プロローグ:光の降る場所
東京の路地裏に佇む小さなカフェ「ルーチェ」は、百年以上の歴史を持つ洋館を改装した建物だった。イタリア語で「光」を意味するその店名の通り、高窓からは柔らかな光が差し込み、古びた木の床を優しく照らしている。
午後三時。客足の少ない時間帯に、佐藤真奈は窓辺の埃を丁寧に拭っていた。二十四歳。自他共に認める「腐女子」である彼女は、この仕事に就いて二年目を迎えていた。
「真奈ちゃん、少し休憩していいわよ」
店長の倉田美咲が声をかけてきた。四十代半ばの彼女は、真奈にとって理解ある上司であり、時には人生の相談相手でもある。
「ありがとうございます。でも、もう少しだけ……」
真奈は高窓に映る自分の姿を見つめた。肩までのストレートの黒髪、すっきりとした黒縁メガネ。制服のエプロンの下には、シンプルな白のブラウスとベージュのスカート。一見すると、ごく普通のカフェの従業員に見える。
しかし、そのポケットには、いつも最新のBL小説が忍ばせてあった。
真奈は休憩室に向かい、お気に入りの椅子に腰掛けた。スマートフォンを取り出すと、SNSで最新の二次創作を確認する。現実の恋愛には失敗続きだった彼女にとって、二次元の世界は安全な避難所のような存在だった。
「理想の恋なんて、私には未来永劫、縁がないんだから……」
そうつぶやきながら、真奈は深いため息をついた。大学時代の元カレは、彼女の趣味を知ると態度を急変させた。「普通の女の子になれよ」――その言葉は、今でも彼女の心に深い傷として残っている。
窓の外では、夕暮れの空が徐々に色を変えていく。真奈は立ち上がり、再び店内に戻った。閉店まであと一時間。いつもの静かな時間が流れ始めようとしていた。
そのとき、チャイムが静かに鳴った。
「Excuse me, are you still open?」
低く、しかし澄んだ声が店内に響く。振り返った真奈は、その場に釘付けになった。
夕陽に照らされた入り口に、一人の男性が立っていた。金色の髪は柔らかな光を帯び、深い青の瞳は優しさに満ちている。高身長で、完璧に着こなされたスーツ姿。まるで、真奈の読んでいたBL作品から抜け出してきたような存在感だった。
「あ、は、はい! どうぞお入りください!」
声が裏返るのを必死に抑えながら案内すると、男性は柔らかな微笑みを浮かべた。
「ありがとう。僕はアレックス。最近日本に来たばかりなんだ。このカフェ、とても居心地が良さそうだね」
流暢な日本語に驚く真奈。アレックス・ブライトンは、IT企業の日本支社立ち上げのために来日したアメリカ人だと自己紹介した。
その瞬間、真奈の心の中で何かが動いた。それは、長い間閉ざしていた扉が、少しだけ開いていく音に似ていた。