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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
くーちゃんにとって、愚かな人間のはびこる地上に落とされたのは、屈辱極まりないことです。
なにがなんでも天界に帰りたい。
そのためには「この世で最も愚かなもの」を見つけなければなりません。
そんなに難しい問いを課されたという自覚はありません。いつか必ず答えが見つかる。しかもそれは、そう遠い未来の話ではない、と思っていました。
だって、この世で愚かなものと言えば、人間しかありません。その人間を、地上で観察していれば、いつか彼らが想像も絶するほどに愚かなことをしでかしてくれるに違いありません。それを大天使様に報告すればいいです。くーちゃんにとっての人間とは、いまだ、いじわる少年が踏みつぶす無数のアリ程度の存在でした。
幸い、このゲストハウスは人間の集まる場所のようなので、くーちゃんの解答探しにはうってつけです。祖父江さんからどんな仕事を言い渡されるのかわかりませんが、愚かな人間と相対することに比べれば、そう難しいことでもないでしょう。
そう思っていたところ、
「嫌なんだけど……」
祖父江さんからのお願いに、さっそくつまずいてしまいました。
くーちゃんはいま、右手に濡れたぞうきんを持っています。それで廊下の拭き掃除をするというのが、祖父江さんからのお願いです。
祖父江さんはすでに、玄関の上がり框を拭き終わって、本館の廊下を拭き始めています。ジーンズの膝が汚れるのも、きれいな手でぞうきんを持つこともいとわず、働き者の人間さながら、床に四つ這いになっています。
祖父江さんが言います。
「さあ、くーちゃんもやりましょう。ひとりで切り盛りするのは大変で、ちょうど、人手がほしいと思っていたんです」
「あたし、天使よ、人手に数えないで」
「人型の天使ですから、人間とそう変わらないでしょう」
祖父江さんはバケツの水でぞうきんを絞り、また廊下を拭いていきます。くーちゃんがバケツを覗き見ます。バケツに張られた水は、廊下の汚れを吸いこんで、汚泥のように黒ずんでいます。祖父江さんは躊躇せず、そのなかに手を突っ込んで、ぞうきんを絞ります。くーちゃんの背筋が粟立ちます。
「天使がすることじゃない。それこそ人間にさせればいいじゃない。二本足で歩くのにもいい加減飽きてるはずだし、地面を這うくらい、なんとも思わないわ」
「お手伝いするって、言いましたよね」
「なんでも手伝うとは言ってない」
そうだ、と、くーちゃんはぞうきんを放って、胸の前で手を組みました。
「ちまちま掃除するなんて時間の無駄。天使の力を使えば、イチコロじゃない」
くーちゃんは「風と水よ」と唱えました。
すると、玄関の扉がひとりでに開いて、冬の冷たい風と、空気中の水分がやってきました。くーちゃんの唱えたとおりに、風と水は廊下の隅々まで吹いていき、あっという間に、フローリングがぴかぴかになります。くーちゃんは得意げに鼻を鳴らしました。
祖父江さんがうれしそうに手を叩きます。
「でも、いいんですか? そんなことに力を使って。地上で力を使うには、限度があるのに」
どういうこと……? と聞きかけて、思い出します——大天使様から送られた綿雲の用紙——たしか『地上には、天界の気配がない』とかなんとか、書いてあったような。
祖父江さんはぞうきんを絞りつつ、
「天使の身ひとつで、超常的な現象を起こすには、限度があるんです。天界にはパワフルな気配があって、それが天使の養分——天使らしくあるための素、と言いましょうか——になっていました。ですが、地上にそんな気配はありません。力を使えば使うほど、溜まっていた養分が出ていってしまいます」
大天使様の忠告の意味が、やっとわかりました。そんな大事な忠告を伝えそびれるなんて、大天使様にも抜けているところがあるようです。そんなひとが天界で唯一、仕事をしているというのですから、天界とはもしかして、くーちゃんが思っている以上に、いい加減なところなのかもしれません。
とにもかくにも、いまのくーちゃんにとって大事なのは、天界の今後の運営方針ではなく、自分の今後の身の振り方でした。
「……何回?」
くーちゃんは声を震わせてたずねます。
「地上で天使の力を使うとして、何回くらい使えるの?」
「五回です」
祖父江さんは、はっきり答えました。
「あなたのように、落とされた天使は、例外なく、五回が限度です」
くーちゃんは無意識に、残りの使用回数を数えます。昨日の夜、光の球を呼び出すのに一回。たったいま、廊下を掃除するのに一回——五本指のうち二本を折れば、いったい何本が残るか——あえて聞かなくてもわかります。
祖父江さんが諭すように言います。
「よほどのことがない限り、天使の力を使ってはいけません。力を使い切ったからと言って、天使でなくなることはありませんが、これまでのようにはいかないと思っておいてください」
「どういう意味?」
くーちゃんはおずおずと祖父江さんを見上げます。こんなときになって、くーちゃんはやっと、祖父江さんが自分より頭二つ分大きく、自分から見上げないことには、祖父江さんの顔も見えないことに気づきました。
祖父江さんは言います。
「力を使わず、生活すればいいだけです。そうすれば、力を使い切ってどうなるかなんて、考えなくていいでしょう?」
祖父江さんは床に放られたぞうきんを拾いました。
「さあ、まだ始まったばかりですよ。掃除とは、天界のように隅々まで、真っさらに、が基本です」
くーちゃんは、黙って、ぞうきんを受け取りました。
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