第五章:光の交差点
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それから一ヶ月が過ぎた。
真奈とアレックスは、正式に交際を始めていた。休日には一緒に過ごし、平日は「ルーチェ」での短い時間を大切にする。
ある日、真奈は気付いた。最近、BL作品を読む時間が減っていることに。
(これって、現実の恋に満足してるってこと……?)
それにきづいた真奈は、自分自身、少し驚く。しかし、それは決して後ろめたい気持ちではなかった。二次元の世界は、依然として彼女の大切な場所。ただ、現実の世界も同じように輝きを持ち始めていた。
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「ねえ、真奈」
デートの帰り道、アレックスが呼びかけた。最近では、「さん」付けを省くようになっていた。
「なあに?」
「君の好きな作品の、新作劇場版アニメが公開されるんだよね?」
「え? ええ、そうですけど……」
「一緒に観に行かないか?」
その提案に、真奈は驚いた。
「でも、アレックスさんは……」
「僕も楽しみにしてるんだ。それに」
アレックスは、真奈の目をまっすぐ見つめた。
「君が好きなものを、もっと知りたいから」
その言葉に、真奈は胸が熱くなった。
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土曜日の映画館。
チケットカウンターまでの長い列に、真奈とアレックスは並んでいた。周囲には同じアニメ映画を観に来たカップルや女性グループが多い。その中で、スーツ姿の外国人男性と、普通の黒髪の女の子という組み合わせは、明らかに目立っていた。
「あの人、モデルさんかな……」
「でも、なんでアニメ映画?」
「となりの子、地味めだけど……」
耳に入ってくる囁き声に、真奈は少しずつ体が縮こまっていく。
(やっぱり、私なんかじゃ不釣り合いよね……)
黒縁メガネの縁を、無意識に触る。いつもの癖だ。隣にいるアレックスは、まるでファッション誌から抜け出してきたような完璧な容姿。それに比べて自分は――。
「真奈」
突然、アレックスが彼女の手を握った。
「え?」
「寒いね。もう少し近くにいってもいいかい?」
優しい声に、真奈は顔を上げる。アレックスは、いつもの穏やかな笑顔を向けていた。
(気付いていたの? 私の不安に……)
視線は相変わらず感じる。むしろ、手を繋いだことで更に強くなったかもしれない。でも、不思議と心が落ち着いてきた。
「この映画、原作のストーリーが素晴らしいって聞いたんだ」
アレックスは、自然な様子で話を続ける。
「作者が描く人間関係の機微が、とても繊細で美しいらしくて。真奈が好きな要素が詰まってると思うんだ」
その言葉に、真奈は思わず目を丸くする。
「アレックスさん、そんなこともお調べになってたんですか?」
「もちろん。だって、君と一緒に楽しみたいから」
素直な言葉に、周囲の視線も気にならなくなってきた。
「次のお客様、どうぞ」
カウンターに呼ばれ、二人は前に進む。
「二枚、お願いします」
アレックスが英語訛りの丁寧な日本語でチケットを購入する。窓口の女性が、二人を見て優しく微笑んだ。
「はい、こちらでございます。スクリーン正面の、カップルシートをご用意しました」
その言葉に、真奈は思わず頬が熱くなる。でも、もう恥ずかしさは感じなかった。
(そうか。私たち、カップルなんだ)
映画館のロビーに入ると、ポップコーンの香ばしい匂いが漂ってくる。
「何か食べたい物ある?」
「え、と……」
「僕は甘いポップコーンがいいな。真奈は?」
「私も、同じものを……」
アレックスは嬉しそうに頷き、売店に向かった。その後ろ姿を見つめながら、真奈は気付く。
(周りの目なんて、もう気にならない)
確かに、二人は不釣り合いに見えるかもしれない。でも――。
(これが私たちの物語なら、それでいいんじゃない?)
その考えが浮かんだ瞬間、心が軽くなった。アレックスが戻ってきて、また手を繋ぐ。
「映画、始まるね」
「はい!」
二人で共有するポップコーンの甘い香りが、幸せな時間の始まりを告げていた。
映画を観終わった後、二人は近くのカフェに入った。
「面白かったね。特に、あのシーンの演出が素晴らしかった」
アレックスの感想は的確で、真奈は嬉しくなった。
「アレックスさんは、本当に理解してくれようとしてくれますね」
「それは、君のことを愛してるからだよ」
その言葉は、いつもながら直球だった。
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夏が近づいてきた頃。
「ルーチェ」では、季節限定のかき氷メニューの準備が始まっていた。
「真奈ちゃん、試作品を味見してくれない?」
美咲が呼びかける。
「はい!」
カウンターの向こうで、真奈はスプーンを手に取った。しかし、その時。
「いらっしゃいませ!」
店の入り口で、騒ぎが起きた。強面の客が、新人アルバイトの女の子を怒鳴りつけている。
「何だよ、この接客は! なめてんのか!」
新人の女の子は、震えながら謝罪を繰り返す。その様子に、真奈は思わず動き出そうとした。
しかし、その時。
「お客様、何か問題でも?」
流暢な日本語で、アレックスが割って入った。
「誰だよ、お前は!」
「私は、このカフェのただの常連客です。しかし私はこのカフェを愛しています。ですので、もし何か問題があるのでしたら、私にお話しいただけますか?」
アレックスの態度は毅然としていた。背が高く、端正な顔立ちの外国人が真摯に対応する姿に、客は少しずつ態度を軟化させていく。
「お客様のお気持ちはよく分かります」
アレックスの声は、低く落ち着いていた。すでに店内の空気が変わり始めている。
「しかし、このカフェには素晴らしいスタッフが揃っています。彼女たちは、お客様に最高のサービスを提供しようと、日々努力を重ねている」
その言葉に、新人アルバイトの女の子は目を潤ませた。
客は、徐々に声のトーンを落としていく。アレックスの佇まいには、不思議な説得力があった。スーツを完璧に着こなした姿は、まるで高級ホテルのコンシェルジュのよう。その雰囲気に、怒りの感情が収まっていくのが見て取れる。
「確かに……俺も少し興奮しすぎていた……かもな……」
客の声が、明らかに柔らかくなった。
「お詫びとして、次回ご来店の際は、私からスペシャルブレンドのコーヒーを一杯、サービスさせていただきましょう」
アレックスは、紳士的な微笑みを浮かべた。
「あ、いえ、そんな……俺の方こそ……なんかその……申し訳なかった……」
客は深々と頭を下げ、そそくさと店を出ていった。
その場に居合わせた常連客の女性たちは、感嘆のため息をもらす。
「まるで映画のワンシーンみたい……」
「本当に素敵な方ね」
「真奈ちゃん、幸せ者だわ」
カウンターの向こうで、真奈は複雑な表情を浮かべていた。確かにアレックスは、まるで物語から抜け出てきたような完璧な対応を見せた。でも、それは演技でも見せかけでもない。
(これが、アレックスさんの本質なんだ)
相手の立場に立って考え、誠実に向き合う。その姿勢は、普段の彼とまったく同じだった。
アレックスは新人の女の子の方に向き直った。
「大丈夫? よく頑張ったね」
「は、はい! ありがとうございました!」
女の子の目には、今度は感謝の涙が光っていた。
真奈は、その光景を見つめながら思う。
(理想の王子様は、本当にいるんだ)
それは、彼女の読んできた物語以上に、美しい現実だった。
「ごめんなさい、アレックスさん……私の対応が悪くて」
新人の女の子が、泣きそうな顔で謝る。
「いいえ、あなたは何も悪くありません。むしろ、よく冷静に対応できていましたよ」
その言葉に、女の子は少し安心したような表情を浮かべた。
その様子を見ていた真奈は、胸が熱くなった。アレックスは、まるで物語の中の王子様のように振る舞った。しかし、それは演技ではない。彼の本質そのものだった。
(理想の人は、現実にもいるんだ)
その気付きは、真奈の中で静かに広がっていった。