エピローグ:光の交差する場所で
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結婚から一年が経った春の午後。
「ルーチェ」の古い洋館に、いつもと変わらない柔らかな光が差し込んでいる。真奈は窓辺で、新入りのスタッフに仕事を教えていた。
「藤沢さん、お客様のオーダーは必ずメモを取るようにしてくださいね」
「は、はい! 佐藤さん!」
新人の藤沢美月は、真面目な性格の女の子だ。しかし、少し自信が持てないところがある。かつての自分を見ているようで、真奈は妙な親近感を覚えていた。
「美月ちゃん、肩の力を抜いて。あなたらしく、丁寧に接客すればいいの」
その言葉に、美月は少し安心したような表情を浮かべた。
「佐藤さんみたいに、素敵な先輩になれるでしょうか……」
「私なんて……」
その言葉を口にしかけて、真奈は自分で笑ってしまった。
(ああ、私も変わったんだな)
### 2
その日の夕方、美咲が声をかけてきた。
「真奈ちゃん、随分と良い先輩になったわね」
「美咲さん……」
「覚えてる? あなたが入ったばかりの頃のこと」
真奈は懐かしく微笑んだ。
「はい。私、すごく不安だったんです。自分の趣味のことも、人付き合いのことも……」
「でも、今は違うでしょう?」
「はい。今は……自分のありのままでいいんだって、分かるようになりました」
美咲は優しく頷いた。
「アレックスさんも、きっと喜んでるわ」
その時、チャイムが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
振り返ると、そこにはアレックスの姿があった。
### 3
閉店後、二人は新しい家に帰った。
マンションの一室は、二人の趣味が自然に調和している。本棚には、アレックスのビジネス書と真奈のBL作品が並んでいる。壁には、二人で美術館で買ったお気に入りの絵画。テーブルの上には、今朝の朝食で使った食器がまだ置かれていた。
「ただいま」
二人で声を重ねて、思わず笑い合う。
「真奈、これ見て」
アレックスがスマートフォンを見せる。画面には、アメリカの友人からのメッセージが表示されていた。
「この前勧めてくれたBL作品、すごく面白かったって」
「え? アレックスさん、友達に薦めてたんですか?」
「うん。君が熱心に語ってくれるから、僕も面白さが分かってきたんだ」
その言葉に、真奈は胸が熱くなった。
### 4
リビングのソファで、真奈は新刊のBL漫画を読んでいた。アレックスは隣で仕事のメールをチェックしている。
「ねえ、アレックスさん。これ、読んでみない?」
真奈は、手元の漫画を差し出した。
「面白そうだね。でも」
アレックスは、真奈を優しく抱きしめた。
「僕たちの物語の方が、もっと素敵だと思うよ」
「うん。私もそう思います」
真奈は、アレックスに寄り添った。
「でも、二次元の世界があったから、私は今の自分でいられるんです」
「そうだね。それは君の大切な一部だからね」
窓の外では、桜の花びらが舞っていた。春の風に乗って、どこまでも自由に。
真奈は思う。
二次元の世界は、もう逃げ場所ではない。それは彼女の心を豊かにしてくれる、大切な場所。そして現実の世界も、同じように輝いている。
理想は、時として現実になる。
そして時には、現実の方が理想よりも、もっと素晴らしいものになることもある。
### 5
その夜、真奈は日記を書いていた。
『今日も「ルーチェ」は、たくさんの人の物語で溢れていた。
新人の美月ちゃんは、少しずつ自信をつけている。
常連のおじいちゃんは、孫の結婚式の写真を見せてくれた。
大学生のカップルは、いつもの窓際の席で卒論について語り合っていた。
そして私は……
かつての自分には想像もできなかった幸せを、毎日少しずつ、噛みしめている。
これは、誰かに与えられた物語じゃない。
私たちが、一緒に紡いでいく物語。
まだ見ぬページが、これからもずっと続いていく――』
日記を閉じると、真奈はベッドに横たわるアレックスの隣に潜り込んだ。
「おやすみ、真奈」
「おやすみなさい、アレックス」
月明かりが、二人を優しく包み込む。
明日も、新しい物語が始まる。
それは、二次元と三次元の境界線が、優しく溶け合うような物語。
真奈とアレックスだけの、特別な物語。
おわり