教員宿舎から女子寮へ:混乱の新入生生活
ようこそ本作の第1章へ! いきなりですが、ここでは「大学の体育講師」として厳格に生活していたはずの男性が、朝起きたらなぜか“女子大生”になっちゃったという、とんでも展開が待っています。
周りには「え、最初から18歳の新入生女子でしょ?」と当たり前のように扱われ、本人だけが「俺って元は体育の先生じゃ……」と困惑する始末。そんな彼のパニックや、謎アプリを手にした部員のイタズラ感覚が笑いを誘いますが、その裏には誰もが気づかない怖~い改変の力が潜んでいるかも。
とにもかくにも、巻き込まれた主人公が必死に正体を証明しようとする姿に注目しながら、どうぞ第1章をのびのびとお楽しみください!
大学の体育館には、梅雨前の湿った空気が充満していた。30度を超えたわけではないが、重たい熱気が肌にまとわりつく。バスケットボールやバレーボールをする学生たちの声が天井に反響し、むせ返るような汗の匂いが漂っている。そんな中、佐伯剛はいつものように太い声で指示を飛ばした。
「おい! そこのフォーム、もっとしっかり意識しろ!」
佐伯は大学の体育講師だ。身長180センチ超えの筋肉質な身体、短く刈り込んだ髪、精悍な顔立ち——いかにも体育会系の厳格な男だ。その外見や声の大きさも相まって、新入生たちは彼の姿を遠巻きに見ては「怖そう」とヒソヒソと囁いている。
もっとも佐伯本人は「厳しく指導してこそ学生の成長を促す」という信念のもと、決して嫌がらせで怒鳴っているわけではない。だが、毎度こうした強い口調と態度を取られると、大半の学生は苦手意識を持つようになるのも致し方ない。
バスケットボールの授業が一段落し、学生たちが体育館からぞろぞろと移動を始めた頃、佐伯はふと視線の先に“あの集団”を見つけた。普段、運動系の教室にはあまり寄りつかないはずのメンバーだ。髪を茶色や金色に染めた学生も混じっており、ファッションもどこか緩い雰囲気——大学の漫画研究部の連中である。
(またアイツら、こんな時間に何してやがる)
佐伯は眉間にしわを寄せた。漫画研究部といえば、部室でマンガを描いたりアニメを見たりしているだけの“なあなあ”な活動をしている連中だと聞く。それが悪いわけではないが、佐伯は大学生活を謳歌するならもっと体を動かすべきだという考えが強く、前々から漫画研究部に対して厳しい口をきいていた。
「おい、そこのお前ら! こんなところで何をしている?」
ガラガラと大きな声を出すと、数人の漫画研究部員らが「うっ」という顔をして足を止める。彼らの中心には、メガネをかけた長身の男子学生——織田翔太がいた。織田は漫画研究部の副部長らしく、部のまとめ役のようだ。
「あ、佐伯先生……すみません、今度の学祭イベントで体育館のスペースを一部借りられないかって思って、見学してたんです」 「体育館は運動用施設だ。マンガの展示会場に使うなんて話は聞いていないが?」
佐伯が目を細めると、織田は苦笑しながら説明を続ける。
「いえ、展示というか、コスプレパフォーマンス用のステージに使えないかと……。学祭実行委員にも相談中なんですが、一応下見をしておこうと」 「コスプレだと? 大学の学祭で、そんなちゃらけたもの……」
佐伯は露骨に嫌そうな顔になる。コスプレコンテストのようなイベントが最近いろんな大学でも行われるのは聞いたことがあるが、体育館を使うなどもってのほか。スポーツのための場所に、安易にそういった利用を許すのは気が乗らない——そういう態度だ。 しかし、織田は笑みを保ったまま口を開く。
「まぁまだ決定ではないですし、実際どの教室でやるかは実行委員が決めるかと。僕らはあくまで下見、という感じで」 「……ふん。せいぜい邪魔にならないようにしておけよ」
不機嫌そうな顔を隠さずに佐伯は踵を返す。正直この連中と会話をしているだけでイライラしてくる。自分にはまったく理解できない世界だ。 しかし織田は、佐伯の背後で小さく笑いながらスマホの画面を見つめると、呟いた。
「……よし、試してみるか」
それは見慣れないアプリだった。アイコンは円形にぼんやりと赤青のグラデーションがかかったような不思議なデザイン。文字も何も書かれていない。ただ、アプリ名は「Rewrite」とだけあり、まるで何かの冗談のようだ。先日ネットサーフィン中に偶然見つけてインストールしてみたものの、実体がわからず放置していた。ところが、その説明文にはこう書かれていたのだ。
「対象のプロフィールを好きなように“書き換え”可能。周囲の認識も同時に書き換わります——」
もちろんそんな荒唐無稽な話を誰が本気にするだろう。織田自身も「ウソ臭いアプリだな」と思っていた。だが、面白半分でいくつかテストしてみた結果……微妙な結果が出ている気もしていた(友人のあだ名が急に変わったり、謎の記憶違いが起きたり)。確信まではいかないが、「何かこれ、ヤバい力があるんじゃないか?」と思い始めていたのだ。 そんな折、目の前にちょうど都合のいい(?)人物がいる。いつも部の活動を小馬鹿にする体育講師——佐伯。織田はいたずら心をくすぐられた。
「先生には、ちょっと痛い目……というか、不思議な体験を味わってもらおうかな」
アプリの画面を開き、ターゲットを「佐伯 剛」と認識させる。すると簡易的なプロフィール編集画面のようなものが表示される。名前、性別、年齢、所属学部などが書き込めるようになっている。性格設定まであるようだが、やりすぎても混乱するので、まずは基本的な部分を少し変えてみよう……織田は躊躇いがちに、しかし面白がりながら指先を動かした。
「男女を逆転させて……ん? どうせなら、思いきり若返らせてみよう。大学1年生……女子、名前は……小鳥遊 雛、と。専門は文学部で、漫画研究部の新入生。あと性格は……内気で甘えん坊にしとくか。胸のサイズ? あはは、アホらしいけど……大きくしといたら面白いかもな。Iカップとか……どんなバランスだよ」
ほぼ冗談のように設定を書き込むと、「適用」ボタンを押す。途端にアプリはぼんやりと光を放ち、そのまま落ちてしまった。織田は「なんだよ、バグか?」と苦笑する。 だが、その瞬間から佐伯の人生がとてつもなく変わるなど、彼はまだ想像していなかった。
――――――
夜になり、佐伯は大学の講師宿舎でシャワーを浴び、眠りにつく。明日の一限が自分の担当なのを確認して、そろそろ寝ないと体がもたない。ベッドに転がり、意識が遠のいていく中、ぼんやりと頭をよぎるのは「またあの漫画研究部が余計なことしなければいいんだが」という不愉快な思いだけだった。
ところが翌朝。佐伯が目を覚ますと、そこは見慣れた部屋ではなかった。
狭いベッドに薄いピンク色の布団。ベッドサイドの棚にはアニメキャラクターのフィギュア、ポスター、可愛らしい小物が所狭しと置かれている。ドレッサーの鏡にはリボン付きのヘアゴムやカチューシャがぶら下がっていた。壁には星柄のカーテン。そして部屋全体が淡いパステル調にまとめられている。
(なんだ、ここ……?)
まだ意識がはっきりしないまま、佐伯は首を振る。寝ぼけて同僚の教師仲間の部屋に来てしまったわけでもあるまい。夢かもしれない——そう思いながら起き上がろうとすると、何かが重い。胸に柔らかな塊が乗っていて、明らかに自分の体型ではない異物感があるのだ。
「……え?」
見下ろすと、パジャマの胸元がふっくらと膨らんでいる。自分の腹から視線を下に落としていくと、なんとも言えない違和感。昨日まで筋肉質だったはずの胸板はそこにはなく、むしろ華奢な肩から鎖骨、そして大きく突き出したバストが存在していた。
(なんだこれ……? え、嘘だろ、嘘だろ?)
佐伯は慌ててパジャマのボタンを一つだけ外してみる。そこに覗いた肌は、自分が知っている逞しい男の胸ではなく、乳白色の柔らかそうな肌。その上、下着——ピンクのブラジャーがかすかに見える。
「ちょ、ちょっと待て! 俺、男だぞ……えっ、声まで……」
口を開くと聞こえてくるのはか細い女の声だった。「ちょっと待て!」「俺!」などという男っぽい言葉遣いが、まるで似合わない高めのトーンで響き渡る。その場で慌てふためき、慣れない小さな手であちこちをまさぐると、髪は肩まで伸び、脚は驚くほど細くて短い。服の袖口から伸びる腕もすっかり細い。どう見ても自分の体ではない。
(落ち着け、落ち着け……夢、これは夢に違いない。俺がこんな体なわけがない)
何度も深呼吸しようとするが、胸の上下運動が激しく、視界にちらつくふくらみが逆に混乱を煽る。思いきってほっぺたを抓ってみても、痛い。明らかに現実の感覚だ。
途方に暮れてベッドから降りると、足元からキュッと痛みが走る。体重が軽くなっている分バランスが違い、よろけそうになる。それでもなんとか立ち上がって周囲を見渡すと、下宿やワンルームのようなレイアウトの狭い部屋だ。どうやら“女子寮”っぽい雰囲気。室内にある小物やラックの衣服を見ても、すべて女性用。サイズはかなり小さめで、まるで子供が着そうな……いや、18歳前後の女の子にしては小柄なのかもしれない。
「……あれ、私……」
思わず「私」と言いかけた自分に気づいて、口を閉ざす。こんな言葉遣い、いつの間に?
その時、部屋のドアがコンコンとノックされる。続けて、明るい女性の声が響いた。
「雛、起きてるー? そろそろ準備しないと1限に遅れるわよ?」
雛? 誰だそれ……と思う間もなく、ドアが開けられ、長い黒髪をポニーテールにした女子学生が顔を覗かせる。色白でスタイルが良く、ぱっちりした目が印象的。部屋着なのか、カジュアルなシャツと短パンというラフな格好だが、どこか華やかな空気を纏っている。
「ほら、もう時間——あれ? どうしたの、ボーッとして。まさか寝坊?」
彼女は、まるで当たり前のように部屋にずかずかと入ってきた。その時点で「ここは誰の部屋だ?」と突っ込みたいが、どうやら自分の部屋扱いらしい。しかも彼女の口ぶりだと、僕……いや、俺? は“小鳥遊 雛”という名前で呼ばれているようだ。
「そ、そんな……誰……?」と佐伯が尋ねると、彼女はケラケラ笑いながら首を傾げる。 「星川 麗よ。なに言ってんの、また寝ぼけてる? 同室の先輩を忘れないでよ」
星川 麗。そんな学生、いたか? 佐伯の脳裏にはまったく覚えがない。というか、「同室の先輩」とはどういうことだろうか……? 混乱で言葉が出ない佐伯に、麗は手早くクローゼットから制服代わりの私服らしきものを取り出して差し出す。白いブラウスと淡いピンクのフレアスカート、そして可愛らしいレースがついた下着がセットになっている。
「はい、今日のコーデこれでいいんじゃない? 雛ちゃん、ほら、着替えないと!」 「ちょ、ちょっと待て、こんなの俺が……」 「え、何言ってるの? 雛は女の子でしょ?」
明るい笑顔で当たり前のように返され、佐伯は言葉に詰まる。まごまごしていると、麗が「はいはい」と呆れたように手を振って、一瞬部屋から出て行った。どうやら着替えを手伝うわけではないらしいが、同室だからこそ遠慮なく部屋に入ってくるのだろう。
しばらくして佐伯——今やどう見ても“小柄な女子”の体となった自分は、とりあえず置いてあった下着をまじまじと見ることになる。ブラジャーの大きさは、目測でも相当なボリューム。普段、女性の下着を手にする機会などなかった佐伯にとっては、脳が軽くパニックを起こしそうだ。指先で恐る恐る触れると、手触りは柔らかく滑らか。可愛いレースがあしらわれていて、どう考えても自分が身につけるものとは思えない。
「いや、しかし……どうするんだ、これ……」
悩んでいる間にも時間は過ぎていく。とにかく今は、この“異常事態”の真相を確かめるしかない——そう判断した佐伯は、観念して下着をつける方法を模索する。肩紐を両腕に通して……背中のホックを……と手探りしながらも、どうにか装着。胸をカップに収めると、あまりにも重量感があり、下着で支えられることで「自分が本当にこんなサイズになっているんだ」という現実を突きつけられる。
「……マジか。こんなの動きにくいに決まってるだろ……」
呟きながらも、次はブラウスを頭からかぶり、フレアスカートを履く。男だった頃の感覚からすると、妙にスカートの裾が短い気がして落ち着かない。さらに足元を見ると、すんなり細いふくらはぎがあらわになっている。もともと逞しかった脚の面影すらない。これだけでも十分戸惑うのに、パジャマを脱いだ際にチラリと自分の下腹部を見てしまい、その“変わり様”に愕然としてしまった。あまり直視してはいけない気がして、無理やり意識をそらす。
「い、一旦落ち着いて……いや、落ち着けるわけがないだろ!」
思わず声を上げるが、その声も完全に女。鏡の前に立つと、そこには髪の長い少女が半泣き顔で映っている。顔立ちは童顔よりで、小動物的な雰囲気がある。全体的に華奢で150cmもないんじゃないかと思うほど小柄だ。それでいて胸だけがアンバランスに大きい。まるでどこかのグラビアアイドルのような体型……というか漫画的な誇張に近い。本人は戸惑うばかりだが。
(どうして、どうしてこんなことに……? 俺は昨日まで佐伯 剛、大学の体育講師だったはず……)
軽く放心状態になりかけたその時、部屋のドアが再び開いた。星川 麗がニコニコしながら入ってくる。
「うん、可愛いじゃん! まあ、雛ちゃんは何を着ても可愛いけどね」 「あ、あの……星川さん、だよね? 俺は……雛ちゃん、って呼ばれてるけど……」 「うん、雛は雛でしょ? 何よ、またそんな変なこと言って」
麗は笑いながら、佐伯(雛)の髪に手をやり、さっとブラシでとかし始める。まるで人形遊びのように扱われているが、当人に悪気はなさそうだ。むしろ先輩として当たり前に面倒を見ている感覚なのだろう。
「今日の一限は文学部の必修でしょ? 教授、厳しいから遅刻したら単位落とすかもよ。急ぎましょ」
そう言って、麗はさっさと廊下へと出て行く。どうやら「小鳥遊 雛」としての大学生活は既に当たり前のものとして進行しているようだ。戸惑っているのは自分だけ——いったい何が起きているのか。 佐伯は、「まずは事態を整理しよう」と頭を振る。そして、この身体のまま一限の授業に行って状況を探るしかない、と考えるに至った。
――――――
女子寮の廊下は、朝の準備に追われる学生たちがあちこちで行き交っていた。みな女性ばかり。当たり前だが、ここは女子寮だ。タオルを肩にかけて大浴場から戻る学生、洗面所でメイクをしている学生、友達と談笑しながら教室へ向かう学生——その中に、自分(佐伯)が紛れ込んでいるという光景が、あまりにも非現実的に思える。
(俺は教師だぞ? こんなところ、入れるわけがないのに……)
だが、周囲は誰ひとりとして「男がいる」などと騒がない。むしろ雛を見かけては「おはよー、雛ちゃん」「今日も可愛いね」と当たり前のように声をかけてくる。雛、と呼ばれるたびに胸がむずがゆいような感覚を覚えるが、反射的に笑顔を返してしまう自分が怖い。まるで体が勝手に“女の子の仕草”をしているように思えるのだ。
「おはよー、小鳥遊さん!」
すれ違いざまに声をかけられ、思わず会釈してしまった。相手は誰なのか全く知らない。にもかかわらず、彼女の顔を見た瞬間「確か同じ文学部の山本さん……かな?」という情報が頭に浮かぶ。
(なんで、そんなことを俺は知ってる?)
頭が混乱を極めるが、とりあえず急いで寮の玄関を抜ける。麗が待っていて「遅いよ、雛ちゃん!」と軽く頬を膨らませる。こうして見ると、麗はモデルのようにスタイルが良く、足も長い。今の自分とはまるで対照的だ——などと他人事のように思ってしまう。
「ご、ごめん……ちょっとボーッとしてた」 「もう、ちゃんとしなよ。じゃ、行くよ」
麗に腕を引かれながら外へ出ると、朝日が眩しく青空が広がっている。校舎まで徒歩5分ほどらしいが、歩きながらも佐伯は脳内で必死に考えていた。「どうにかして、これは何かの間違いだと証明しなくちゃ……俺は体育講師なんだぞ。職員室へ行けば同僚がいるはず」
思いつくままに麗に相談しようかとも思ったが、彼女はすでに「雛は1年の後輩」という認識のようだ。いきなり「いや俺、体育の佐伯先生なんだが!」などと言っても、「何言ってるの?」で終わりだろう。
(まずは学内で誰か教員に直接会って、確かめればいい。その時に『佐伯先生ですね』と言われれば、俺の正体が証明できるかも……)
そんな淡い期待を抱きながら、麗に連れられるまま校舎のほうへ進む。そこでは既に他の学生たちが登校していて、皆当たり前のように女子大生の佐伯——いや、“雛”の存在を受け入れている。どうにも奇妙だ。
校舎に入ってしばらくすると、麗は「じゃ、私はこっちだから、雛ちゃんも教室行ってね」と別の階段を上り始めた。先輩だから学年が違うのだろう。すると、どうにか一人になれた佐伯は、思いきって職員室へ向かうことに決めた。廊下を歩くたびに、学生が不思議そうな顔で「どこへ行くの?」という視線を向けるが気にしていられない。
(ここを曲がって突き当たりが職員室……のはず)
いつもの場所へ向かうと、そこには確かに「職員室」と書かれたプレートが掲げられていた。ドアを開けると、中では教員たちが雑務をこなしたり書類を整理したりしている。佐伯はホッとして、見知った顔に声をかけた。古参の数学教授、河合先生だ。
「あ、河合先生! おはようございます。俺、佐伯……」 「ん? 誰だね君は。勝手に職員室に入っちゃだめだろう。学生なら用件は窓口を通してくれたまえ」
河合が険しい顔で言う。佐伯としては「ふざけないでくださいよ、俺ですよ、佐伯です!」と猛アピールしたい。しかし一方、鏡で見た“自分の姿”を思い出すと、ただの女子学生にしか見えないことを痛感する。仕方なく声を抑えて弁明する。
「あの、俺……じゃなくて、私? あの、佐伯先生をご存じないですか? 体育の……」 「佐伯先生? うちの大学にそんな先生は存在しないよ。新任のスポーツ指導員は何人かいるが、その名は聞いたことないな」
(え……?)
愕然とする佐伯。隣の机に座っている女性講師にも声をかけてみるが、「佐伯という先生は聞いたことがない。君の思い違いでは?」と返される。全員、佐伯のことを全く知らないのだ。
(そんなわけあるか! 俺は何年もここで働いてたんだぞ……)
激しく動揺する中、河合が怪訝な顔で「何か用があるなら教務課で聞きなさい」と窓口を指し示す。結局、ほとんど追い出されるような形で職員室を後にするしかなかった。
――――――
ショックを受けながらも、校舎の廊下を彷徨う佐伯。どうやら本当に周囲の教員・学生は「佐伯 剛という体育講師」を認識していないようだ。まるで自分が初めから存在しなかったかのように……。
(そんな馬鹿な話、あるもんか。何がどうなってんだよ)
頭を抱え込んでいると、ちょうど廊下の先から、見覚えのある顔——漫画研究部の連中が歩いてきた。昨日体育館で下見をしていた集団だ。その中心には、織田 翔太がいる。彼と目が合った瞬間、ニヤリとした笑みを浮かべられた。何か企んでいるかのような表情だ。 佐伯は「ちょうどいい」とばかりに駆け寄った。
「お、おい、お前……織田、だよな?」 「うわ、雛ちゃんじゃん。どうしたの、そんなに慌てて?」
“雛ちゃん”と呼ばれることにいちいち違和感を覚えるが、それよりも大事なことがある。佐伯は声を荒げる。
「どうなってるんだ、お前何かやったのか? 俺は……佐伯 剛。体育の……」 「んー? さえきつよし? 誰それ?」
すっとぼけた表情で問い返される。だが、その目は面白がっているようにも見えた。周囲の部員たちが「あはは、織田先輩、変なこと言ってないで」「雛ちゃん困ってるみたいだよ」とクスクス笑う。どうやらこの世界では、誰も佐伯剛を知らない。つまり「俺が教師だった」という証拠がまるで消えているらしい。
「くそっ、どういうことなんだよ……お前が絶対何か企んだんだろ。元に戻せ!」 「元に戻す……? ああ、そういえば“Rewrite”とかいうアプリにそんな機能あったかなぁ」
アプリ? 聞き慣れない名前に、佐伯は思わず聞き返すが、織田はヘラヘラ笑いながら続ける。
「んー、雛ちゃん。元に戻してほしいなら、俺の言うことを聞いてもらわないと。どうしようかな、ちょうど学祭のコスプレコンテストに出る人手が欲しいんだよね。優勝したら、もしかしたら聞いてあげるかもしれないけど」 「ふざけるな! 俺がそんな……」 「ふざける? あはは、雛ちゃんが言っても可愛いだけだね。でも俺は本気だよ?」
織田の目には悪戯っぽい光が宿っている。周囲の部員たちは「先輩、イジワルしないであげてくださいよ」などと茶々を入れているが、その空気感は完全に“雛”が後輩女子としてからかわれているだけにしか見えない。佐伯が男として抗議しても、誰一人「体育の先生が女子になった」とは認識しない。
「お前……」 「ま、考えてみてよ。でなきゃ、このままずーっと“雛ちゃん”のままかもね」
小首をかしげてウインクする織田の態度に、怒りがこみ上げてくる。しかし事実として、今の佐伯には何の手立てもない。職員室に行っても誰も自分を知らず、体も声も完全に女になってしまっている。織田が何らかの力でこの状況を作り出しているのだとしたら、言う通りにしないと解決しないかもしれない——。
「わかった……コスプレコンテストとやらに出れば……元に戻してくれるんだな?」 「さあ? 結果次第かな。でも“優勝したら検討してやる”って言っとくよ」
曖昧な返事だが、今はすがるしかない。佐伯は歯噛みする思いでその場を後にする。もっとも、そのやり取りを見ていた周囲の学生は、“ちょっと拗ねた後輩女子と、茶化す先輩男子”の微笑ましい小競り合いくらいにしか映らなかっただろう。
――――――
そんなこんなで午前中の授業が始まり、佐伯は“文学部1年 小鳥遊 雛”として教室へ入る羽目になった。黒板には講義名と担当教授の名が書かれている。もちろん初めて見る名前だが、教室内は当たり前に1年生らしき学生たちが座っている。 席に着くと、周りの女子が声をかけてくる。
「雛ちゃん、こないだのレポート、もう提出した?」 「そうだよ、あれけっこう大変だったよね」
どこかで見覚えがあるような顔の女子が二、三人寄ってきて、気さくに雑談を始める。話題はアニメや漫画、コスメの話など多岐にわたるが、佐伯の脳内は混乱しっぱなし。なのに、彼女たちの名前もプロフィールも、なぜか会話の端々で自然に分かってしまう。まるで自分が「小鳥遊 雛として知り合ってきた記憶」がインプットされているようだ。
(なんなんだよ、これは……。俺の頭の中まで書き換えられてる?)
だが、それでもまだ「佐伯 剛としての記憶」はしっかりある。自分は男で、体育会系で、この大学にずっと勤務してきた。今のクラスメイトとの思い出など本当は存在しないはずなのに、無理やり埋め込まれたような違和感に苦しむ。どうにか耐えて講義をやり過ごすものの、周囲からは「雛ちゃん、今日やけに浮かない顔してない?」と心配される始末だ。
昼休みになる頃には、頭痛がしそうなほど消耗していた。どこかで一人になりたかったが、一緒にお昼を食べに行こうと誘われ、半ば流される形で学食へ向かう。そこでも「雛ちゃんは甘いデザートが好きだよね」と勝手にソフトクリームを勧められ、口に含んだ瞬間「うわ、何この甘さ……」と驚く。それでも体が拒否しない。むしろ美味しいと感じてしまう自分がいた。
(男の時はこんな激甘スイーツ食べるなんて考えられなかったのに……)
自分の味覚までも変化しているのか、はたまた“小鳥遊 雛”の感覚が流れ込んできているのか……。とにかく、このままでは本当に元に戻れなくなる恐れがある、と佐伯は危機感を募らせる。織田の言うとおり、コスプレコンテストで優勝するしか手段がないのか? そんな突拍子もない話、まったく納得できないが、術がない。
「おいおい……最悪だ」
思わずそう呟いた時、隣に座った女子が「雛ちゃん、大丈夫?」と心配そうに肩に手を置いてきた。その瞬間、佐伯の体はびくんと反応してしまう。まるで女子同士のスキンシップに慣れているかのように、ごく自然に肩を寄せ合っているのだ。
「あ、う、うん……なんでもない」
むしろこっちがドキドキしているなんて、どうかしている。何もかもが混乱を極めるなか、結局、佐伯は午後の授業も“小鳥遊 雛”として出るはめになった。
――――――
放課後。授業が終わると、またしても星川 麗が現れた。どうやら彼女も別の講義が終わって合流しに来たらしい。
「雛ちゃん、お疲れさま! 今日、バイトだよね?」 「バイト……?」 「うん、メイド喫茶に出勤の日でしょ? ほら、シフト表ここに書いてあったよ」
そう言ってスマホを見せてくる。そこには確かに「小鳥遊 雛 18:00~22:00 ショートシフト」と表示がある。驚くべきことに、自分がメイド喫茶でアルバイトをしている設定になっているらしい。いや、“設定”ではなく、この世界ではそれが当たり前らしい。
「お、おいおい、俺が……じゃなくて、私がメイド喫茶の……?」 「あはは、今さら何言ってるの。雛はうちの店の看板新人だよ? すぐ売り上げ上位になったんだから。バイトリーダーの私としては、すごく助かってるんだけどなあ」
麗は軽口混じりにそう言うが、佐伯にとっては悪夢のようだ。男だった頃はメイド喫茶に足を運んだ経験すらなく、むしろ「ああいう文化はよくわからん」と遠巻きに見ていた。このまま強制的に“メイド服”を着せられる未来が見える。どうする、逃げるか? しかし行く宛もない。部屋もすでに“女子寮の一室”に書き換えられている以上、転がり込む家さえないのだ。
「雛ちゃん……? どうしたの、顔が真っ青よ? 体調悪い?」 「あ、いや、ちょっと疲れてるだけ……」
ふらふらと足元がおぼつかない。慣れない小柄な体と心労で、精神的にも肉体的にも限界を感じていた。そんな状態なのに、麗は容赦なく続ける。
「バイト始まるまで少し時間あるし、寮に戻って着替える? あ、お風呂入っちゃえばスッキリするかも。女子寮には大浴場があるし、雛ちゃんも結構よく利用してるじゃん」 「だ、大浴場……? いや、それはまずい、俺には……」 「どうしたの? 雛ちゃんって、お風呂大好きじゃん。大きいお胸洗うの大変~っていつも言ってたくせに」
軽く冗談めかして言う麗だが、佐伯にとっては致命的すぎる。男子だった自分が女子大生として大浴場に入るなど、ありえないだろう。しかし、周囲にとっては彼女が「最初から女の子」という認識なのだから、何も問題視しないのだ。
(やめろ、そんな設定まであるのか……)
頭を抱えたくなるが、麗はすっかり「今日は一緒に大浴場行こう」と盛り上がっている。ここで拒否すれば怪しまれるだろうし、下手をすれば余計に目立ってしまう。佐伯は苦渋の選択を迫られる。
「う……わかった。とりあえず寮に……」
そう言うのがやっとだった。
――――――
大学寮に戻ると、星川 麗に手を引かれるまま大浴場の入り口へ進む。幸いまだ時間が早いためか、利用者は多くないようだ。とはいえ中にはちらほら女性の姿があるだろう。一緒に脱衣所に入るなど、元男の身としては気まずいもいいところだ。
(何やってんだ、俺は……)
呆然としていると、麗がさくさくと服を脱ぎ始めた。下着もあっという間に外され、瑞々しい肌が露わになっていく。見てはいけないと思いつつ視線が動いてしまい、慌てて目を背けた。だが、背けた先には鏡に映る自分自身の姿がある。ボタンを外し、スカートを下ろせば、そこにはピンクの下着をつけた“小柄な女子”の体が……。
「恥ずかしがってるの? 雛ちゃん、いつもはあんまり気にしないのに」 「い、いや、ちょっと今日の気分が……」 「あはは、そういう日もあるよね。早く脱いで入ろう!」
無邪気に笑う麗を見ながら、佐伯は観念してブラジャーを外し、ショーツを下ろしていく。鏡に映った自分の裸体は、やはり思った以上に華奢で丸みを帯びていて、胸は信じられないほど大きい。その重みが解放されると、自然にプルンと揺れた。それだけで心臓が跳ね上がりそうになる。「うわ、何だこの感触……」と頭を抱えるが、麗はそんな様子に気づかずニコニコしている。
脱衣所を抜けると、浴室内には数名の女子が体を洗ったり湯船に浸かったりしていた。大理石調の床で天井が高く、割と綺麗で広々とした大浴場だ。佐伯はタオルで胸元と下半身を隠そうとするが、タオルが小さいせいでほとんど意味を成さない。
「雛ちゃん、いつもは堂々としてるのに、今日はやけに隠すね?」 「そ、そうかな……」
背中にじっとり汗をかく。男としての感覚が抜けていないせいで、こんな状態で他の女子と同じ湯に浸かるなんてありえないと思ってしまう。だが周囲は誰も不審に思わない。むしろサラリと視線を交わすだけだ。
麗はそのままシャワーの前に腰を下ろし、勢いよくお湯を浴び始めた。佐伯も隣に座り、ぎこちなくシャワーをひねる。慣れない小さな手と短いリーチに少し手間取るが、なんとか自分の体を洗おうとする。すると、胸の存在感がどうしても視界に入ってきて動きづらい。「これは世の女性は大変だな……」などと場違いなことを考えてしまう。
「雛ちゃん、シャンプー取ってー」 「あ、うん」
隣の麗にボトルを渡そうと手を伸ばした瞬間、胸が揺れて微妙にバランスを崩す。それに気づいた麗がクスクス笑っている。
「また胸が邪魔してるの? ほんと、雛はうらやましいくらいあるんだから、もっと使いこなしてよ」 「使いこなすって……そんな器用じゃない……」
情けない声を出しながらシャワーで髪を流す。しっとりした感触が妙に気持ちよく、長い髪を洗うのは大変だが悪くないとも感じる。それも自分が“女の子の体”だからなのだろうか。複雑な思いに駆られつつ、どうにか体を洗い終える。
「じゃ、湯船行こっか」
麗がすっと立ち上がり、そのまま大きな浴槽へと入っていく。佐伯は抵抗を感じながらも後をついていく。湯に肩まで浸かった時、思わず安堵の息が漏れる。体が温まり、緊張が少しだけ解けるような気がした。
「ああ……」
自然に声が出た。すると、麗がニヤリと笑って寄ってくる。
「ねえ、雛ちゃん。今日はなんだかいつもと違う雰囲気だけど……なにかあったの?」 「え?」 「なんかこう……落ち着きがないというか。いつもの雛なら、もっとマイペースに『ひなね、今日はこう思うのー』って感じで話すのに。今日に限ってやけに乱れてるなあって」
“いつもの雛”とやらがどんな話し方をしているのか、想像すらつかない。佐伯は言葉を飲み込む。簡単に「実は俺は男だったんだ」と言えるわけがない。どうせ信じてもらえないだろうし、この状況を知られたら余計にややこしくなるだけだ。かといって、あまりに挙動不審だと怪しまれる。
「ちょっと……寝起きが悪くて……体調が優れなくてさ……」 「そっか、無理しちゃだめだよ? バイトもあるからって頑張りすぎると、メイド服着た時に倒れちゃうかもよ」 「う、うん……」
どう答えればいいのか分からず、曖昧に首を縦に振るしかない。そんな風に会話を濁しているうち、他の女子たちが「やっほー、星川先輩に雛ちゃーん」と声をかけてきて、賑やかにお喋りを始めた。彼女たちはふとした瞬間に雛の胸元を見て「ほんとすごいね~」と興味津々だが、下品な感じはなく、女子同士の軽い話題程度。佐伯からすれば死ぬほど居心地が悪いが、周囲は当たり前のように受け止めている。
(完全に“女の子”の輪に入ってるんだな、俺……)
湯の温かさと恥ずかしさのダブルパンチで、頭がクラクラする。なんとか軽い受け答えを繰り返しながら、佐伯は「こんな生活、いつまで続くんだ……」という不安に苛まれていた。
――――――
体を拭いて脱衣所に戻り、先ほどと同じピンク色の下着を再び身につける。バスタオルで髪を拭きながら鏡を覗くと、すっきりした気分になったことは確かだが、相変わらずこの容姿には馴染めない。しかし麗は「雛ちゃん、その下着可愛い」と満足そうに褒めてくる。ブラジャーを装着する時の胸の重みがすでに少し癖になりつつある自分が怖い。
部屋に戻ると、バイト用に決めていたらしい私服を取り出してくれた麗が「はい、着替えて」と促す。ロリータ風とはいかないまでも、フリルのついた甘めのブラウスに黒いスカート、そして足元はニーハイソックス……。完全に“萌え系”のファッションだ。
「こ、これで行くのか……?」 「うん、メイド服はお店にあるから、これで十分でしょ? 雛ちゃんは色白だから、こういうの似合うんだよね」
褒められてもまったく嬉しくない。しかし、反論する手段もなく、佐伯は渋々着替える。すると麗が「よし、メイクもしよう」と言って手早くコスメ道具を並べ始めた。ファンデーション、アイシャドウ、チーク、リップグロス……次々と繰り出されるアイテムに、佐伯はめまいを起こしそうになる。
「や、やらなくていいだろ……」 「何言ってんの。バイトするんだからメイクは大事。いつも自分でやってるけど、今日は私が手伝ってあげる。はい、じっとして」
逃げる間もなく、麗が佐伯の顔を優しく触れ、パフでファンデーションを叩き込み始めた。そのプロのような手つきに感心する一方、男だった頃の自分はメイクなど一切関わりがなかったため、ただされるがまま。でも——不思議なことに、その工程を見ているうちに「こうやって肌色を整えて、目元に……」と手順が頭に自然と入ってくるような感覚を覚える。
(なんで俺、手順がわかるんだ? ああ……もしかして“雛”の記憶が、少しずつ流れ込んでるのか)
まるで既視感。自分で何度もやったことがあるかのように、「あ、ここはもっと明るい色がいい」とか「リップはピンク系が合うんだよね」と心の中で思ってしまう。まだはっきり「自分」であると認めたくはないが、意識の底で「女の子のメイク」に対する知識や感覚が確実に芽吹いている。 やがて仕上がった姿を鏡で見ると、そこには愛らしい笑顔の少女が映っていた。頬のふんわりした赤みや目元のきらめきが、何とも女の子らしさを強調している。
「はい、できあがり! めっちゃ可愛い!」 「な、なんか……顔が違う……」 「雛ちゃんは元がいいから、ちょっとメイクするだけで全然違う印象になるんだよ。はい、完璧!」
麗は満足そうに手を叩く。佐伯は心中複雑だが、その完成度に呆然となる。そうしているうちに、時計の針はバイト開始の時刻に近づいている。今日は一体どれだけ衝撃的なことを味わうのか、考えるだけで気が遠くなりそうだ。
――――――
結局、佐伯は星川 麗と一緒に大学の外へ出て、近くのオフィス街にあるメイド喫茶へと向かった。制服は店にあるというが、想像しただけでも顔が熱くなる。男の視線を受けながらメイド服で接客するなど、人生で一度も考えたことがなかった。 だがこの状況ではどうしようもない。逃げ出してホームレスになるわけにもいかないし、織田を探し出して問いただすにしても時間がかかる。店の前に着くと、他のバイト仲間らしき女子たちが出迎え、「雛ちゃんおはよー!」と明るい声をかけてくる。みんな佐伯を知っている雰囲気だ。
「おはよう……ございます?」
ぎこちなく言うと、「雛ちゃん、今日どうしたの? 疲れてる?」と心配される。さらに奥から店長らしき女性が出てきて、「あら雛ちゃん、ちょっとメイク濃いめ? でも可愛いわね」とにこやかに言う。完璧に“できるメイド”として扱われているのがわかる。
(もう、なるようになれ……)
腹をくくってロッカールームに入り、メイド服に着替える。裾の短いスカートにエプロン、白いフリルのカチューシャ——鏡で見ると、コテコテの萌え系メイド姿に身を包んだ少女が立っている。もちろん、それは紛れもなく“今の自分”だ。スカートの短さに恥ずかしさで顔が赤くなりそうだが、周囲のメイド仲間を見ると、みな似たような格好で楽しげに働いている。
「じゃあ今日も笑顔でよろしくね、雛ちゃん!」
そう言われて店頭に立つと、来店したサラリーマンたちが「おお、雛ちゃん、可愛いー!」とテンションを上げる。その視線にゾワッと背中が粟立つ。男だった頃は客として多少イメージは知っていたが、こうして実際に“見られる側”になってみると、思った以上に恥ずかしく逃げ出したくなる。
「お、お帰りなさいませ、ご主人様……」
自然に口をついて出たセリフに愕然とする。自分で言っておきながら、この違和感。だが、どこか懐かしい気もするのはなぜだ? ……そうだ、きっと“雛”の記憶がそうさせているんだ。脳が勝手に台詞を覚えていて、体が動いてしまう。
そんな戸惑いを抱えながらも、接客を続けるうちに、徐々に客のリアクションに応じて笑顔を返す自分がいた。指先の仕草や声のトーンも、まるでプロのメイドのように自然。客から「可愛いね!」と言われると、胸のどこかがくすぐったいような喜びが湧いてしまう。男としてのプライドを失っていくようで、焦燥感がある一方、このままでもいいかもと思い始める自分が怖い。
(だめだだめだ……こんなの、俺じゃないのに……)
脳内で否定しつつも、手と口は完璧に“メイド喫茶の看板娘”として振る舞い続ける。気がつけば、勤務時間はあっという間に終わろうとしていた。
――――――
バイトが終わってロッカールームに戻ると、同僚のメイド仲間たちから「お疲れ~」と労われる。星川 麗もバイトリーダーとして合流し、「雛ちゃん、今日も絶好調だったじゃん」とほほ笑んでくる。佐伯としてはヘトヘトだが、客の評判は上々らしい。
「お客様から“雛ちゃんの笑顔に癒やされた”ってカードもらってるわよ。ほら」 「へえ……こんなのまであるんだ」 「嬉しいでしょ? こういうのがモチベーションになるんだよ」
麗が差し出したカードには、客からのメッセージがびっしり書かれている。そこに「コスプレイベントも応援してるよ!」などと書かれていて、どうやら常連客の間では「雛がコスプレ好き」だというのは常識になっているようだ。
(いや、まいったな……。こんなに定着しちゃってるのか)
ハンガーにメイド服を掛け、自分の私服に着替える。メイクを落とそうかとも思ったが、どうせまだ帰るまでの間は化粧をしているほうが自然なんだろうな……という気がして、そのままにしておいた。
店を出た後、麗とともに夜道を歩きながら、改めて佐伯は尋ねる。
「……なあ、星川……麗さん。俺、じゃなくて、私は最近入ったばかりなんだよね?」 「え、雛ちゃん、結構前からいるじゃん。少なくとも大学入学してすぐに始めたから、もう数か月にはなるよ」 「数か月……そっか。……あの、織田先輩とは……いつから知り合いなんだっけ?」 「織田先輩? 高校の時からじゃない? 雛は翔太先輩と同じ高校だったでしょ? 私もそうだけど、彼が漫画研究部やってた頃から雛は……」
麗はそこで少し首をひねる。「あれ、でも雛は別の部活だったって聞いたような……いや、違う。転部したんだっけ?」と曖昧な表情をしている。どうやら書き換えられた記憶の中でも、細部が曖昧になっているのかもしれない。少なくとも、織田との繋がりは昔からあるという認識だ。
(そんなの俺は知らない……。けど、この世界では当たり前なんだ)
もはや、自分が“男の体育講師”だったという証拠はどこにもないのかもしれない。スマホを取り出してみるが、中に保存されている写真やSNSアプリはすべて「小鳥遊 雛」としてのものだけだ。教師としての連絡先は一切見つからない。
「……どうするんだよ、これから」
ぽつりと呟くと、隣を歩いていた麗が「ん? 何か言った?」と振り返った。
「ううん、ちょっと考え事してただけ」
女の子の声でそう答えている自分に、佐伯は複雑な思いを抱える。星空が広がる夜空の下、街灯に照らされながら、意識とは裏腹に足取りだけは軽やかだ。まるで本当に“女子大生”であるかのように。
(いや、本当にそうなってしまったわけだが……。)
そうこうしているうちに女子寮へ到着する。時間はすでに夜10時を回っていたが、門限などは特になく、各自がICカードでセキュリティを通って入る仕組みになっている。麗に続いて寮の廊下を歩き、部屋に戻ると、まだ微かにシャワーの音がどこかから聞こえていた。先ほど入浴してしまったので、もういいだろう……と部屋のライトをつけると、アニメグッズやコスプレ衣装が相変わらず視界に飛び込んでくる。
「そういえば雛ちゃん、今度のコスプレ撮影どうするの? またメイド服かな? それとも魔法少女?」 「魔法少女……? いや、そんなの……」 「んー、悩むよね。まぁ、雛ちゃんなら何着てもすぐSNS映えするし」
SNS。そうだ、さっきスマホをチェックした時、コスプレ専門のアカウントのようなものがあったような……。気になって再びスマホを取り出すと、そこには「ひな@コス垢」という名前のアカウントがあり、フォロワー数は1万人近くいる。投稿内容を覗いてみると、可愛い衣装に身を包んだ雛の写真が大量に並んでいた。タグには「#コスプレイヤーさんと繋がりたい」「#衣装自作」などの文言が踊っている。
(いつの間にこんな……)
写真には何百、何千もの「いいね!」がついており、コメント欄には「可愛い!」「さすが雛ちゃん」「もっと新作見たい!」といった言葉があふれている。自分の知らない“雛”の世界が、ネットの中にもびっしり詰まっていた。
そのまま無心でスクロールしていると、中学・高校時代らしき写真まである。セーラー服やブレザー姿でコスプレイベントに参加している雛の姿が写っている。笑顔いっぱいでピースサインをする彼女は、いつもの“男としての俺”からは想像できないくらい無邪気で、楽しそうに見える。その写真を見ているうちに、なぜか胸がじんわりと暖かくなる感覚があった。
(これ……本当に俺なのか? でも、この笑顔……)
一瞬、頭の中に知らない思い出が蘇りかけた気がした。……いや、これは危ない。こんなのに飲み込まれたら、自分が“男だった”ことを忘れてしまうかもしれない。佐伯は慌ててスマホの画面を閉じた。
「雛ちゃん、どうかした? 顔が赤いよ」 「あ、なんでもない……。疲れただけ」
寝よう、と決心する。今は考えても仕方がない。明日はまた大学に行かねばならないし、織田にどうにか交渉する方法を探さなくては。だが、布団に潜り込もうとすると、そこには先ほど見たピンク色の布団とアニメ柄のクッションが待ち構えている。当たり前にそれらに身体を預ける自分が切ない。
(……早く元に戻って、こんな生活から抜け出さないと)
そう思いながら瞼を閉じるが、そのまま疲れで意識が遠のいていく。胸の重さが寝返りのたびに気になるが、不思議と柔らかな布団の感触に包まれれば、悪い気はしない。そうして佐伯は、混乱のまま1日を終えるのだった。
第1章を読んでいただきありがとうございます! 普通なら「ありえないでしょ!」とツッコミたくなる展開ですが、本作ではこの“書き換えられた新入生女子”が物語の肝。どこまで世界が改変されてるのか、主人公以外はまったく疑わないという状況が何ともシュールですよね。
とはいえ、すでに主人公は学生証を握らされ、住まいも女子寮に変わってしまい、次回からはコスプレコンテストに巻き込まれていく予感大! 本人の焦りとは裏腹に、周囲の温度差がまだまだ続きます。さあ、この先どうなるのか、どうぞ第2章も楽しんでいただければと思います。