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第四章:理想と現実の境界線

### 1


 デートの約束から数日後。


朝の光が差し込む部屋で、真奈は途方に暮れていた。開け放たれたクローゼットの前で、既に一時間が経過している。床には試着しては脱いだ服が、小さな山を作っていた。


「どうしよう……」


 クローゼットの中の服を見つめながら、真奈は溜息をつく。普段は制服のエプロンに隠れているから気にならないのに。今日は違う。アレックスとの初めてのデート。


 鏡に映る自分を見つめる。黒縁メガネの奥で、不安そうな瞳が揺れていた。


(私に似合う服なんて、あるのかな……)


 ハンガーを一つずつずらしていく。シンプルな紺のワンピース、カジュアルなデニムのスカート、去年買ったけど一度も着ていないピンクのブラウス。どれも今日には似合わない気がして。


 時計は既に九時を指している。待ち合わせまであと二時間。


 そんな時、スマートフォンが鳴った。美咲からのメッセージだった。


「がんばって! あなたらしく、素直に楽しんでね」


 その言葉に、真奈は少し勇気をもらえた。


(そうよね。背伸びしすぎても、きっと不自然になるだけ)


 もう一度、クローゼットを見渡す。すると、後ろの方に掛かっていた一枚のワンピースが目に留まった。


 結局、真奈は普段着よりは少しだけお洒落なワンピースを選んだ。薄いブルーの生地に、小さな花柄が散りばめられている。去年の誕生日に美咲と一緒に買いに行って、とっておきの日まで取っておこうと決めていた一着。


 着てみると、不思議と心が落ち着いた。丈は膝下で上品に、首元は程よく開いていて、袖は七分丈。派手すぎず、でも確かに特別感がある。


 鏡の前で、くるりと一回転してみる。スカートが、春風のように優しく揺れた。


(これなら、私らしい気がする)


 化粧も、いつもより少しだけ丁寧に。マスカラを塗り、薄いピンクのリップを選ぶ。


 最後に、いつも後ろで一つに束ねている髪を、少しだけ工夫してみる。両サイドを細く編んで後ろで留めると、さりげない可愛らしさが生まれた。


「よし……」


 小さく深呼吸をする。頬が少し紅潮しているのは、緊張のせいだけじゃないかもしれない。


 スマートフォンを手に取ると、美咲からもう一度メッセージが届いていた。


「自分らしさが一番素敵なのよ。きっと素敵な一日になるわ」


 返信を打ちながら、真奈は小さく微笑んだ。


(ありがとう、美咲さん。私、頑張ってみます)


 時計は十時を指していた。心臓は早鐘のように鳴っているけれど、それは決して悪い緊張感ではなかった。


 真奈は、部屋を出る前にもう一度だけ鏡を見た。


 そこには、いつもの自分と、少しだけ違う自分が映っていた。


 待ち合わせは、「ルーチェ」の前。慣れ親しんだ場所なら、少しは緊張も和らぐかもしれない。


 約束の時間より少し早く到着した真奈を、アレックスはすでに待っていた。


「やあ、真奈さん。とても素敵だよ」


 その言葉に、真奈は顔を赤らめた。


### 2


 二人は、まず美術館に向かった。


「実は、僕も緊張してるんだ」


 電車の中で、アレックスが突然言った。


「え?」


「だって、大切な人とのデートだからね」


 その率直な言葉に、真奈は心臓が大きく跳ねるのを感じた。


 美術館では、現代アートの特別展を見学した。抽象的な作品の前で、二人は様々な解釈を話し合う。


「不思議ですね。同じ作品でも、見る人によって感じ方が違うんですね」


「そうだね。でも、それが面白いところじゃないかな。二次元の作品だって、読む人によって解釈が違うでしょう?」


 その言葉に、真奈は目を輝かせた。


「はい! 同じ作品でも、読む人によって着目するポイントが違って……」


 気付けば、真奈は自分の好きな作品について熱く語っていた。しかし、アレックスは真剣な表情で聞いている。


「それでその時の主人公の気持ちが、すごく繊細に描かれているんです! 表面的には冷静を装っているけど、相手のことを考えると胸が苦しくなって、でも、その想いを言葉にできなくて……作者さんの描写が本当に秀逸で!」


 真奈の声が、少しずつ大きくなっていく。手振りも大きくなり、目も輝きを増していく。


「特に、図書館のシーンがお気に入りなんです。本棚の影で偶然出会うところとか、夕陽が差し込む閲覧室で二人きりになるところとか……ああ、あと! 梅雨の日に居残りで一緒になるシーンも素敵なんです! 雨音を背景に、二人の気持ちがすれ違って……でも、そのすれ違いがまた切なくて……」


 アレックスは、真摯な表情で真奈の話に耳を傾けている。時折、小さく頷きながら。


「それに、登場人物の性格付けも絶妙なんです! 表面的には完璧そうに見える先輩が、実は人一倍繊細で、好きな人の前では緊張しちゃうところとか……あ、このシーンなんて特に好きで……」


 真奈はスマートフォンを取り出し、お気に入りのシーンの画像を見せようとして、ふと我に返った。


(あ……)


 自分が延々と語っていたことに気付く。しかも、手には大きく開いた漫画。思わず立ち上がっていた自分。そして、カフェの他のお客様の、少し驚いた視線。


「あ……あの……ご、ごめんなさい! 私……調子に乗って……」


 真奈の顔が、みるみる真っ赤になっていく。耳まで熱い。今まで、こんなに熱く語ったことは、オタク仲間以外では一度もなかった。


(どうしよう……引かれちゃったかも……おかしな人だと思われて……)


 俯いてしまう真奈。しかし。


「続きを聞かせて?」


 アレックスの声に、真奈は驚いて顔を上げた。


「え?」


「その後、二人はどうなるの? すれ違いは解消されるの?」


 アレックスの瞳には、純粋な興味が宿っていた。からかいや軽蔑の色は、微塵もない。


「あの……本当に、聞きたいんですか?」


「うん。真奈さんの説明、とても分かりやすいよ。それに」


 アレックスは、優しく微笑んだ。


「君が楽しそうに話すの、すごく素敵だから」


 その言葉に、真奈の心臓が大きく跳ねる。まだ顔は赤いままだけど、今度は違う理由で。


「じゃ、じゃあ……その、続きなんですけど……」


 真奈は、少しずつ話を再開した。今度は少し落ち着いて、でも、確かな熱量を持って。


 アレックスは、最後まで真剣に聞いてくれた。時には質問を投げかけ、時には感想を述べ。二人の会話は、穏やかに、でも確かな温かさを持って続いていく。


(私の好きなもの、ちゃんと受け止めてくれる人がいるんだ)


 その気付きは、真奈の心に小さな、でも確かな希望の灯りを灯していった。


### 3


 美術館を出た後、二人は近くの公園を散歩した。


 初夏の陽気の中、木々の緑が鮮やかに輝いている。噴水の周りには、たくさんの人々が集まっていた。


「ねえ、真奈さん」


 ベンチに座って休憩していると、アレックスが静かに話し始めた。


「僕は、君との出会いで多くのことを学んだよ」


「え?」


「例えば、表面的なことだけで人を判断してはいけないこと。そして、誰にでも大切にしている世界があること」


 アレックスは、空を見上げながら続けた。


「最初は、単に可愛らしい店員さんだと思った。でも、君の中にある豊かな世界を知って、僕は惹かれていった」


 その言葉に、真奈は息を呑んだ。


「私なんかに……そんな……」


「また『なんか』って言った」


 アレックスは優しく微笑んだ。


「真奈さん。君は自分の価値に気付いていない。純粋に物事に感動できる心、人を思いやる優しさ、そして何より、自分の好きなものを大切にする誠実さ。そのすべてが、僕には愛おしいんだ」


 夕暮れの公園で、アレックスの言葉が響く。


「私、怖いんです」


 真奈は、初めて本当の気持ちを口にした。


「理想と現実が、混ざってしまいそうで。アレックスさんは、まるで物語から抜け出してきたみたいに完璧で……でも、現実はそんなに甘くないって、分かってるから……」


 涙が頬を伝う。アレックスは、そっと真奈の手を握った。


「僕は物語の中の人物じゃない。ときには間違いも犯すし、完璧じゃない。でも、それでも真奈さんのことを、心から愛している」


 その言葉に、真奈の心の中で何かが崩れていく。長年築き上げてきた防壁が、少しずつ溶けていくような感覚。


 それは最初、小さな揺らぎだった。氷の表面に、ほんの少しだけ入った細い亀裂のように。


(私を、愛してる……?)


 その言葉が、心の中でこだまする。


 これまで何度も、傷つかないように自分の殻に閉じこもってきた。趣味を否定されるたび、少しずつ心を閉ざしていった。二次元の世界だけが、安全な逃げ場所だった。


 でも、今。


 アレックスの言葉が、その殻にそっと触れる。優しく、でも確かな強さで。まるで春の陽だまりのように、凍えた心を少しずつ溶かしていく。


(だめよ、また傷つくだけ……)


 理性が警告を発する。でも、もう遅い。


 心の奥底から、長い間押し殺してきた想いが、少しずつ目覚め始めている。それは、温かい春の土から、新芽が顔を出すような感覚。


 目の前で、アレックスがまっすぐに語りかけてくる。


「君のすべてが好きなんだ」


 その言葉の一つ一つが、防壁に波紋を広げていく。


(私のすべて……?)


 オタクな趣味も、内気な性格も、不器用な生き方も。そのすべてを、彼は受け入れると言う。


 気付けば、頬を伝う涙が止まらなくなっていた。それは、溶けていく防壁から零れ落ちる、温かな雫のよう。


「ごめんなさい……私……」


 言葉にならない気持ちが、胸の中で渦を巻く。でも不思議と、怖くはなかった。


 むしろ、解放されるような、そんな感覚。まるで、長い冬の終わりを告げる、最初の春風のように。


 真奈は、初めて心の奥底から湧き上がる感情を、素直に受け入れていた。


 それは、これまで読んできた物語の中でしか味わえなかった、特別な瞬間。


 でも今は、確かな現実として、目の前にある。


 長年の防壁は、静かに、でも確実に崩れていく。その跡には、新しい何かが芽生え始めていた。


 それは、きっと――愛。


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