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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
神様なんてどこにいるとも知れないのですから、くーちゃんの切なる祈りが届いたかどうかなんて、誰にもわかりません。
しかし翌朝、くーちゃんは天界の何億倍も狭い部屋で目を覚まし、自分の祈りがこれっぽっちも届いていないことを知りました。どこにいるとも知れない神様に祈ったって仕方ありません。地上に落とされて早三日、くーちゃんは神様に頼ることをやめました。
その日も、くーちゃんは大切な仕事を任されました。
くーちゃんが起き出すころ、昨夜泊まりに来た男性は、すでにチェックアウトを済ませていました。寝起きのぼんやりした頭で、祖父江さんからの言伝を受けます。
「今日の拭き掃除は、わたしに任せてください」
目が覚めました。地上ではじめて感じた「うれしい!」が、この一言です。
「じゃあ、あたし、今日はおやすみね!」
「いえ、ちゃんとお仕事があります」
とてもよく目が覚めました。地上ではじめて感じた「げんなり」が、この一言です。
祖父江さんが言います。
「昨夜の利用者さんが使ったお部屋を、片づけてきてください。宿泊棟の一階の大部屋、一号室です。おひとりで、よくできた方だったので、そう散らかっていないと思いますが、掃除はしないといけません」
「……どうしても、あたしじゃないとダメ? 昨日のふたりにお願いするとか」
タロウくんとナルちゃんのことです。
祖父江さんは首を振り、
「あのふたりは、地上でのお勤めに出ています。よほどのことがなければ、頼み事はしないことにしています」
「人間の後始末とか、嫌なんだけど」
「お勤めと学校、どっちがいいですか?」
この天使は、くーちゃんにその二択を突きつければ言うことを聞いてくれると思っているのでしょうか。屈辱的です。そんなおどしに屈するほど、くーちゃんのプライドは安くありません。ですが、おどしを上回るほど勇気もなく、くーちゃんは仕方なく、宿泊棟に向かいました。
一階大部屋のふすまを開けると、くーちゃんの部屋を三倍ほど広くした和室が広がりました。一面若草色の畳が敷かれ、和風なかおりがただよっています。階段側の壁はシックな粘土材で、その反対側は二号室を仕切るふすまになっていました。調度品はほとんどなく、背の低い書き物机と、一組の布団があるばかりです。
さあ、くーちゃんの闘いが始まります。
くーちゃんが対するは和室の空気。この和室は、さっきまで人間が使っていたので、もれなく、人間がいた名残が空気中に残留しています。和室に入るとは、すなわち、清く神聖な天使の身体を、人間が汚した空気に浸すということ……わずか三ミリの敷居をまたぐためだけに眉間のしわを濃くすることに、なんの不思議があるでしょう。
しかし、闘わなければいけない。
闘いに大事なのは、シミュレーションです。どこでどう立ち回ればいいかを考えれば、たとえ時計が読めなかった天使だって、どこをどう立ち回ればいいか考えれば、空気の破滅した和室に立ち向かうことができるはず。
日差しが八度ほど傾いたころ、くーちゃんは祖父江さんの言葉を思い出しました。
掃除は、「天界のように隅々まで、真っさらに」が基本。
その基本を忠実に再現すればいい。
日差しがさらに七度ほど傾いてから、くーちゃんは意を決し、息を吸い込み、止め、敷居をこれでもかと大きくまたぎました——天使が和室に打ち勝った、歴史的瞬間——戦いのゴングさながら、真っ白な足をこれでもかと畳にたたきつけます。
それからの行動は速かった。
くーちゃんは格子窓を開け、冬の空気を取り込み、和室の浄化を試みます。
続いて、人間が使ったと思しき布団を一式、目に映らなければ汚れていない理論で、和室の隅に押しこみます。
息を止めたまま外に出る必要があったかどうかはさておき、くーちゃんは息を止めたまま洗濯室に向かい、湿っている(つまり生乾きの)ぞうきんを手に取って、和室に駆けもどり、書き物机の天板と脚と底を拭き、もう限界! というところで、和室を飛び出します。
やっと呼吸が許されたように、くーちゃんは大きく息を吸い込みました。
何度もあえいで、ついに、一粒だけ涙をこぼしてしまいました。人間のように廊下に這いつくばっていますが、気にしている場合ではありません。くーちゃんは、和室に打ち勝ったのです。たとえ、たかが和室を片づけただけじゃないかと言われようと、それがどれほどくーちゃんの神経をすり減らす大仕事だったのかは、くーちゃんにしかわかりません。
いまのくーちゃんなら、少しでも優しくしてくれる人間がいれば、どんな言葉でも心に響いたでしょう。「よく頑張りました」とか、「今日はもうお休みでいいですよ」とか、そんなことを言われただけで、ころっとなついてしまうくらい、くーちゃんは弱っていました。
ですが、いま、このゲストハウスにいるのは、優しい人間ではなく、ネーミングセンスの怪しい天使だけです。
和室の掃除にいつまでかかっているんだろう、と、祖父江さんがやってきました。祖父江さんは、廊下に這いつくばって涙ぐんでいるくーちゃんに首をかしげつつ、和室をのぞきます。
そして、一言。
「掃除、できなかったんですか?」
くーちゃんの涙が引っこみました。
祖父江さんは敷居をまたいで、和室に入ってしまいました——くーちゃんがあれほど苦心した敷居を、あっさりと——そうして、部屋の隅に押しやられた布団を、がばっと広げました。
「ああ、布団の畳み方、教えていませんでしたか。でも、こんなふうに押しやったら、布団が可哀そうじゃないですか。あと、シーツを剥がして洗濯機に入れるくらいのことは、できてほしかったですね。洗濯場の場所は、初日に教えたはずです」
祖父江さんはふとんのシーツを剥いで、掛け布団と敷布団をきれいに畳みます。それからシーツを抱えて、くーちゃんの脇を通り抜けて、洗濯場に向かいます。ごうんごうん、と、洗濯機が回る音が響いてきます。
洗濯場から出た祖父江さんはまた、きょとんと目を丸くします。
「いつまでそうしているんですか?」
和室の前でへたりこんでいるくーちゃんに、祖父江さんが言います。
「お仕事はまだ残ってますよ。ぞうきんを持っているなら、窓の桟を拭いたり、廊下を拭いたり、やることはいくらでも——」
「もう無理!」
くーちゃんは不細工に顔をゆがめて、祖父江さんをにらみます。
「無理! もうやだ、こんな生活! 耐えられない!」
「泣き言を言っても、どうしようもありません」
祖父江さんはにっこりと、憐れみを含めて、微笑んでいます。
「答えがわかるまで、天界には帰れません」
「もう十分でしょ! 地上に落とされて、人間が寝泊まりした後始末までして、これ以上どうしろっていうの! 人間の足でもなめれば、大天使様は満足してくれる⁉」
「さあ? やってみればいいと思います」
祖父江さんは、くーちゃんの怒りにまったく取り合ってくれません。それがわかるから、くーちゃんは余計に腹が立ちます。もう、何に怒っていて、何でこんなに悲しいのか、よくわかりません。
そのとき、本館のほうから「すいませーん」と声がします。正午前ですが、新しいお客さんが来たようです。
祖父江さんは、くーちゃんなんてそこにいないみたいに踵を返して、玄関のほうに走って行きます——天使のくーちゃんより、人間のほうが大事——祖父江さんの背中が、そんなふうに言っているようで……
居たたまれなくなって、くーちゃんは渡り廊下のガラス戸を開け放ち、中庭から表に飛び出しました。そのままゲストハウスから逃げ出そうとしたとき、ドンッ、と、玄関前でなにかとぶつかってしまいます。
くーちゃんに痛みはありません——天使は痛みも感じません——が、ぶつかった何かが、大声で泣き出しました。二歳くらいの男の子でした。くーちゃんとぶつかって、尻もちをついてしまったようです。
男の子のおかあさんが、何事かとやってきます。おかあさんは男の子をあやしつつ、くーちゃんに「怪我はない?」と聞きます。いまのくーちゃんには、どんなに優しい言葉も、喧嘩を売られているようにしか聞こえません。
「あんた、邪魔なのよ!」
ありったけの恨みをぶつけました。
「どんくさいくせに! 愚かなくせに! そのへんのアリと変わんない、ちっぽけな存在のくせに! 人間ごときが、何様のつもりよ!」
くーちゃんの怒鳴り声に、おかあさんはあっけにとられ、小さな男の子はさらなる大声で泣きだします。祖父江さんが対応していたおとうさんまで、表に出てくる始末……彼の脇に、祖父江さんが困った顔をしているのを、くーちゃんは見てしまいました。
くーちゃんは目を背けて逃げ出しました。
坂道を駆け下り、古びた石畳の通りに来てもなお、くーちゃんは走り続けました。
どこまで走っても、くーちゃんの背中に、男の子の泣き声が張りついているような、そんな気がしたのです。
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