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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
湖面に映っていた町並みといい、ここまで歩いてきた景色といい、幼い天使が落とされたのは、かなりの田舎町のようです。
石畳の道を抜けるとすぐ、古びたコンクリートの道に変わりました。道の左側には大きな川があります。月もなく、星もなく、闇そのものが流れているように見えます。道の右側には鬱蒼とした森が広がっています。どんなに目を凝らしても、深い闇の向こうは見えません。
マフラーと手袋を抱きしめ、街灯のぼやけた明かりを頼りに、幼い天使は歩き続けました。
やがて上り坂に差し掛かり、その頂上に、目的地を見つけました。
上り坂の頂上に、立派なお屋敷が建っています。お屋敷の右隣には、中庭のようなスペースを挟んで、奥行きの細い建物も見えます。石作りの門柱には表札があります——「ゲストハウス星山」——間違いありません。
まるでタイミングを見計らっていたかのように、お屋敷の玄関が開きました。
「いらっしゃい」
ほんわかとした印象の女性が出てきます。ミルク色の毛糸で編まれたタートルネック、子猫の絵が描かれたエプロン、その下に裾の長いジーンズを穿いています。やわらかい声音に引っ張られるように、幼い天使は玄関に向かいました。
女性の声は穏やかです。
「大天使様から話は聞いています。あなたが例の問題児ですね」
ぱっと見、ただの人間にしか見えません。が、幼い天使には、彼女こそ大天使様の言っていた「友」だとわかりました。つまり、彼女も天使なのです。しかしどうして、彼女は天使の衣——幼い天使や他の天使たちが着ているような白い衣——を着ていないのでしょう?
天使の女性は、幼い天使からマフラーと手袋を預かって(預かるとき、とても不思議そうな顔をしていました)、お屋敷に招き入れました。
幼い天使が通されたのは、大きなリビングでした。ダイニングやキッチンと繋がっている壁がないので、ひとつの大きな部屋に見えます。天井は吹き抜けになっていて、太い梁の根元まではっきり見えます。どこかで空調が動いているらしく、かすかな機械音が響いていました。
女性の案内で、リビング中央にある、ブナ材のテーブルに着きます。ごつごつとした見た目のとおり、人差し指で触ってみると、硬い感触が返ってきます。木造の内装に合わせるように、その他の調度品——棚や時計など——そのほとんどが木製でした。
女性は温かい飲み物を用意して、幼い天使に差し出しました。飲み物を間近に見るのもはじめてです。小さなカップからふわふわと立ち上る湯気さえ珍しい。
飼い始めの猫のように、幼い天使は部屋じゅうを見回します。
女性は愛らしく笑って、
「ひとまず自己紹介をしましょう。わたしはソフィー。地上では、祖父江で通しています。今後、わたしのことは、祖父江さん、と呼んでください」
幼い天使がとまどっていると、祖父江さんはきちんと説明してくれました。
「天界には、お互いに名前をつける習慣なんてありません。ですが地上には、ほとんどのものに名前があって、人間は互いにそれを呼びあっています。名前がないのなんて、生まれる前の赤ちゃんくらいです。なので、あなたにはまず、自分の名前を決めてもらわないといけません」
幼い天使は渋い顔をします。
名前をつけるというのは、人間の習慣です。愚かな人間と同じように、自分が名前で呼ばれるところを想像しただけで、口の中に苦いものが広がります。
その気持ちを、祖父江さんはしっかり見抜いていました。
「あなたはいま、罰として地上に来ています。人間の世界で暮らすんですから、人間の習慣に合わせることが必要です。違いますか?」
「……ちがわない」
「聞き分けのいい子は大好きです」
祖父江さんがにっこり笑います。なんだか聖母を前にしているようです。祖父江さんが微笑むだけで、こちらまでうれしくなってしまいます。
「さあ、さっそく名前をつけましょう。何か希望がありますか?」
「考えたことないから、わかんない……」
「じゃあ、わたしが名づけ親になってもいいですか? 他の天使にも、なんだかんだ、わたしが名前をつけてきましたし」
幼い天使はうなずき、期待を込めて待ちます。
やがて、「決めた!」と祖父江さんが手を叩きました。
「くーちゃん。あなたは今日から、くーちゃんです」
くーちゃん……なんてきれいな響きでしょう。自分でも、くーちゃんと呼んでみます。人間の真似事をするのは、いささか不名誉なことだと思いつつ、その名前は気に入りました。
幼い天使、もとい、くーちゃんが言います。
「あの、よかったら……よろしければ、由来を聞いてもいいですか」
「もちろん」
くーちゃんは目を輝かせながら、祖父江さんの言葉を待ちます。
祖父江さんは笑顔で言いました。
「クソ生意気な天使という意味で、くーちゃんです♪」
リビングが凍りつきました。ああいえ、凍りついたのはくーちゃんの周りの空気だけです。くーちゃんは笑顔のまま固まっていました。
「かわいいでしょ?」
と、祖父江さんはうれしそうです。
くーちゃんは物も言えませんでした。ちょうど、今日の夕飯はハンバーグだとおかあさんから聞いていたのに、うきうき顔で学校から帰ったら、テーブルに卵かけごはんしかなかったときのようながっかり感——もちろん、くーちゃんはハンバーグも卵かけごはんも食べたことがありません——天使はお腹が空かないのです。
それから、祖父江さんがゲストハウスを案内して回ります。
お屋敷のような本館には、最初に通された玄関のほか、リビングとダイニングとキッチンがつながった部屋(祖父江さんは「共用スペース」と言っていた)、浴室、トイレ、洗濯場があります。部屋がたくさんあって覚えきれない、ということはありません。
「ゲストハウスという言葉を聞いたことがありますか?」
くーちゃんはかぶりを振りました。
「人間の貨幣価値に合わせて、格安で寝泊まりできるようにした宿泊施設のことです。ホテルとの違いは、部屋数が少ないことや、食事やアメニティを提供していないこと……他にもいろいろとあるんですが、ゲストハウスそれぞれでルールが違うので、一概にこういうもの、と断じることができません」
祖父江さんは、廊下のつきあたりを右に曲がり、渡り廊下を進みます。中庭との境界はガラス戸で仕切られていました。本館から漏れる明かりで、中庭に舞う粉雪が白く光っています。くーちゃんは祖父江さんの背中を追って、本館の右隣にある、細長い建物——宿泊棟に向かいました。
「ここもゲストハウスのひとつですから、利用するのは、主に旅行客や宿泊客です。一名だけ、ほとんど住人のように住み込んでいる利用者さんもいますけど」
「泊まる場所なのに、住んでいいの?」
「そういうおおらかなところも、ゲストハウスのいいところです」
いい加減の間違いじゃないか、と、くーちゃんは思いました。
「利用者のみなさんからは、宿泊費という形で、お金をもらっています。わたしたち天使は、基本的に、食事もお風呂も必要ないので、お金自体いらないのですけど……人間の世界で暮らしている以上、経済のルールには従っておいたほうがいいと思いまして」
宿泊棟の一階には、宿泊部屋が三部屋ありました。本館側から、一号室、二号室、三号室——一号室と二号室が大部屋で、三号室が個室です——どの部屋も、ふすまの向こうに人気はありませんでした。
続いて、二階に向かいます。二階には個室が三部屋です。
祖父江さんは、階段の一番近くにあるドアを開け、壁際のスイッチを押しました。安っぽい明かりが点きます。建物全体は和風な装いですが、内装まで和風というわけではないようです。八畳ほどの床は檜色のフローリングになっていて、左右の壁は淡い白色の壁材が塗ってあります。ベッド、書き物机、ハンガーラック。調度品のいくつかはすでに備えられていました。
祖父江さんは、預かっていたマフラーと手袋をハンガーラックにかけました。
「今日から、ここがくーちゃんの部屋です。きれいに使うなら、調度品を増やしてもかまいません」
人生ではじめて、自分の部屋をあてがわれました。これが年少の子どもなら、いますぐベッドに飛び込んで、喜びの限りを表現したかもしれません。ですが、部屋をあてがわれたのは、くーちゃん……天使です。天界にいれば、白い空間のどこででも眠れました。それに、天界に「個々人の境界」なんて概念はありません。言うなれば、天界そのもの——どこまで続いているかわからないくらい、白く明るいだけの空間のすべて——が、くーちゃんの居場所でした。それが、地上に落とされ、暗い夜道を歩かされたうえに、こんなちっぽけな部屋に仕切られるなんて……
くーちゃんは思いました。
もう、天使として十分な罰が与えられただろう、と。
「……帰りたい」
小さくこぼした声は、もちろん、大天使様には届きません。しかし、祖父江さんには、ちゃんと届いていました。祖父江さんは困ったような笑顔を浮かべて、
「今日はもう、寝てしまいなさい。ゲストハウスの使い方や、他にもいろいろ、明日説明します。一度眠って、落ち着いて、それからまた話しましょう」
祖父江さんの足音が遠ざかると、くーちゃんは鼻をすすって、ベッドに倒れこみました。部屋の明かりが安ければ、ベッドの質も安っぽい。硬いベッドに文句のひとつでも言ってやろうかと思いましたが、身体が言うことを聞きません。気づけば目をつむっていて、気づけば意識が途絶えていました。いつもの活動時間——十六時間を、とっくに過ぎていました。
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