第三章:心の距離
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それから数週間が過ぎた。
真奈とアレックスの関係は、確実に変化していた。アレックスは相変わらず毎日のように「ルーチェ」に来店し、時には仕事の相談をし、時には真奈の趣味について話を聞いた。
「ねえ、真奈ちゃん」
ある日、美咲が声をかけてきた。
「最近、幸せそうね」
「え? そう、でしょうか……」
「そうよ。表情が、全然違う」
確かに、真奈自身もそれを感じていた。二次元の世界に没入することが、少しずつ減ってきている。その代わりに、現実の世界での出来事が、より鮮やかに感じられるようになっていた。
特に、アレックスと過ごす時間は、まるで物語の一ページのように輝いていた。
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しかし、その平穏な日々に、小さな波紛が訪れる。
ある雨の日のこと。「ルーチェ」に一人の女性が駆け込んでくる。スーツ姿の若い女性。どこかモデルのような雰囲気を持っていた。
「アレックスさん、今日の資料、確認していただけますか?」
山田麻衣子。アレックスの会社の営業アシスタントだった。
「もちろん。でも、ずいぶん濡れてしまったね。少し休んでいったら?」
アレックスは即座にハンドタオルを差し出し、温かい紅茶を注文。
「真奈さん、ホットの紅茶をお願いできるかな?」
「は、はい」
真奈が運んだ紅茶に、麻衣子は嬉しそうな表情を浮かべる。
「アレックスさんって、いつも気が利きますよね。私、尊敬してます」
「そんなことないさ。当たり前のことをしているだけだよ」
謙遜するアレックスに、麻衣子は頬を染める。
カウンターの向こうで様子を見ていた真奈は、胸が締め付けられる思いだった。麻衣子は知的で美しく、アレックスと仕事をする中でお互いを理解し合える関係。対して自分は……。
「私『なんか』より、麻衣子さんの方が似合うかも……」
その夜、真奈は珍しく残業を申し出た。本当は、アレックスと麻衣子が打ち合わせを続けている様子を見たくなかっただけ。閉店作業に没頭していると、背後から声がした。
「真奈さん、まだいたんだ。今日は遅いね」
振り返ると、アレックスが立っていた。麻衣子はもう帰ったようだ。
「仕事が……残ってたので」
「そう。でも無理はしないでね」
優しい言葉に、なぜか涙が込み上げてくる。
「あ、それと。これ」
アレックスが差し出したのは、真奈の好きなBL作家のサイン会整理券。
「明日発売予定の新刊。並ばなくていいように、知り合いに頼んで取っておいてもらったんだ」
その言葉に、さっきまでの不安が少し和らぐ。
「こんな細かいことまで……覚えていてくれたんですね」
「もちろん。真奈さんの好きなことは、全部覚えているよ」
アレックスの瞳が、優しく微笑んでいた。
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翌日。
真奈は早番で出勤した。まだ開店準備の時間。モーニングの仕込みをしながら、昨日のことを考えていた。
(私、嫉妬してたんだ……)
その気付きは、真奈自身を驚かせた。これまで二次元の世界に安住してきた彼女が、現実の恋に心を揺さぶられている。
そして、もう一つの気付き。
(アレックスさんは、私の気持ちに気付いていたのかな)
サイン会の整理券を用意してくれていたこと。それは偶然ではないはずだ。
開店時間が近づき、真奈は看板を出すために外に出た。朝もやの立ち込める中、古い洋館は静かに佇んでいる。
「おはよう、真奈さん」
いつものように、アレックスが現れた。
「あ、おはようございます」
「今日は早いんだ」
「はい。モーニングの担当なので」
「そう。実は、僕からお願いがあるんだ」
アレックスは、少し緊張した様子で続けた。
「今度の休日、デートしてくれないかな」
その言葉に、真奈の心臓が止まりそうになった。
「デート……ですか?」
「ああ。ちゃんとした、デート」
アレックスの表情は、真剣そのものだった。
「私で、いいんですか……?」
「もちろん。むしろ、僕にその資格があるかどうか、心配なくらいだよ」
アレックスは、真奈の目をまっすぐ見つめた。
「真奈さんは、自分のことを過小評価しすぎているよ。僕は、君のすべてが好きなんだ」
朝もやの中で、その言葉が響く。
真奈は、小さく頷いた。