記憶
「あっ、おばちゃん、そのリンゴもくれ」
「あいよ。これはどうだい?精が付くよ」
「これがかい?泥だらけの塊が?」
「病人なんだろう?それならこれが良いよ」
「うげっ、そうかよ。でもなぁ~」
サードは村の中でも人通りの多い小さな露店で食料を買っていた。勧められたものがとても良い物だとは思えず顔をしかめていると横から店主に同調する声がした。
「病人なら本当にこれが良いですよ。洗って皮を剥いて摩り下ろすでしょう。粘々しますけれどするって喉を通るので食べ易いですよ。あっ、でも皮を剥くとき気をつけて下さいね。粘るから手を滑らせるので」
横から口を挟んで来た娘にサードは驚き手に持っていた全ての物を落としてしまった。
「ク、クレア!」
「え?」
買い物籠を下げ横に立っていたのは狂ったように探し続けたクレアだったのだ。
「クレア!クレア、探したんだぞ!ああ、良かった!良かった!クレア!」
サードは大声を上げてクレアに抱きついた。しかしいきなり抱きつかれた娘は驚き、もがいてその腕の中から逃れた。
「な、何ですか?いきなり!」
「はぁ?何言ってんだ、クレア?」
「私は確かにクレアですけれど・・・私はあなたの事知りません。人違いじゃないですか?」
娘は怪訝な顔をして迷惑そうに言った。
「ちょっ、ちょっと待て!オレだよ、サードだよ。知らないって冗談だよな?」
「知りません」
「ああ、もういい!とにかく帰ろう!」
サードは娘の手を掴んだ。
「嫌、何するの!離して!」
「クレア――っ、どこにいるの?」
通りの向こうから彼女を呼ぶ声がした。
「母さん、ここよ!助けて!」
「母さんだって?そんな馬鹿な」
クレアの母親は彼女が幼い頃に亡くなっている。戸惑うサードに、すっと横に近付いて来た男がいた。
「サード殿、騒ぎが大きくなりますからここは一先ずお引き下さい」
「あんたは・・・分かった」
サードは頷き、素早くその男と姿を消した。他人の言う事を滅多に聞かないサードが大人しく従った男は銀の龍イザヤの片腕と言われるジスカだった。のんびりとした風貌でとてもやり手とは思えない感じの男だが、情報を統べるイザヤの目と耳とまで言われるジスカに流石のサードも一目置いていた。詳細はレンに告げるとのことで彼らは急ぎレンの下へと向った。
「レン様、お久し振りでございます」
「ジスカ?貴方がどうしてこんな所に?もしかして貴方もクレアを探してくれているのですか?」
「はい、もちろんでございます。銀の龍よりクレア殿の捜索は最優先と命が下っております。そして朗報をお持ち致しました」
ぼんやりと受け答えしていたレンが、さっと顔色を変えてジスカを見た。
「朗報?」
「居たんだぜ!クレアが!」
サードが堪らず言った。
「何処に!何処です、サード!」
レンはサードに掴みかかった。
「あっちのな――」
「お待ち下さい!レン様、サード殿!」
ジスカが二人に間に割って入って来た。
「私の話を聞いて下さい。丁度調べが終ったばかりでまだこれは銀の龍にも報告しておりません。しかしサード殿が会われてしまったのでお話させて頂きます。あの娘さんはクレア殿であってクレア殿ではございません」
「どういうことですか?ジスカ」
「私はクレア殿を知っていましたから偶然、あの村で見かけ驚きました。しかも彼女には今、母親がおり普通に生活しているのです。初めは他人の空似かとも思いましたが余りにも似すぎているので調べました。親子は村から村へと渡り歩く薬の行商人のようで一つの場所には留まっておりません。その親子を遡って調べると確かにクレアと言う娘がおりまして何年も前からそういう生活をしているようでした」
「えっ、じゃあ、あれは別人?」
サードは信じられないと言うような顔をした。あのクレアが別人とは思えないのだ。だがジスカは首を振った。
「その娘は数週間前、婚礼に向う途中で事故にあって亡くなっているようなのです」
「死んでいる?じゃあ、やっぱり・・・」
「はい、クレア殿に間違いは無いのでしょうが・・・本人はそう思っておりません。もちろん母親も彼女を本当の娘だと言っています。推測ですが――」
「記憶を無くしていたクレアに自分の娘と思い込ませている?」
レンはジスカが言おうとした言葉を代わりに答えた。
「はい。たぶんクレア殿は次元回廊の事故から奇跡的に助かったもののその衝撃で記憶を無くしたのかもしれません。そうで無ければ辻褄が合わないのです。そこへ自分が母親だと言って現れた―――調査によれば事故で娘を亡くした母親の嘆きは尋常じゃ無かったとあります。クレア殿は花嫁姿だったのでしょう?彼女を死んだ娘が蘇ったと思い込んでも不思議ではございません。名前も偶然同じですし、そういう事例は良く耳にします」
「なんだ!それならさっさと連れ戻しに行こうぜ!なあ、レン!レン?」
しかしレンは眉を寄せて考え込んでいた。
「―――サード、それは出来ません」
「何でだよ!」
「・・・忘れたのですか?彼女は一度記憶を無くしているのですよ」
「あいつのんびり屋だからな。また思い出すのが遅くなりました、って言うに決まっているさ。だから早く連れ――」
「サード!あれは本当に有り得ない奇跡だったのですよ・・・また何時か記憶を無くすかもしれないと言う不安は、ずっとありました。人の神経はそんな簡単なものじゃない・・・彼女は特に作り直したばかりで脆いのです。自然に思い出すのなら未だしもいきなり違う事を横でごちゃごちゃ言われて錯乱してしまったら取り返しがつかなくなってしまう・・・」
「そ、それって・・・気が狂うってことか?」
「十分考えられます・・・そうなったら治療は難しい」
「じゃあ、どうするんだよ!」
「ジスカ、腰に下げているものを貸して下さい」
レンはジスカが護身用で下げていた小振りな剣を指差した。それを受け取ったレンは自分の長く束ねた髪を掴むとその根元から切り取ってしまった。
「なっ、なっ!レン!何するんだ!」
驚くサードの目の前で艶やかな真っ直ぐな髪が渦を巻いて地面に落ちた。
「ありがとう、ジスカ」
レンは剣をジスカに返し、軽くなった頭を軽く振ると長さを失った髪は肩先で揺れた。
「気、気でも狂ったのか!レン!」
「狂った?まさかでしょう?正気ですよ。いきなり行って私は翠の龍レンです。貴女の婚約者ですよ。と何も知らないクレアに名乗れる訳無いでしょう?驚かせるだけですからね。だから私は先ずごく普通の医師として彼女に近付きます」
地の龍の頂点に立つ翠の龍レンは背中に優雅に流れる美しい黒髪が特に印象的だ。そんな外見を出来るだけ目立たせたく無かった。髪を切ったぐらいでレンの際立つ容姿を誤魔化せる訳でも無いがやらないより良いだろう。
「レン・・・それでいいのか?」
サードは心配そうに言った。
「サード、私はクレアを助けたあの日に覚悟を決めていました。それは貴方も知っているでしょう?本当はあの時から全て無くしていた筈なのですからね。それが今になったと言うだけです―――彼女をもう一度振り向かせてみせます」
「レン様、村長の娘が重い病で州公に地の龍の医師の派遣を要請しているようです。一時間程お時間を頂ければ全て手配させて頂きますが?」
「流石ですね、ジスカ。任せます」
レンは久し振りに微笑んでジスカを見送った。今にも散りそうな花の風情だったレンが鮮やかに咲く大輪の花のように蘇ったようだった。
「こうでなくっちゃな!」
「何か言いましたか?サード?」
「いいや。早くクレアに会いたいだろうなって思ったんだよ。それにあいつがいないと全然冴えないからなレンはさ!」
「反論できませんね。その通りですから。サード、貴方もその目立つ髪どうかしないさい。彼女に接触したのでしょう?不審がっているでしょうから分からないようにしなさい」
「え?オレも連れて行ってくれるのか?」
サードは驚いた。自分は留守番かと思っていたのだ。
「当たり前でしょう?貴方は私の宝珠なのですから連れて行くのは当然です」
「や、やったぁ――っ!」
子供のように浮かれるサードにレンは冷たい視線を送ったが口元は仕方なさそうに微笑んでいた。
泥だらけの花嫁衣裳を着たクレアはどうしたら良いか辺りを見渡していると、激しい頭痛が襲って来た。そして意識が遠のくのを感じた。そして次に目覚めると懐かしい薬草の香りに包まれていたのだ。
(えっと・・・ここは?)
「クレア、目が覚めたの?」
心配そうに覗き込んでいる年配の女性が話しかけて来た。
「あの・・・あなたは?」
「どうしたの?クレア?母さんの顔を忘れたの?酷い目にあって記憶が混乱していのね。さあ、薬を飲んでゆっくりお休みなさい。直ぐに思い出すわよ」
(母さん?私の?)
クレアは薬を飲まされまた瞼が重くなった。意識が朦朧として来る。何度か起きる度に色々な思い出話を聞かされてまた眠って・・・それが話しだけなのか今までの記憶なのか定かで無くなって来た。その間、もっと深く考えようとすると頭が痛くなりそれを和らげる薬を飲む毎日を過ごしたのだった。何か忘れているような気持ちがするがそれは事故の後遺症だと母親は言うのだ。結婚式の最中に次元回廊の事故にあったらしい。その相手は死んだと言う話だがどうしてもその好きだった筈の相手を思い出せなかった。つらいからだよと母親は言うのだが・・・無理に思い出したらいけないとも・・・
クレアは不審には思わなかった。色々な記憶が曖昧でも薬草の知識があったようで直ぐに思い出した。記憶に無くても母親を手伝っていた証拠だろう。そう思ったら何となくそんな気がして来た。
しかしクレアは、じっと手を見つめた。今日、変な男にその手を掴まれたのを思い出していた。真っ赤な髪をした印象的な男だった。
(私を知っているみたいだったけど・・・あれだけ強烈な容姿なら覚えている筈よね・・・私の記憶がぼやけている部分かな?)
クレアはもしかしたら知人かもしれない彼を暴漢者扱いしてちょっと悪い事したかなと思った。
「クレア、この薬草を洗って陰干ししてちょうだい」
「あ、はい、母さん」
クレアは母親から薬草を籠いっぱいに受け取ると外の水場へ向った。籠に積み上げた薬草で視界が遮られたクレアは足元だけを見ながら、よろよろと危なげに歩いた。その足元の先に人の影が見えた。誰だろうとクレアが思うより先に重かった籠が急に軽くなった。
(え?)
籠が、すっと上に上がりクレアの手から離れて行ったのだ。
「お手伝いしましょう。お嬢さん」
クレアは、びっくりして声を上げそうになった。片手で軽く籠を持って目の前に立っている人物は今まで見た事が無いような綺麗な人だった。
(女性?男性???男の人よね?)
すらりとした長身に美しく整った顔。優しく微笑む瞳は穏やかな翡翠色―――クレアは見ているだけで鼓動が速くなるようだった。




