薄れゆき、甘いコスプレが日常を満たす
翌朝も、小鳥遊 雛こと元・体育講師だった佐伯 剛は、目覚めてすぐに覚える“胸の存在感”に小さく溜め息をついた。大浴場で眠気を飛ばしたせいか昨日よりは疲労が抜けているものの、朝一番で感じる胸の重さはまだ慣れるどころではない。
(うう……昨日の撮影会、楽しいと思った瞬間もあったけど……やっぱり考えれば考えるほど複雑だ)
パジャマの中でブラジャーは着けていないから、起き上がるたびにぷるんと揺れ、情けなくなる。昨日の夜は、自分が若干「コスプレも悪くない」と思ってしまったことに嫌悪しながら眠りについたのだが、朝になるとやはり現実感が増す。自分は完全に“女子大生”扱いなのだと。
「……おはよ、雛ちゃん。朝早いんだね」
先に目覚めていた星川 麗が、同室のベッドから微笑む。麗はすでに着替えを始めていて、タンクトップ姿だ。その胸元はほどほどに女性らしい膨らみが見えるが、雛のような過激なサイズではない。だからこそ、雛の胸がなおさら目立ってしまうのだろう。
「うん……昨日ちょっと早めに寝たから、変な時間に目が覚めちゃって」 「そっか。朝ごはん、食堂にしようか? それとも何か買ってくる?」 「あ、ううん、食堂でいいよ」
自然に“女の子”同士のやりとりが交わされる。以前なら硬い敬語や警戒心丸出しだった雛だが、最近はこうして気楽に返事できるようになってしまった。内面ではまだ動揺していても、表面上はすっかり女子学生らしく振る舞っている。
雛がパジャマのボタンを外して脱ごうとしたとき、急に胸の先端がパジャマの生地にこすれ、「ひゃっ」と小さな声を漏らしてしまう。女性としての感度が高まっているのか、ちょっとした刺激にもびくっと反応してしまうのだ。
「ど、どうしたの?」 「い、いや……何でもない。ちょっと静電気みたいのが走っただけ」
ごまかすように苦笑する雛に、麗は「そっか」と首をかしげるが、それ以上は追及しない。しかし、雛としてはこれまでにない体の感覚に慣れず、少し憂鬱だ。たまにブラジャーを外したときに胸が揺れすぎて背中がゾクゾクしたり、下着をつける時に乳房を持ち上げるようにカップへ収めると、やたら意識してしまったり——今まで無縁だった刺激が、どんどん日常を侵食していく。
(こんなの、すぐ慣れるわけないじゃん……)
そう思いつつも、ブラジャーを背中で留める手は自然に動く。“小鳥遊 雛”としての記憶が身体に浸透しているのだと自分でわかってしまうのがつらい。
――――――
朝食を終えた後、雛は一人で大学の職員室へ向かった。これは昨日の夜に考えた計画どおり、“自分がかつて存在していた”証拠を探すためだ。8時前なら比較的教員たちもまだ落ち着いているだろうと思い、先手を打ったつもりだった。
ところが、職員室に足を踏み入れると、目を向けてくる数名の教員から「女子学生が朝っぱらからここに来て何をしている?」という顔をされる。改めて見ると、みんな雛をただの“1年生”としか認識しておらず、当然「佐伯 剛」という体育講師がいた記憶など一切ないらしい。
「あの、すみません、急にお邪魔して……」 「何か用かね? レポートか、履修相談か? それなら教務課に行ったほうがいいよ」
眼鏡をかけた男性教員がそう促す。雛はしどろもどろになりながら、意を決して切り出した。
「いえ、あの……“佐伯 剛”って先生、ここにいませんか? 以前、体育の……」 「さえき? いや、そんな名前の先生はいないと思うが……」
周囲の教員たちが顔を見合わせ、「聞いたことない」「そんな非常勤も含めていないな」と口々に断言する。やはりダメか。雛は苦い顔で項垂れる。
(やっぱり完全に書き換えられてる……俺の痕跡なんて、どこにも残ってないってことなのか?)
もし大学の公式データベースに履歴があれば……と淡い望みを抱いても、管理システムそのものが改変されているかもしれない。Rewriteというアプリの力は、どうやら現実世界の事象や人々の記憶・記録を根こそぎ書き換えるらしい。
「もしその先生に用があるなら、運動施設の部長先生か学生課に問い合わせてみたらどうかね?」 「あ……いえ、ありがとうございます」
申し訳なさそうに頭を下げ、雛は職員室をあとにした。気づけば廊下に注がれる周囲の視線も「こんな朝から職員室に来てる1年生って何事?」という好奇の目ばかりだ。居心地の悪さに足早に立ち去り、ひとまず何も得られずに終わってしまった。
「もう……本当にどうすりゃいいのよ……」
雛は呟きながら体育館のほうへ向かう。かつて“自分”が授業で使っていた場所。そこに行けば何か手がかりがあるかもしれない——そう思ったのだ。
――――――
体育館の中に足を踏み入れると、ちょうど朝練をしている部活の学生たちがいる。バスケットボール部やバレーボール部が元気よく声を掛け合い、汗を流していた。その横で監督やコーチらしき人物が指示をしているが、当然見覚えのない人ばかり。佐伯 剛が担当していたはずの体育の授業や指導は、何事もなかったかのように別の人物が受け継いでいるようだ。
「くそ……」
雛はコートの隅でボールのリバウンドをとる学生たちをぼんやり眺めながら、昔の記憶が頭をかすめる。男だった頃、自分はこうやって大きな声で指導し、学生たちを叱咤激励していた。スポーツこそが青春を輝かせる道だと信じて——。
けれど今、そこに“佐伯 剛”の欠片は何一つ見当たらない。ボールの音がただ虚しく響く。スニーカーをキュッと鳴らして走り回る彼らを見ていると、どこか羨ましい気持ちになってしまうのはなぜだろう。自分がコートで指示を出していたはずなのに、今はこんな小柄で運動音痴な女子大生……。
(……仕方ない)
すっかり意気消沈したまま体育館を出ると、ちょうど外の廊下で先輩女子・星川 麗とばったり遭遇した。後ろにはメイド喫茶のバイト仲間らしき女子が数名一緒にいる。
「雛ちゃん、こんなとこでどうしたの? 授業はもう始まるよ?」 「……あ、うん、ちょっと……」
言葉に詰まる雛に、麗の友人たちも「何かあったの?」と心配そうだ。あまりにも暗い顔をしているからだろう。雛はうまく取り繕えず、しどろもどろになっている。すると麗が、「私が少し話を聞いてあげる。みんなは先に行ってて」と他の女子たちを促した。
「じゃ、学食のほうで待ってるからねー。雛ちゃん、元気出してねー」
そう言って去っていく彼女たち。残った麗が「こっち、こっち」と雛の腕を軽く引き、廊下の端にある空きスペースへ移動する。そこには掲示板や自販機が並んでおり、人目が少ない。
「で、どうしたの? 何かトラブル?」 「トラブルっていうか……自分が何をしてたか、最近よくわかんなくなるの。どこを探しても、何も見つからないし……」
雛は曖昧な言い方で本音を隠そうとするが、麗は雛の手をギュッと握ってきた。
「雛ちゃん、私たち同室だし、遠慮しなくていいんだよ? 何か悩みがあるなら相談に乗るって、いつも言ってるでしょ」 「相談って言われても……たぶん、麗先輩が思うより複雑で……」
どう考えても「元は男の体育講師だった」とは言えない。アプリで書き換えられた、なんて話しても信じてもらえるはずがない。
それでも麗は真剣な眼差しで雛を見つめ、「そっか……すごく辛そうに見える。無理してない?」と問う。周囲の雑踏から隔離されたような空間で、優しい声をかけられると、不思議と涙が出そうになってしまう。
(……女の子の身体になったせいか、こういうときすごく脆くなる気が……いや、そんなことは関係ないのかも)
今は言える範囲で何か打ち明けよう。そう思い、雛は続けた。
「……うまく説明できないけど。なんか自分に自信が持てないの。『本当はこうじゃないはず』って思うのに、周りの状況が全部“当たり前”になっちゃってて……だから、そのギャップに苦しんでるっていうか」 「うん……それが、コスプレのことに関係あるの?」 「コスプレも、メイド喫茶のバイトも、最初はものすごく抵抗があったはずなのに。いつの間にか“楽しんでる自分”に気づくと怖い、みたいな……」
麗は少し考え込み、やがて頷いた。
「そっか……雛ちゃんは真面目だから、何事も全力でやってしまうんだろうね。だけど、自分が本当にやりたいことかどうか分からなくなる。周りに期待されたり、褒められたりすると、それが自分の意志じゃないような……そんな感じ?」 「あ……近いかも」 「誰しもそういうの、あると思うけどね。私だって、メイド喫茶でバイトしてるのは、可愛い衣装が着たいのと、お客さんに喜んでもらえるから楽しい……って表面だけ見ればそうなんだけど、時々『これが本当にやりたいことだっけ?』って思う瞬間あるよ。でも、それって迷いながらでも“やってみたい”って気持ちが自分に少しでもあれば、悪いことじゃないんじゃない?」
少し哲学的なことを言う麗。雛は唇を噛む。
「でも……どうしてこんなに胸が大きくて、どうしてこんなに運動音痴で、どうして私だけが……?」 「胸が大きいのは、まあ生まれつきだよね。うらやましいくらいだけど。運動音痴は、こうやって大学生活で無理して鍛えるしかないんじゃない? やりたいスポーツがあるなら応援するよ?」
まったく噛み合わない。そう、麗には「雛は最初からこんな身体」という認識しかないのだ。悩みの核心に触れようがない。
「うん……ごめん、変なこと言って。もう少し、いろいろ考えてみる」
それだけ言って、雛は小さく頭を下げた。麗は「もし何かあったら、ほんとに遠慮なく言ってね」と言い残し、「じゃあ1限目、ちゃんと遅刻しないでよ?」と笑顔で去っていった。
結局、雛はまた孤立した思いを抱えながら教室へ向かった。
――――――
その日の午前中は、文学部のゼミ形式の授業に参加した。学生同士で発表したりディスカッションしたりする形式で、雛はいつもならそこそこ発言しているらしいが、今日はぼんやりと考え込んでばかり。教授に「小鳥遊さん、意見は?」と振られてもあまりうまく答えられず、「具合でも悪いのかい?」と心配されてしまった。
周囲の友人たちも「無理しないでね」「ちゃんと休み取ったほうがいいよ」と声をかけてくる。その優しさが逆につらい。自分だけが“異物”を抱えているようで、いたたまれない気持ちになる。
昼休み。雛はふらふらと学食へ向かい、軽いランチをテイクアウトして校舎裏へ向かった。人気のない屋外で、一人になりたかったのだ。青空の下、芝生に腰を下ろし、パンとスープを飲みながらため息をつく。
(どうやら“何かが残ってる”って期待は裏切られたな。キャンパス内には佐伯 剛の痕跡は全然ない。本当に世界が書き換えられてるんだ……)
スマホを取り出して画面を眺める。SNSには相変わらず多くの「いいね」やコメントが寄せられており、まるで自分が“昔からこのアカウントを運用していた”かのようだ。いや、実際この世界ではそうなっているのだ。
でも、本当にそんなに昔からやっていたのか……? 確認するには、過去の投稿を遡るしかない。自分のプロフィールページを開き、ひたすらスクロールしていく。最近の投稿は全部、大学に入ってからのコスプレ写真やメイド喫茶でのオフショット。どれも楽しそうだし、フォロワー数も一気に増えた形跡がある。
(ああ、もう……ほんとに女の子として定着してるじゃん、これ)
ボヤきながらさらに遡っていくと、高校時代の投稿が出てきた。制服姿でのセルフィーや、体育館裏らしき場所で友達と撮った写真などが並び、コメント欄には「雛ちゃん可愛い」「イベントがんばろー」などと書かれている。こんな写真、絶対撮った覚えはないのに……。
思わずタップして拡大してみると、写真の中の“雛”はブレザーを着た華奢な女子高生で、胸は今ほどではないにせよ明らかに大きい。ちょっと恥ずかしそうに笑ってピースしている姿が映っている。
(嘘だろ……いつの間にこんな画像が。合成じゃないのか?)
そう疑いたくなるほど自然な写真。背景にはクラスメイトらしき男女が写り込んでいて、コメント欄にも「一緒に撮った◯◯です!」みたいな書き込みがある。すべてが“現実”として成立している。
次の投稿へ進むと、コスプレイベントの会場で撮影された写真が出てきた。まだ技術が拙いのか、衣装はシンプルだが、女子高生の雛が楽しそうにポーズを決めている。投稿本文には「初めてのイベント参加! 緊張したけど楽しかった~!」と書いてある。
そこを見た瞬間、雛の頭にまた奇妙なイメージが閃いた。——初めてのコスプレイベントで、先輩コスプレイヤーに褒められて嬉しかったこと。中学生の頃からアニメや漫画が好きで、高校に入ったときに思い切ってSNSを始めたこと。運動音痴で浮いていたけど、イベント仲間ができて居場所が見つかった——。
「う……また、変なイメージが……」
雛はスマホを置いて頭を抱えた。それらは確かに“雛”の人生だと納得できるほど鮮明な記憶。でも、本来の自分にそんな経験はない。男だったころの高校時代は運動部で汗を流し、生徒指導の厳しい教員も自分たちを叱咤するような生活を送っていたはず……。
最近、こういうふうに“雛としての記憶”の断片が入り込んでくる頻度が増えている。しかも、それが嫌ではないというのが恐ろしい。中学時代に胸が急激に発達して恥ずかしかった思い出とか、友人と一緒に徹夜でアニメを語り合った記憶とか——断片が増えるたび、それが妙に懐かしく、甘酸っぱく感じられてしまうのだ。
(やばいよ……本当に全部塗り替えられる前に、早く男に戻らないと)
織田 翔太の言葉を思い出す。「学祭のコスプレコンテストで優勝したら元に戻すのを“考えてやる”」——あれが唯一の望みだ。やらされるコスプレにどれだけ屈辱を感じても、今はそれに賭けるしかない。
「……とにかく、コンテストで結果を出して、織田からRewriteを取り戻すしかない」
自分自身を叱咤して立ち上がる。と同時に、胸の揺れや下半身の軽さを嫌でも実感し、また現実に引き戻される。こんな身体でダンスやパフォーマンスなんてうまくできるのか。不安は募るばかりだ。
――――――
午後の授業が終わるころ、織田 翔太から連絡が来た。「学祭実行委員との打ち合わせで、部室に集まってほしい」とのこと。あからさまに「雛ちゃんの衣装も検討しよう」と言ってくるあたり、完全に自分を道具扱いしているが、逆に言えば打ち合わせを通じて織田のスマホやRewriteについて何か突っ込めるかもしれない。
「……行くしかないよね」
雛は決心して、漫画研究部の部室へ足を運んだ。そこは旧校舎の端のほうにある古びた部室棟で、各サークルが雑多に使っている。ドアを開けると、すでに織田や数名の部員が集まっていた。
「お疲れ、雛ちゃん。待ってたよ」 「……お疲れ様です」
周囲には先輩女子の星川 麗もいるし、学祭実行委員である男子学生が資料を広げている。机の上にはコンテストの概要やステージ配置図などが置かれ、どうやら本気で大掛かりなイベントを企画しているらしい。
「このステージプログラムで、コスプレ部門は昼過ぎから夕方にかけて開催予定。一人持ち時間3分でパフォーマンスしてもらうんだけど、最優秀賞は去年よりもかなり豪華な副賞を用意するつもりなんだ……」
実行委員の男子がそう説明すると、織田が「そこで、雛ちゃんの出番ってわけだね。優勝候補として、学祭の目玉にしようよ」と悪びれもせず言い放つ。部員たちは「うんうん、そうだね!」と乗り気だ。もはや雛の意思など聞いていないかのようだ。
「雛はこの衣装どうかなって思ってるんだけど……じゃーん!」
織田がタブレットの画面を見せてくる。そこにはきらびやかなファンタジー風ドレスのイラストが描かれていた。腰回りにはフリルやリボンが幾重にも重なり、胸元は大胆に開いている。袖はパフスリーブで、まるでお姫様のような華麗なデザイン。ただ、胸元の開きが気になりすぎる……。
「ちょ、ちょっと……胸が完全に見えそうなんだけど」 「いやいや、カップ付きのインナーを着れば大丈夫だよ。むしろ、そのIカップを強調することで絶対にステージ映えするから」 「そんな……」
雛が反論しようとすると、星川 麗が「でもこれ可愛いかも! 雛ちゃんのスタイルなら絶対映えるよ!」と乗っかる。周囲の女子部員たちも「確かに雛ちゃんが着たらすごく華やかになりそう!」と盛り上がりは止まらない。
「いや、でも恥ずかしい……あの、私、運動音痴だからダンスも苦手だし……」 「そこは練習あるのみだね。ダンスの振り付けは簡単なのを考えておくからさ。ほら、音源もこれ……」
織田は用意していた音源を再生する。軽快な曲調だが、確実にテンポは速い。そこに合わせてステージ上で踊るなんて、なかなか難しいのではないか。雛は思わず気が遠くなりそうになる。
「練習って、いつやるの?」 「放課後とか週末とか! 都合に合わせて調整していくから安心してよ。あと、コスプレ部だけじゃなくて大学のダンスサークルにも声かけて手伝ってもらう予定だから。もし不安なら、トレーニングメニューを組んであげてもいいよ?」
(トレーニングメニュー……? いや、男だった頃は自分がそれを組む側だったんだけどな……)
そんなツッコミも、今は心の中でしかできない。
「とにかく、この衣装を着てダンスすれば、観客の視線を独占できること間違いなし! 投票形式だから、インパクトが重要なんだよね」 「……はあ、わかったよ。やるしかないんでしょ?」
雛が観念したように答えると、部室は一気に沸き立った。「やったー!」「雛ちゃんが出てくれれば勝てる!」と盛り上がっている。雛は苦笑しつつも、内心では複雑な思い。これで“優勝”すれば織田は元に戻してくれると約束したが、本当に守るのか?
(あいつのスマホかアプリを奪い取って、強制的に書き換えを解除できないだろうか……でも、そんなリスクを犯して成功する保証もないし)
悩んでいると、織田がふいに雛の肩に手を置いて顔を近づけた。ドキリと心臓が跳ねる。男としては大したことのない距離感だったはずなのに、今の身体ではやけに意識してしまう。
「雛ちゃん、安心して。俺を信じてくれていいんだよ?」 「……っ、な、何よ急に……」 「俺だって無責任に『優勝したら~』なんて言うわけじゃない。だからこそ、全力でサポートするって言ってるんだからさ。君は何も心配しなくていい」
表面上は優しい先輩男子のような口振り。だが、雛にはその裏にある“楽しげな悪意”を感じ取っていた。実際、織田の視線は雛の胸や唇を時々チラリと見ているし、まるで新しい玩具を手に入れた子供のようだ。
「(……この人は、私を思いどおりに操って遊んでいるだけだもんね。でも、そのゲームに乗らないと元に戻れないから……)」
雛はやるせない思いを抱えながら、なんとか作り笑いでその場を凌いだ。
――――――
打ち合わせがひと段落すると、部員たちは部室内でコスプレ衣装の素材や小道具を広げ、ワイワイと会話を続けている。雛はもう少し織田の様子をうかがいたかったが、「雛ちゃん、せっかくだからSNS用の写真撮ろうよ!」と周囲に引っ張られ、そのまま簡単なコスプレ服を着せられる羽目に。
「え、今ここで着替えるの? やだ、恥ずかしい……」 「大丈夫だよ、ここの部室は半分が女子エリアみたいなもんだし、みんな見慣れてるから!」
勝手に仕切られて、仕切りカーテンが引かれた一角で衣装を渡される。下着の上から羽織れるような軽めの衣装らしいが、やはりフリルやリボンが多用されていて、丈が短いスカートが気になる。それでも「雛ちゃん、似合うから!」と押し切られ、渋々着替える。
と、そのとき、背中のファスナーを上げようとして指が震えた。身体の感度が高まっているのか、布地が肌に擦れるたびに妙なゾワゾワとした感覚が広がる。さらに、先ほどの織田の視線を思い出すと胸がドキドキしてしまう。
(まさか……俺、織田に対して“女の子”的な意識なんかしてないよな……? いや、そんなはずないって)
カーテンの外では、麗や他の女子が「雛ちゃん、手伝おうか?」などと声をかけてくるが、これ以上恥ずかしい姿を見られたくなくて「大丈夫」と断った。なんとか独力で衣装を身につけ、出て行くと、皆が「かわいい!」と拍手してくれる。まるでアイドルの登場みたいな扱いだ。
「いいねいいねー、さっそく写真撮ろ!」 「じゃあスマホ準備するね!」
何台ものスマホやカメラが向けられ、雛は思わずポーズをとる。部員たちは「これSNSに載せよう!」と盛り上がり、次々とシャッターを切る。最初は照れていた雛だが、不思議と「撮られる側」の快感が少しずつ戻ってくる。……戻る? いや、もしかしたら“雛”としての本能なのかもしれない。
「うわ……また、こんな……」
内心呆れつつ、外面だけはしっかり笑顔をキープしてしまう。こうやって写真を撮られて称賛される瞬間、嫌じゃない。むしろ心のどこかが悦びを感じている。まるでステージに立つタレントのように、注目を浴びると体が少し温まるような気がするのだ。
(これが、私の新しい性……なの?)
自問しつつも、撮影会が終わった頃にはうっすら汗をかいていた。部室は空調がいまいち効きにくいので、衣装を着たままだと体温が上がる。しかし部員たちは「もっといろいろ撮ろうよ!」と止まらない。
「ごめん、ちょっと……暑くて……」
雛はやんわり断り、衣装を脱ぐために再び仕切りカーテンの中へ。そこでパラパラと布を外しながら大きく息を吐く。鏡に映った自分を見て、「ほんとに女の子の体だな……」としみじみ思う。それも、変化が不自然なほどエロティックなスタイル。胸の重みに加えてウエストのくびれもはっきりしており、ほんの少し腿を見せるだけで男性ウケを誘いそうだ——などと、自分で分析してしまうあたり、考え方も女性的になってきている気がして怖い。
「……いい加減にしてよ……」
ぽつりと呟き、脱いだ衣装を畳む。するとカーテンの向こうで織田の声が聞こえた。
「雛ちゃん、いい写真が撮れたから、あとでSNS投稿しといてよ。俺も自分のアカウントで宣伝するからさ」 「あ、うん……わかった」
普通に返事をする自分に気づき、さらに混乱。いつからこんな従順になったんだろう。もう少し織田に反抗してやりたいのに……。
――――――
夕方まで部室に付き合わされ、最終的に雛はヘトヘトになって女子寮へ戻る。麗はバイトがあると言うので先に出ていき、雛は一人で帰宅する格好だ。部屋へ入ると、アニメグッズやコスプレ衣装が並ぶ光景が出迎え、どこまでも“雛”のテリトリーでしかないことを再認識させられる。
荷物を置き、スマホを見ると、撮ったばかりの写真データが大量に送られてきていた。グループチャットでは「これ、めっちゃ可愛い!」「雛ちゃん最高!」などと盛り上がっている。それを眺めていると、またしてもSNSに投稿する流れができそうだ……。
(本当に、毎回こんな調子だったのか……? 私が一体何を求めて、どんな風にコスプレSNSを育ててきたのか……)
不思議に思い、また過去の投稿へ遡っていく。高校時代の写真は先ほど見た通りだが、中学時代を思わせる投稿はさすがになさそうだ。中学ではまだSNSをやっていなかったと書いてある。それでも、「小学校からのオタク仲間が多い」という趣旨の書き込みがあったり、「新しい衣装を親が買ってくれた」なんてエピソードも見つかる。
(そういえばさっきの“雛の記憶”の断片にも、親が“コスプレは応援するけど無理はするな”って言ってた場面があったような気がする……)
どこまで書き換えられているのか分からないが、“雛”としての生い立ちが徐々に具体性を帯びてきている。シンプルに言えば、自分が「佐伯 剛だった」という証拠は日に日に薄れ、代わりに“雛”としての人生が深く定着しているのだろう。最近、自分の一人称が「わたし」から「ひな」に変わりそうになる瞬間が増え、慌てて修正する場面もあった。だが、それもいつまで我慢できるかわからない。
「……やだな。これ以上、雛に染まるのは……」
そう呟くも、SNSからはキラキラしたコメントが次々と届いている。「雛ちゃん、今日もありがとう!」「動画で見たい!」など。無視したいのに、なぜか気持ちが惹かれてしまい、少しでも覗いてしまう自分がいる。
ベッドに転がりながら溜め息をつき、メイク道具を並べたドレッサーに目をやる。いつからか外出時に当たり前のようにメイクをするようになって、何の抵抗も感じなくなった。今ではメイクを落とした自分の顔が少し物足りなく感じることすらある。
(やばい、本当に俺は……)
不安に苛まれるが、疲れのせいか瞼が重い。少しうとうとしそうになったところで、スマホが鳴り、「メイド喫茶からのシフト連絡」という通知が入ってきた。明日のバイトの時間が変更になったらしい。そうだ、自分は週に数回メイド喫茶でも働いているのだ。男に戻るどころか、どんどん女子としての予定が詰まっていく。
「……本当になんとかしなきゃ」
意を決して起き上がり、急いでメイクポーチを開けてみる。いや、メイクがしたいわけじゃない。鏡を見るのも憂鬱だ。けれど、今は自分がどれだけ“女性的”になってきているのかを再確認したくなったのだ。
鏡に映るのは、あどけない表情をした小柄な美少女。服の上からでもわかるほど胸は豊満で、サラサラの髪は光を反射して艶やかだ。どこにも“佐伯 剛”の面影など見当たらない。自分で手を伸ばして頬をつつくと、その頬がピクッと動いて少女の顔が歪む。それがなんとも無防備で、儚げですらある。
(こんなに柔らかそうな顔で……これ、俺なんだよな……)
指先を額から首筋、鎖骨、そして胸元へとゆっくり下ろしていく。布越しとはいえ、指先に豊かな起伏が触れ、少しだけ呼吸が乱れる。
「はぁ……」
ほのかに体温が上がり、下腹のあたりがむずむずとした感覚に襲われる。男だった頃にはなかった――いや、あったのかもしれないが、別の形で感じていた性の衝動が、今はこの身体に合った形で現れそうになる。ここまで来ると、もう自分でもどう対処していいかわからない。自分で触って恍惚感に浸るなど、そんな行為はしたことがないし、してはいけない気がする。
(落ち着け……こんなの、俺じゃない)
プルプルと震える手を抑え込み、そっと目を閉じる。すべてが幻ならどれだけ楽だろうか。だけど、今こうして息をするたびに胸が上下する感覚があまりにもリアル。まるで雛の躰そのものが「女の子でいるのは気持ちいいよ?」と囁いてくるようで、抗うのがつらい。
(だめ……これ以上、飲み込まれちゃだめだ……)
雛は急いで布団をかぶり、自分の顔を隠す。夜までまだ時間はあるが、今日はもう何も考えたくなかった。
――――――
それから数日。雛は織田や漫画研究部のメンバーと一緒に、学祭プレイベントのリハーサルや打ち合わせに奔走する日々を送った。空き時間にはメイド喫茶のバイトも入るためスケジュールは過密。さらに女子寮での付き合いもある。完全に“大学1年女子の忙しい学園生活”を駆け抜けている形だ。
気づけば外出するときに普通にメイクし、足元は可愛いパンプスやサンダルを選び、身だしなみに気を遣うのが当たり前になっている。運動音痴は相変わらずだが、少しでも舞台上で見栄えよく動けるよう日々のストレッチも欠かさない。その姿はまさに“女の子らしさ”の追求に他ならない。
夜、ベッドに横たわってSNSをチェックすると、過去の自分——“佐伯 剛”の面影など遠のくばかり。画像フォルダも、コスプレやプライベートの写真で溢れ、コメント欄には「いつからコスプレ始めたの?」「中学時代から好きなんだって?」など、当たり前のように“雛”としての経歴に触れる投稿が並ぶ。自分自身もその流れに普通に返信してしまっていることが多く、もうどれが本当の自分なのかわからなくなる。
(教師だったっていう記憶……どんどん薄れてる? 昔、生徒に指導してたときのシーンを思い出そうとしても、なんかぼんやりしてるんだよね……)
それはまるで古い夢を無理やり思い出そうとしているような感覚。映像が霞んで輪郭がぼやけ、登場人物の顔も不鮮明。逆に“中学・高校時代にコスプレイベントに通っていた思い出”のほうが鮮明に浮かぶ。これはRewriteの改変が進んでいる証拠なのだろう。
こうして徐々に、自分の本来の記憶を失っていく——その恐怖に苛まれながらも、雛の周囲は加速度的に“女子学生としての生活”を押し寄せてくる。そして本人も、いつの間にかその波に流され、抵抗することが次第に億劫になり始めていた。
(まだ……まだ、完全には諦めない。でも、もしかしたら、これから先……)
コスプレ衣装を抱きしめるようにして眠りにつく夜。どちらが自分の本当の姿なのか、答えが見えなくなるまで、もうあまり時間は残されていなかった。