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第六章:星降る夜に

### 1


 初夏の終わり。空気は少しずつ湿り気を帯び始め、夜には時折、遠くで花火の音が聞こえる季節になっていた。


「ルーチェ」の屋上テラスで、真奈は星空を見上げていた。閉店後の片付けを終え、少しだけ休憩をとっているところだった。古い洋館の屋上からは、都会の喧騒が不思議と遠く感じられる。真奈は深く息を吸い込んだ。空気は、まだ日中の温もりを残していた。


 季節の変わり目。真奈は自分の中の変化を、静かに感じていた。以前なら、この時間は必ず新刊のBL作品を読んでいただろう。でも今は、この静寂の中で星を眺めているだけで、心が満たされる。


「やっぱりここにいたんだ」


 背後から、アレックスの声がする。振り返らなくても、彼の穏やかな表情が目に浮かぶ。


「アレックスさん……今日は遅くまで仕事ですか?」


 声に出した瞬間、自分の声が少し上ずっているのに気付いた。いつもより少し早く帰ると言っていたアレックスが、約束の時間より遅れていたのだ。不安と安堵が入り混じった感情が、真奈の胸の中でゆらめいていた。


「ああ、少しだけね。でも、君に会いたくて寄ってみたんだ」


 アレックスは、真奈の隣に立った。スーツ姿はいつもの通り完璧だったが, よく見ると少し疲れた様子が窺える。それでも、真奈の方を見る目は優しさに満ちていた。


「星がきれいですね」


 真奈は、少し照れくさそうに空を見上げた。


「うん。でも」


 アレックスは、真奈の方を向いた。街灯の明かりが、彼の横顔を優しく照らしている。


「君の方が、もっときれいだよ」


「もう……またそういうこと言って」


 真奈は頬を赤らめた。しかし、その言葉が心地よく響くのも事実だった。かつては「まるで漫画のセリフみたい」と冷めた目で見ていたような言葉が、今では胸の奥深くまで染み渡る。それは、理想と現実の境界線が、少しずつ溶けていっている証だった。


### 2


「実は、話があるんだ」


 アレックスの声が、真剣な調子を帯びる。その声音の変化に、真奈は一瞬、背筋が凍るような感覚を覚えた。


「実は来月でアメリカに戻ることになった」


 その言葉に、真奈の心臓が凍りつく。頭の中が真っ白になり、呼吸が止まりそうになった。これまで築き上げてきた幸せが、一瞬にして崩れ去るような感覚。


(やっぱり……こんな幸せは、私には……)


 脳裏を駆け巡る、これまでの失恋の記憶。そして、それを慰めてくれた二次元の世界の記憶。また、そこに戻るしかないのだろうか。


「え……」


 かろうじて絞り出せたのは、それだけの言葉だった。


「でも、心配しないで」


 アレックスは、真奈の震える手を優しく握った。その温もりが、凍りついた真奈の心を、少しずつ溶かしていく。


「一週間ほどで戻ってくる。日本支社の正式な代表として」


「え? じゃあ……」


 真奈の声が、希望と不安の間で揺れる。


「うん。これからも日本で、君と一緒にいられる」


 その言葉に、真奈は思わず涙がこぼれた。それは、恐怖と不安が溶けて流れ出る涙であり、同時に安堵と幸せが溢れ出す涙でもあった。


「良かった……本当に良かった」


 アレックスは、真奈を優しく抱きしめた。スーツの生地の感触と、アレックスの香りが、この瞬間が現実であることを真奈に教えていた。


「君と離れるなんて、考えられないよ」


 その言葉は、真奈の耳元で静かに、しかし確かな重みを持って響いた。


### 3


 都会の喧騒が遠のき、星空だけが二人を見守っているような静けさの中で、アレックスは続けた。


「真奈」


「はい?」


 返事をする真奈の声が、少し震えていた。アレックスの声音に、何か特別なものを感じ取ったからだ。


「僕と、結婚してくれないか」


 突然の言葉に、真奈は息を呑んだ。まるで、時間が止まったかのような感覚。星の瞬きも、風の音も、すべてが静止したように感じられた。


「私と……結婚?」


 自分の声が、まるで遠くから聞こえてくるよう。これは夢なのだろうか。それとも、いつか読んだ漫画の一場面なのだろうか。


「ああ。君と一緒に、新しい物語を紡いでいきたい」


 アレックスは、ポケットから小さな箱を取り出した。深い紺色のベルベットの箱。それを開くと、中には控えめながら確かな輝きを放つ指輪が収められていた。デザインはシンプルだが、よく見ると繊細な模様が刻まれている。それは、まるで二人の物語を表現しているかのようだった。


「私……私なんかでいいんですか?」


 またしても、古い習慣が顔を出す。自分を卑下する言葉が、自然と口をついて出てきた。


「また『なんか』言ってる」


 アレックスは優しく笑った。その笑顔には、真奈の不安を包み込むような温かさがあった。


「君以外に、いったい誰がいるんだい?」


 その言葉に、真奈の心の中の最後の壁が、音を立てて崩れていった。長年築き上げてきた防壁が、優しい春の陽だまりのように溶けていく。


 真奈は、涙を拭いながら頷いた。震える手で目元を拭いながら、心の底から湧き上がる言葉を紡ぎ出す。


「はい。私も……アレックスさんと一緒に、物語を紡いでいきたいです」


 アレックスは、真奈の左手を取り、そっと指輪をはめた。ぴったりとしたサイズに、真奈は驚いた。


「美咲さんに、こっそり聞いておいたんだ」


 その言葉に、真奈は思わず笑みがこぼれた。


 二人を包む星空が、この瞬間を永遠に記憶するかのように、優しく輝いていた。六月の夜空には、珍しく流れ星が一筋、光の軌跡を描いた。


 それは、二人の新しい物語の始まりを祝福するかのようだった。


 真奈は、アレックスの胸に顔を埋めた。心臓の鼓動が、力強く、温かく響いている。それは、紛れもない現実の音。二次元の世界では味わえない、生きた愛の証だった。


「ありがとう……これからも、よろしくお願いします」


 真奈の言葉に、アレックスは静かに頷いた。


 星空の下で、二人の新しい章が、静かに幕を開けた。


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