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<注意>第37回小説すばる新人賞 落選作品 を改稿したものです
夜になっても、くーちゃんの心は晴れません。
これだ、と思った答えを口にしても、やはり不正解……くーちゃんは力なく、硬いテーブルの上に伏せていました。
そのうち、祖父江さんが買い物から帰ってきて、今日はどうだった、と聞きました。
くーちゃんは答える気が起きず、黙ったままです。
祖父江さんはどう受け取ったのでしょう、くーちゃんをそっとしておいて、買ってきた日用品を物置にしまいに行きました。しばらくしてリビングに戻ってきます。祖父江さんはくーちゃんの前に、一枚のチケットを置きました。
「なにこれ」
「町中に銭湯があるんです。今日、買い物に行ったら、たまたま銀竜料理店の奥さんと会って、無料チケットをもらったんです。セナくんがお世話になってます、って」
「そのチケットで、どうしろと?」
「決まってます」
祖父江さんは片手に湯桶とタオルを引っ提げていました。ワンセットではなく、ツーセット……
「さあ、行きましょう」
と、祖父江さんは優しく、くーちゃんの手を握りました。
祖父江さんは、日用品だけでなく、くーちゃんの私服も買っていたようです。白いニットに、紺色のロングスカート、その下には黒いタイツと、白黒のスニーカー……人間の作ったものを着るなんて、と思いましたが、ナルちゃんのジャケットや、セナのマフラーを着けている時点で、いまさらでしょう。くーちゃんは祖父江さんが買ってくれた服を一式、身に着けて、銭湯に向かいました。
銭湯は、石畳の通りの中ほどにありました。ゲストハウスの利用者にも、ここを利用するひとは大勢います。くーちゃんも、銭湯の存在は知っていましたが、湯船につかろうという意思がこれっぽっちもなかったため、館内がどうなっているのか、想像することもありませんでした。
夜の六時過ぎ。
日曜日ということもあり、銭湯は老若男女、人間がごった返していました。
祖父江さんもくーちゃんも、大まかな外見が女性ということで、女風呂に向かいました。くーちゃんは祖父江さんを真似て、服を脱ぎ、後を追います。
浴場は蒸気で曇っていました。石タイルの床。檜の壁。浴槽は四つあり、白湯、薬湯、ジェット風呂、水風呂と、好きなものに入れるようです。祖父江さんは、入り口のぬるま湯を桶ですくい、身体を流してから、白湯に向かいます。くーちゃんもぬるま湯をかけて、祖父江さんの隣に座りました。
「気持ちいいでしょう?」
祖父江さんの言うとおり、温かいお湯に浸かるのは、全身がとろけそうなほど気持ちよくありました。暑さ寒さを感じるようになった身体にとって、温かい湯船は極楽そのものです。
ふと、自分が人間と同じように、温かい湯船をありがたがっているのに気づいてしまいました。
「もう出る」
と腰を浮かしかけましたが、祖父江さんに肩をつかまれて、出るに出られなくなってしまいます。観念して、くーちゃんはまた、湯船に腰を下ろします。
祖父江さんがたずねます。
「天界に帰る目途はつきましたか?」
「いや……そんな話をするために連れ出したの?」
「人間の世界には、裸の付き合い、というのがあるそうです。こういう場の方が、話しやすいこともあるのでしょう」
くーちゃんはあざけるように鼻を鳴らします。
「人間って、ほんと愚かね。話したいことも、面と向かって話せないなんて」
「くーちゃんも、似たようなものじゃないですか」
「あたしが?」
「あのままテーブルに突っ伏して、すっきりした気分になったと思いますか?」
そんなの当然、と言いかけて、声が出ませんでした。と同時に、人間に嫉妬を向けられた程度のことで、こうもいら立っている自分がいることに気がついて、なんだか情けなくなります。
祖父江さんが繰り返します。
「天界には帰れそうですか?」
「さあ……もう戻れないんじゃない? 大天使様もそのつもりなんでしょ」
タロウくんが言ったことを思い出します——監視役——もしかしたら、祖父江さんは本当に、くーちゃんたちを見張るために、あのゲストハウスを切り盛りしているのかもしれません。こうしてくーちゃんを連れ出したのも、その一環……くーちゃんたちの素行を、大天使様に報告する気でいるのかもしれません。だとしたら、これまでの行動を悪く伝えられるのは避けたい。でも、どうせ天界に帰れないのなら、猫をかぶる必要もないように思います。
くーちゃんが言います。
「大天使様は、いじわるがしたくて、こんなことしてるんでしょ。あたしがこれまで、人間にいたずらをしてきたのをこらしめるために、あたしにいじわるをするつもりで、地上に落とした。だから、天界に帰すなんて、嘘よ。あたしはもう、このまま、地上で暮らすしかない……」
言いながら、なんだか悲しくなりました。湯船で体は温まっているのに、冬の冷気が胸の真ん中に残り続けているみたいです。くーちゃんは膝を抱えて、湯船で身体を隠すように、頭まで浸かります。そのうち息が続かなくなって、湯船から飛び出します——天界の湖に落とされたときは、息苦しいなんて感じませんでした——もしかしたらこれも、天使の力を使った影響でしょうか。
ここまでくれば、天使の力を使うことのペナルティがどういうことなのか、想像がつきます。天使の力を使い、天使らしさが抜けていくにつれ、身体の感覚や能力が、人間に近づいていくようです。それは、タロウくんやナルちゃんの様子を見ても明らかでした。
もし、残りの二回を使ったら、どうなるのでしょう……天界で見下ろしたことのある、あの人間の男のように、暑い暑いと言いながら、汗をかくようになるのでしょうか。汗をかいて、祖父江さんからもらった服を汚すことになるのでしょうか。そうなったら、もはや、そこにいるのは天使ではありません。ただの、ふつうの、人間の女の子になってしまう……あの、嫉妬深いソラと同じ、人間の女の子に……
「帰れますよ」
暗く沈みかけた意識が、祖父江さんの声で呼び戻されます。顔を上げると、祖父江さんの優しい微笑みがありました。
「ちゃんと答えを見つければ、天界に帰れます」
「嘘つき」
くーちゃんは毒づきます。
「祖父江さんは、あたしたちを監視してるんでしょ。あたしたちがちゃんと、地上に縛られてるのを、大天使様に報告するために」
「いいえ、わたしがゲストハウスにいるのは、単に地上を観察するためです。大天使様に命じられたわけではなく、わたしの意思と興味でもって、あのゲストハウスを経営しています。大天使様は、そんなわたしのやることに、乗っかっているだけです」
「……ほんとに?」
祖父江さんがうなずきます。
「わたしは地上や人間に興味がありますけど、大天使様はそれに興味がありません。それよりも、大天使様にはいくつも仕事があって、そっちに掛かり切りです。わたしがあれこれ大天使様に報告したとして、あのひとはいちいち、その報告を読んだりしません」
祖父江さんは白湯に飽きたらしく、備え付けのベンチに座りました。
くーちゃんも、後を追って、隣に腰掛けます。ちょうど、空調が真上にあって、熱くなった身体が程よく冷めていきます。
「わたしが地上に来て、もう千二百七十年ほど経ちます。その間に、地上ではいろんなことが起こりました。戦争があったり、環境が変わったり……それらのほとんどに、人間という生き物が関与していました。だから、わたしは人間に興味を持ちました。人間たちの行く末を見てみたくなったんです」
ちょうど、くーちゃんの脇を、幼い女の子が駆けていきました。その後をおかあさんらしき女性が追いかけます。走ったのを注意されて、楽しくなかったのでしょう、女の子は湯船に口元まで浸けて、むすっとしています。
祖父江さんが言います。
「地上を転々としました。似ている街もあれば、なにもかも異なる街もある。人間の文化が違えば、そこに生まれる街の雰囲気も変わる。人間は面白い生き物だと思います。ゲストハウスを始めたのも、格安で人間を泊めるようにすれば、人間を間近で観察できると思ったからです。空き家があればいくらでも再利用できますし」
「じゃあ、もう千年以上、あのゲストハウスにいるの?」
「いいえ、ゲストハウス星山を拠点にしたのは、四十年前です。そろそろ別の場所に移動しようか、とも思っています」
ということは……
「あたしたちも、祖父江さんについていくことになるの?」
「たぶん、そうはなりません」
祖父江さんは、昔を懐かしむように、遠い目をしました。
「これまで、いろんな天使が、わたしの切り盛りするゲストハウスにやってきました。大天使様の怒りを買って地上に落とされた、かわいそうな子ばかり……ですが、最初こそ、地上の生活を嘆いていても、みんな最終的には、ちゃんと答えを見つけて、天界に帰っていきました。くーちゃんも、そう遠くないうちに、天界に帰れますよ」
祖父江さんは、普段にない話を、くーちゃんに聞かせました。そうさせるのも、銭湯という場所の影響でしょうか。裸の付き合い、というのも、バカにできません。
祖父江さんが言います。
「思うままに生活してください。思うままに生活して、考えることを諦めなければ……そのうち、くーちゃんが地上に来てから現在までの間に、そこらじゅうに答えが散らばっていたことに、気づくはずです」
「そうなの?」
「ええ、ですが、それは自分で見つけてください。誰かの言葉を、盲目的にうのみにするのではなく、自分で感じたものを、そのまま答えにしてください……あと、利用者の方には、親切に対応してください。前にも話したように、お金は大事ですので」
くーちゃんは短くうなずきます。
祖父江さんは「ありがとうございます」と立ち上がり、今度は薬湯に向かいました。
くーちゃんも薬湯に向かいましたが、湯船の上に白い垢がいくつも浮いているのを見て、踵を返しました。白湯に浸かりながら、これからのことや、これまでのことを思っていると、いつの間にか、祖父江さんの姿がなくなっていました。合わせて帰ろうか、とも思いましたが、もう少しだけ、気持ちのいいお湯に浸かっていることにしました。くーちゃんが湯船を出たのは、閉館間際のことでした。
くーちゃんはそれ以来、銭湯に通うのが日課になりました。祖父江さんは快くお金を貸してくれます。それでやっと、ヒバリからもらった三十円では、銭湯にすら入れないと気づいたのです。
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