1.プロローグ
9区の裏路地。陽気な雰囲気の漂うすがすがしい活気にあふれたこの街は、かつては音楽の路地などと呼ばれていた。もっとも今では、その評判もすっかり嫌味となってしまっている。哀切と惨憺の墨を黒々と垂らしこんだあの日から、この街には悲劇の窪みがぽっかりとできてしまっている。ちょうどこのあたりの空間全体が、おかしな形でよじれてしまったようだった。
こんな噂話にさえ耳を傾けるような情報通の人たちに語るのは最早くどいまであるが、あの奇妙な伴奏が起こって以来、僕の周りではどうにも奇妙な現象に立ち会ったフィクサーが多いようだった。側から見れば子供の絵空事としか受け止められないような奇妙な現象や狂人の白昼夢にしか出てこないような不思議な怪物が今日も裏路地を跋扈しているらしい。これはそんな肥え続ける異常に右往左往する二人の少年の物語である──
と、学のない割に必死に考え込んだ数十字の文字列を嘲笑うように軽快に時報を告げるベルが鳴り響いた。それと同時に後方から怒号が響き渡る。それが何なのかあまりよく聞き取れなかった、というより聞く気になれず、正直僕にとってもどうでもいい話だったのでガラス戸をわざとらしく妬みを込めて閉じてやることにした。それはきっと、契約の糸がおおげさに裂ける音である。もっとも僕にとって一番腹立たしいのは、これより栄華を誇ることになるであろう僕の物語がこんな風な状況から始まることだった。
「あ〜あ、折角の依頼だったのに。
こっちはローンに払う金すら満足に払えねえってのに、足元見やがって。」
寒さのせいか、封筒の中で縮こまっている札束とかつての皮算用とで神経衰弱を繰り広げながら、思わずそう声を漏らしてしまう。ふと気分直しに空を見上げてみるととびっきりに憂鬱な暗雲が立ち込めていたので、空とそっくりの色をした石畳の道と睨み合いをすることにした。やはりといったところかどう顔を動かそうにも、ちんちくりんな封筒からわずかに見える薄い眼の札束を視界の中心から逸らすことは難しいようだった。
「そんなにぐちぐち言わなくたっていいだろ。少し思い違いがあって、それで少し報酬が減っただけ。仕方のないことじゃないか。」
同僚のイェジュンは少しきまずい様子ではにかんだ。場を紛らわせる為の仄やかな笑みだった。いつもの彼の癖は、僕の狭量な心をさかしまに締め上げるのにぴったりだった。
「人が良すぎるだろ。こっちは武器のメンテナンスにも一苦労するくらいにはカツカツ、いっつも腹の虫が鳴って…」
「あぁ、最近いつにも増してご飯が質素だと思ったらそういう…」
彼はなんだか、車に轢かれて死にそうな鳥でも見つめるような目で僕を見つめてきた。僕の舌は上質な脂を欲しているのか、何としてでも依頼を捜すようその勢いに乗って彼を説得したがった。
「お前だって嫌だろ!?毎日生ゴミみたいな臭いのする食料で腹を満たすなんて!
それどころかこんな金じゃ今月まともに生きてくだけでも苦労しそうだぜ!?始まってまだ11日しか経ってないのに!」
「わかったって。吠えるのはやめよう、みっともないから。」
彼は幼子を宥めるように大袈裟な手振りで僕を説得し始めた。眼前に立ちはだかる彼の両手は目でも付けたように外面を気にし始めていた。
「イェジュン…お前みたいに翼から帰りたてのお坊ちゃんには判らないだろうけど…
こんな底辺事務所に来る依頼なんて選ばなくても月にいっぺんあるかどうかなんだぜ…」
僕の傲慢はゆっくりと影に溶け込んだかと思えば、つぶさに表情を象り始めた。その顔はきっと見るに耐えない奇妙な物であろう。
イェジュンは僕のささやかな挑発には目も触れず、少し難しい顔をした後に口を開いた。
「まあ、知り合いを頼れば依頼がない事もない…と思う。事務所に戻って少し訊いてみよう。」
僕はと言えば、彼の先刻の表情に驚いたばかりで、その魅力的な提案さえ話半分に聞いてしまっていた。脳に焼き入れたばかりの彼のポートレートは何とも不気味な様子をしたためていたのだ。この説明をする為には、イェジュンの事を少しばかり知ってもらう必要があるだろう。
幼少の頃同じ裏路地で育った僕たちは無二の親友だった。彼は深い思考力に呪われたような男で、僕たちに降りかかってきた災難をその聡明な頭脳を駆使して救ってくれた、正直言って僕とは住む世界が違う人間だ。その才能を買われたのか、今は折れてしまったL社にスカウトされ、どこかの支部で働いていた。
先ほど呪われていると表現したように、彼は何かにつけて色々と物を考えてしまう癖がある。
物を考える時、下を向きながらいつも顎の底辺りを左手で撫でるという動作がつきものだった。
けれども今日だけは人が変わったみたいに、少なくとも僕が見たことのない動きをしていた。曇天だというのに、やけに恍惚とした表情で空を仰いで、笑みが溢れているのを人に見せないように口を手で覆っている。
その口が微かに動いているのが見えたが、
一人言の内容を悟られないようにするためか頬に爪を食い込ませてまで口元を隠していた。
彼方を見つめるその表情はおおよそ、人が浮かべていいものではなかった。エンケファリンの中毒患者のような、安らぎの彼方にようやく現れるであろう深いとろんとしたような眼は、正常な人間に浮かべることのできる貌ではなかった。僕はそのおかしな目に見覚えがある。それは薬指の、それなりに支持を集めていたらしい男だった。
「ヴァレリス」
僕をたしなめる声が横から聞こえた。
呆れたような顔でイェジュンがこちらを見ていた。
「どうしたんだよ。ほら、事務所に戻るぞ。」
そう言うと彼はすたすたと事務所の方へ足早に帰ってしまった。幸い事務所も9区にあるので道に迷うこともないだろうから、僕は少しだけ多く考え事をするのに体力を割こうとした。
僕の所属している事務所である鉄事務所は、最近イェジュンと建てたばかりの新参事務所だ。色々あって彼と飲んだ時に、世間話で盛り上がった勢いそのままに建てた適当な事務所だった。その為、彼がL社でどんな日々を過ごしていたのか少し気になっている。黒昼•白夜の件が何だったのか、とかそういうことを聞きたいのではなくて、単純に彼がどういう生活をしていたのかが気になっているだけだ。
というのも、今の彼には違和感を感じることがある。見たことのないおかしな癖をするし、前はもっとハツラツとしていたのに今はあまり生気を感じられず、何だか少し達観している雰囲気がある。彼がどうしてそうなったのか、一人の友人として単にそれが気になっているのだ。
けれども僕の頭はあまり学者には向いてないらしい、事務所に着くまでに大した進捗はなかった。
とにかく僕たちの物語は、この小さな結び目の、ほつれのような瓦解から始まることになるのだ。もっともここでこの話を聞いている人がいるのなら忠告しておきたいのは、この話は僕にとっては随分な大事件だが、都市にはありふれた戯作のような出来事のひとつでしかないし、酒の力でも借りないと面白く仕上がらないだろうことだ。