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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
屈辱的な一日が終わりました。
リビングの窓からは、強烈な西日が差し込んでいます。武骨なテーブルに突っ伏すくーちゃんの頭が、赤い日差しでじりじりと焼かれます——天使なので熱いと感じることはありません——くーちゃんには、ほんの数ミリ頭を動かす気力さえありませんでした。
今日は、朝から晩まで働き詰めでした。
本館の廊下が拭き終わると、今度は宿泊棟の廊下も、同じように拭かされました。祖父江さんの話によると、宿泊棟の一階は先週(三が日とかいう時期)に使われたきり、誰も泊まっていないそうです。祖父江さんも掃除はしているようですが、廊下にはうっすらとほこりが積もっていたり、人間の足の裏の垢がこびりついていたりしました。
祖父江さんは、掃除の間、天使の力を使うそぶりすら見せませんでした。
「使わなくてもやっていけますから」
と、余裕綽々に言いました。
それなら、くーちゃんも力を使うわけにはいきません。
力を使い切ればどうなるか、わかったものではありませんから……
おかげで、ただ廊下を拭くだけのことで、丸一日かかってしまいました。祖父江さんは途中で、別の仕事をすると言って、共用スペースに引っ込んでしまいました。結局、宿泊棟の廊下はぜんぶ、くーちゃんが掃除しました。ほこりを拭き、こびりついたを拭き……ガラス戸の桟や、階段の踏面、手すりの縁まで……どうしてそんなところが汚れるのでしょう……
くーちゃんがテーブルにぐったりとしていると、祖父江さんがお茶を用意してくれました。お腹が空かず、喉も乾かない天使にとって、お茶の一杯はなんの労いにもなりません……もちろん、出された手前、飲みますけれど。
その後、くーちゃんは三人の人間と出会いました。実際には、人間はひとりしかいませんでした。残りのふたりは、くーちゃんと同じく地上に落とされた天使でしたが、そのあまりの染まり具合に、同じ天使と思えなかっただけです。
最初にやってきたのは、ごくふつうの人間でした。ゲストハウスの宿泊客です。
「すいませーん」
と玄関から声がして、祖父江さんが出迎えに行きました。遠鳴りに聞こえる会話から、男性はバックパックひとつで、地上のあちこちを回っているそうです。祖父江さんは受付をして、本館を案内します。共用スペースにやってきた男性は、くーちゃんの姿を認めるなり、祖父江さんにたずねるような視線を向けました。
祖父江さんが言います。
「わたしの……なんて言えばいいでしょう。妹のような、娘のような、孫のような……身内の子をあずかっているような感じです」
身内になったつもりはない、と、くーちゃんは内心で毒づきます。
「はあ」と、男性も不思議そうです。
祖父江さんは彼を宿泊棟へと案内して、共用スペースの使い方、宿泊棟でのルールなど、説明します。ひととおり説明を受けた男性は、しばらくあてがわれた大部屋にいて、町中にある銭湯に出かけていきました。
次いでやってきたのは、紺色のジャージを着た、けだるそうな青年でした。毛先のほつれた黒い前髪が目元を隠しています。髪の毛と合わせているのか、ジャージの袖も裾も、糸がほつれています。青年は「かえりました」と、ぼんやり言いながら、共用スペースにやってきます。右手にビニール袋を提げていました。
祖父江さんが「おかえりなさい」と笑顔で出迎えます。
先ほどの人間と対応が違ったため、くーちゃんは不思議で、視線だけ向けました。青年とばっちり目が合います。が、青年はさっさと視線を外して、キッチンの冷蔵庫に向かい、ビニール袋の中身を入れていきます。
祖父江さんが言います。
「くーちゃんです。今日からゲストハウスに住むことになりました」
「そう」
青年はため息のように応えます。
「それで、こちらがタロウくん。くーちゃんと同じく、地上に落ちた天使です」
くーちゃんはうまく返事ができませんでした。この気だるそうなのが天使? 手入れされてない髪、病的に白い肌、覇気のない猫背、そのうえジャージって……神聖さのかけらもありません。
タロウくんは、ビニール袋を折りたたみ、冷蔵庫につけられたマグネットの籠(折りたたまれたビニール袋が入っている)に入れて、冷蔵庫からペットボトルのジュースを取り出します。くーちゃんは、テーブルのそばを通りかかったタロウくんに、「よろしく」と言いました。が、タロウくんにはまるで聞こえなかったようで、さっさとリビングを出ていってしまいました。
「あれが天使?」 思わず口に出てしまいます。
「人見知りなんですよ」
祖父江さんは苦笑いを浮かべて、
「でも、悪い子じゃないんです。仲良くしてあげてください」
「わかった」
心の中で「おことわりだ」と吐き捨てました。
この日最後に会ったのが、ナルちゃん、と呼ばれる天使でした。
時計が夜の十時を過ぎたころ(祖父江さんに時計の見方を教えてもらった)。
くーちゃんは眠気にあらがえず、宿泊棟二階の一号室に戻っていました。今日は一日、大変充実した時間を過ごせました。明日以降は二度と同じ一日にならないように、どこにいるとも知れない神様に祈りながら、そろそろ寝ようかと、硬いベッドに腰掛けたときです。
とつぜん、部屋のドアが開け放たれました! 驚きすぎて声が喉の奥に引っ込んでいる間に、入り口に現れた女性がずんずかと部屋にやってきて、くーちゃんを思いきり抱きしめました。くーちゃんは目を白黒させるばかりです。
「はじめまして、マイフレンド! こうして会えたことに、とりあえず神様にだけは感謝します。ありがとう神様。ごきげんよう世界!」
彼女が一言発するたびに、ひどい口臭が漂います。が、においの正体がわかりません。ひとつ息をするたびに、抱きしめられているので鼻も覆えず、くーちゃんの頭がくらくらとします。
「あんた、だれ?」
こんな口臭のキツイ友達を持った覚えがありません。
女性はくーちゃんの肩に手を当てて、よく顔を見ようと、距離を取ります。祖父江さんより頭半分ほど背が低いでしょうか。亜麻色のボブヘアーの下には、長いまつげと、赤く火照った頬があります。そんな頬以上に真っ赤なワンピースを着て、ベージュ色のガウンを羽織っています。
色も見た目も派手な女性は、「はじめまして」と、口元をへろへろと曲げました。
「ナルちゃんです。あなたと同じ、天使です」
頭を抱えたくなりました——両肩を握られていて、それさえできません——地上には、天使らしい天使がいないのでしょうか。
「酔っぱらってるんです」
と、祖父江さんが顔をのぞかせます。
「地上に来て、すっかりお酒にはまっちゃったみたいで。ですが、ちゃんと隣町で仕事をして、人間に尽くしています。大目に見てあげてください」
くーちゃんとしては、すでに看過できない状況になっていました。
汚泥のように汚い水に手を入れ、地べたを這うように掃除をする祖父江さん。
覇気という覇気をどこかに捨ててきたようなタロウくん。
そして、人間の作ったお酒でいい気分になっているナルちゃん。
これ以上、こんなところに居てはいけません。
くーちゃんは改めて、どこにいるとも知れない神様に祈りました。
もう十分むごい仕打ちを受けているのだから、明日の朝こそ、目が覚めたら天界にいられますように、と。
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