口づけの意味は?
「レ、レン様?」
すがるように強く抱きしめられたクレアは驚いた。
「・・・・・すみません、クレア。少しこのままでいさせて下さい」
「は、はい・・・」
静かな時間が流れていた。クレアはこのまま時間が止まってくれればいいと思ってしまった。もしくはこのまま死んでもいいとさえ思う。それくらいレンの腕の中は心地良く幸せだった。そしていつの間にか背中から抱かれていた筈のクレアは、向きを変えられて正面から抱かれていた。だからレンの腕はクレアの背中に回っている。彼女も遠慮がちにレンの背中に腕を回していた。緊張していた身体はすっかり彼の胸の中に預けてしまい、二人はぴったりと抱き合っていた。それからどちらからともなく顔を上げて見つめ合った。レンが作ってくれたほのかな灯りに、彼の夢のように綺麗な顔が照らされていた。
(―――本当にきれい)
クレアは女の自分より遥かに綺麗なレンから見つめられていると思うと、恥ずかしくなってしまう。でも目が離せなかった。そしてレンの顔が近づき、形の良い唇がクレア、と呟いたと思ったら、そっとその唇がクレアの唇に触れた。
(えっ!)
クレアは驚き瞳を見開いたが、レンはそのまま深く唇を合わせてきたのだ。恋人でもない二人の口づけに何の意味があるのだろうか?何故レンが口づけをするのだろうか?とクレアは混乱したが、レンの優しい口づけにもう何も考えられなくなってしまった。本当に長い口づけだった。レンがやっと唇を解いた時は、二人共肩で息をしていた。
レンは自分が信じられなかったが、本当に無意識に近いものだった。彼女に吸い寄せられるように口づけをしてしまったのだ。その間思考は止まり、ただ幸福感だけが満ちていた。そして今更ながら自分の鼓動が速まってきた。何という事をしたのだろうか?
「ク、クレア・・・その・・」
レンがうろたえたように言葉を発した時、その洞窟が揺れ始めた。そして強い龍力を感じた。早々に救援が到着したようだった。しかもこの力は―――
「ラシード?アーシアも・・・」
レンが微笑んで彼女の名を優しく呟いた。クレアは消していた筈の想いで胸がチクリと痛んだ。意味の無い口づけの後とは言っても、その余韻の残る今は聞きたく無かった。もちろんレンとはそんな関係でもないのだから嫉妬するのも可笑しい。でも夢だから・・・夢だからもう少し長く見ていたかった。
(・・・駄目ね、私ったら。あんまりたくさん望んじゃ駄目なのにね。神様には大事なことお願いしているんだから、贅沢言ったら駄目!)
崩れようとしている空間に防御をめぐらせるレンを見ながら、クレアは自分に言い聞かせた。
レンの右腕には翡翠色の鮮やかな龍紋が浮かんでいた。その防御力はもちろん地の龍一で、二人に小石一つ降りかかることも無い。応援を呼びに行ったサードは州城どころか青天城に行って直接、四大龍の一人、紅の龍ラシードを呼びつけたのだ。彼とアーシアの力を合わせれば、山崩れを抑えながらレン達を救出するのは容易いだろう。もちろんレンの防御壁を当てにしているので、思いっきりやっているようだった。彼らの間には打ち合わせなど必要ないのだ。相手がどうするかお互い十分に分かっているからだ。
そして明けの明星が輝き出す頃、見事なまでに山が真っ二つに割れた状態で、レン達の姿が現れた。そしてレンが同時に守った奇病の源である樹も外界へと出たのだった。
「レン、クレア!大丈夫か!」
サードが誰よりも先に駆け寄って来た。クレアは初めて体験する強大な龍の力技に呆然となって辺りを見ていた。
「おいっ!クレア!お前、大丈夫かよ」
「う、うん・・・びっくりしてしまって・・・」
それ以上、言葉にならなかった。
「サード、よくラシードを引っ張って来ましたね?」
まだ後始末をしているラシードとアーシアを見ながらレンは言った。
「ああ、もちろん。王さまに言いに行ったからな。レンがヤバイって」
「天龍王に直接ですか?まあ、貴方らしいですね」
レンが苦笑しているとラシード達が力を引いてやって来た。
「レン、大丈夫?」
明星の光りのようなアーシアが心配そうに言った。横にいるラシードは大丈夫に決まっているだろう、と言うような顔をして立っている。
「はい、大丈夫です。心配をかけました。でもおかげで助かりました」
「良かった!」
「全く、迷惑な話だ」
レンを心配するアーシアが気に入らなくてラシードは憎まれ口を叩いた。
「ラシード!もうっ!あなたって人は!レン、ラシードの言うのは嘘よ。サードが次元回廊から現れた時はね青天城で定例会議の時だったのよ。そしたら―――」
「アーシア!」
ラシードがアーシアの言葉を遮った。余計な事を言われそうだったからだ。
「定例会議?ああ、それくらいの時間帯ですね」
天龍都を中心とした八州は都を中心としての時差が半日程あった。
「そうなのよ。サードがその会議に飛び込んで来て〝レンがヤバイ〟って叫んだ途端、ラシードったら立ち上がって自分が行くって言ったのよ」
「そんな余計なこと言わなくていいだろう」
ラシードは決まり悪い顔をした。レンはその顔を見て苦笑した。昔のラシードなら考えられないがアーシアの影響で、彼らしくない事が度々あるのだ。レンはそれを見るのも嬉しくあり羨ましくもあった。
「でも、本当にラシードが来てくれて丁度良かったですよ。あれがあったから」
「あれか・・・また厄介なものが残っていたものだな」
レンの視線の先にある樹をラシードも見て言った。前回、彼らと三人で調査に来てこの樹を処分したのはラシードだった。
「この一帯はどうなっている?」
「ここは廃鉱地帯ですから多分、空洞も多いでしょう。そして直ぐ近くには村があります。山がこの状態ですから村人達は何時も山崩れに危険を感じているみたいですね」
「じゃあ、地形を変えても大丈夫な訳だ」
「ああ、成程。そうですね・・・州公には私から言っておきましょう」
「ねえ、何?何二人でこそこそ話ししているのよ!」
「そうだ!何を二人で決めてんだ!オレにも聞かせろ!」
レンとラシードが意味深に語り合って、仲間に入れて貰えないアーシアとサードが不満を言った。
「あっ、すみません、アーシア」
「あーなんだ!アーシアにだけかよ?レン!」
「いえ、そう言うつもりではなくて」
アーシアは呆れた。
「はぁ~相変わらずね、サード。焼もちやかないの!で?私は何をしたらいいの?」
「はい。この親樹がある地帯は全て焼却しないといけませんでしたよね?しかし前回の範囲では足りなかったようです。しかも私が思うにこの地域の気候に合うように変化もしている感じがします。ですから、ここは思い切って広範囲に処置する必要があると判断しました。ですからこの廃鉱した山々を全て焼いて壊して新地にします」
「うげっ、全部かよ?」
傍で聞いていたクレアはもちろん、サードも流石に驚いてしまった。
「サードったら、意外と気が小さいのね?」
「何だと――っ!もう一回言ってみろ!」
「サードさん、駄目よ。喧嘩している場合じゃないでしょう?」
クレアがサードの腕を引いて言った。すると意外なことに息をまいていたサードは舌打ちをしただけで引き下がったのだ。
「すご~い。私、初めて見たわ。暴れ馬のサードが誰かの言う事聞くなんて!」
「なにぃ――っ!」
「サードさん、駄目よ」
クレアは心配そうに眉をひそめてまた腕を引いた。するとまた、ふんと鼻を鳴らしただけで大人しくなったのだ。
「うそっ!レン、彼どこか悪いの?」
「いいえ、アーシア。サードはどこも悪く無いですよ。最近こうなのです。変でしょう?」
レンも最近では見慣れたが、自分の言う事もあまり聞かないサードが、クレアの言うことをちゃんと聞くのだ。本当に不思議な光景だった。アーシアもそのクレアに関心を持ったようだ。
「えっと、あなたはレン付きの看護婦さんよね?」
「はい。クレアと言います」
クレアは慌てて頭を下げた。宝珠の中の宝珠と云われるアーシアから見られて舞い上がりそうだった。そしてレンが大切に想っている人―――
「これからもレンを宜しくお願いします。それとサードもね」
「あんたに頼まれるいわれは無いぜ!」
サードは、むっとして言った。
「もうっ、本当に意地悪ね!」
「違います。サードさんは優しいですよ」
クレアが直ぐ庇って言ったが、アーシアは呆れてしまった。
「レン、サードが優しいって?」
「クレアは何時もそう言いますよ。ねえ?サード?」
「ふん、クレアは特別!細っこいからお前みたいに丈夫じゃないんだよ!」
サードは初めて会った時に腕を払っただけで転んでしまった、クレアの印象がずっとあるようだった。自分なりに守ってやらないといけないと思う対象になっているらしい。
「はいはい、分かりました。私は雄々しい雑草ですよ」
「雑草?そうりゃ、いいや!なるほど、いい例えだな!ははははっ」
「サード、笑いすぎよ!」
アーシアもそう言いながら笑った。憎まれ口を叩き合っても結構、それを楽しんでいる二人だったからラシードもレンも止める事は無かった。しかし初めてそれを見たクレアは冷や冷やしながら口を挟んでいたのだ。だから最後には二人で笑いあう姿を見て、ほっとした。
それからアーシアとラシードが、地形を変える程の力をその一帯に炸裂させ、その被害が他へ及ばないように、レンが防御を張り巡らしたのだ。
それをクレアはサードと一緒に、レンの防御壁に守られながら見ていた。
「ねえ、サードさんは手伝わないの?」
「あん?ああ、あれぐらいならレン一人で十分さ!オレの出番はその後さ!」
「この後?」
紅の龍の破壊は凄まじいものだった。元々草木も生えない廃山だったとはいえ、その一帯は焦土と化したのだ。あたり一面が真っ黒な消し炭のようだった。
「サード」
レンがその地に立って彼を呼んだ。
「おっ、出番だな」
サードが嬉しそうに走って行った。
「うわ~嬉しそう。本当にサードはレンが一番よね」
「あっ、アーシア様、紅の龍、お疲れ様でした」
戻って来た二人にクレアは頭を下げて言った。
「ありがとう。クレアさんは大丈夫だった?ラシードは馬鹿みたいに力出していたしね」
「馬鹿って・・・アーシア、それは君の力の方だろう?それにレンの防御壁はこの私が全力で攻撃しても簡単に破れるものでは無い」
「それもそうね。あっ、活性が始まるわよ」
活性?あまり聞きなれない言葉に首を傾げた。しかしその死滅したかのような土地に立つレンとサードが翡翠色と金に輝いた時、死んだ土に生命の息吹が吹き込まれたのだった。黒い土の色が抜けたと思ったら草の芽がその土を持ち上げて顔を出してきた。
「すごい・・・」
クレアは感動して涙が頬を伝っていた。言葉にならない。そこには自分には無い力強い生命の息吹を感じたのだ。
「実際、あの二人は凄いわよね。兄様が私より地の力はサードの方が上だと言ったのは本当だと思うわ。ねぇ、ラシード?」
「そうだな。でも・・・私が仮に地の龍だったとしてもサードよりアーシア、君を選ぶだろう」
ラシードはそう囁くように言うと、アーシアを絡めとり口づけした。
(うわっ!えっと・・・)
二人の甘々の口づけに、クレアは驚いて視線を逸らした。そして自分もさっき体験してしまったレンとの口づけを思い出してしまい、唇にそっと触れた。
(・・・・レン様はどうして口づけをしたのだろう?)
そして落ち込んだ。今、慌しいと言っても、レンは明らかにクレアを避けている感じだからだ。目を合わさないのだ。
「んっ・・ん・・・・もうっ!ラシード!人前よ!」
クレアは、はっとした。アーシアがラシードの誘惑の手から逃れたようだった。
「クレアさん、ごめんなさい・・・」
アーシアは恥ずかしそうにそう言うと、しらっとしているラシードを睨んだ。
「いいえ・・・その・・あの・・・仲が宜しいですね・・・」
そんな、とアーシアは答えながら女同士で、真っ赤になっていた。
「そ、それよりも、何故、レンはサードと契約しないのかしら?すればもっと凄いと思うわ。草どころじゃなくって森ぐらい出来ると思うのにね?」
アーシアが言ったのはクレアがさっき本人に問いかけた事だった。
「レンにはレンの心に想うことがあるだけだろう」
クレアは、はっとした。
(紅の龍は知っているんだ・・・レン様が自分の恋人が好きだって・・・)
クレアはそう思うとラシードを見上げた。その証拠に彼は少し不機嫌そうだった。もちろんレンが彼女を奪う事はしないし、アーシアが心変わりする事も無いと分かっているが気に入らないのは仕方が無いようだ。
自分を感心したように、じっと見るクレアにラシードは気がついた。
(この娘・・・レンの気持ちを知っているのか?)
紅の龍の真紅の瞳が見返してきたのでクレアは、どきりとしたが直ぐに微笑んだ。
「ありがとうございます。紅の龍」
クレアはレンの切ない気持ちを黙認してくれるラシードに礼を言った。
(この娘・・・もしかして?レンを?―――違うのか?)
ラシードは瞬間そう感じたが、とらえどころの無いものも感じたのだった。