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  作者: 琥月銀箭
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 □□□


 自らの内から染み出てくる、楽しい、という感情。今までになかった感情。笑うという感情。今まで無表情だった。こうして、遠川家の女中として、瀬介さんの侍女として、ただ働いているだけなのに。私に感情が戻ってくる。

 今までがつまらなかったのかもしれない。いや、そうだろう。あんな出来事があったから、私は感情を失い、表情を捨てたのだから。

 例えるのなら、私は今まで鳥籠に閉じ込められていた小鳥だった。羽を休める為の木があるだけで、私はそこに四六時中とまっていた。羽ばたく事を忘れ、与えられる餌と水だけを喉に通すばかり。見える景色など、常日頃から一緒だ。だが、私は鳥籠から抜け出した。自由という空に羽ばたいたのだ。鳥として、本来の行動を知った私は、それに快楽を覚えたのだった。それから、私は疲れる程に飛び回るのだった。

 生の楽しみを知った私は毎日寝起きする事が、無性に楽しかった。それは快楽にも似たものだろう。

 いつものように、部屋をそっと音がたたぬように、瀬介さんを起こさないように出た。朝という時間帯なので、朝餉を取りにいかないといけない。あと、縁側で待ち構えている鶏達にもちゃんと朝餉はあるから、それも一緒に持ってこないといけない。

 朝日の当たる廊下を進み、台所へと辿り着いた。

「朝餉を貰いにきました」

 元気よく、勢いのある声で台所に向かって言った。だが、台所から誰も声が聞こえてこない。戸口に立ってもう一度声を出してみるものの、同じだった。台所に入って誰かいるか確認してみるが、やはり誰もいない。

 小首を傾げて踵を返すと、ちょうど飯吹きの例の人がやって来た。私を見つけるなり、「あっ、倖ちゃん……」と語尾を濁らし視線を背けた。

「どうしたんですか?」

 気にかけて、私は訊ねたが、答えてはくれなかった。

「倖ちゃん、御免ね。私には貴女の味方にはなれないの……」

 そして、次の瞬間、訊かされた。まるで死の宣告のような言葉を。

 優雅に飛んでいた鳥は、突如と墜落してしまった。


 ◇◇◇


 俺は自然と目が覚めた。部屋に倖の姿はなかった。朝餉でも取りに行っているのだろう。

 身体を起こして早速着替える。襖を開けて縁側に向かった。

 この上ない朝を迎え、俺の身体は少しずつ目覚めていく。背伸び一つ。身体中の骨が軋む。深呼吸してから、台所へと向かった。

 倖がやってこないのが、少々不安だったのだ。

 縁側で鶏達が騒いでいる。いつもだったら、餌を啄んでいてもおかしくないのに。そういえば、餌は倖が与えていたっけ。まだ餌を与えてないのか。なら、まだ台所にいるのだろうか。

 廊下を歩く。途中数人の女中と挨拶を交わす。そのうちの一人に呼び止められた。足を止め、女中に耳を貸す。

「瀬介さん。倖さん何かやってしまったみたいですよ。当主にこっ酷く叱られてるようで……。何だかこう、とてもじゃないけど見てられない程に」

 俺は眉を顰めた。俺は女中に礼を一言言ってから、居間へと向かった。

 居間に飛びこむようかのように入る。親父と倖が向かい合っていた。

 親父は山の如し胡坐をかいて鎮座し、倖は親父に向かって、額が床についてしまう程に頭を垂れて頻りに謝っていた。ただひたすらに「御免なさい」と。

「親父!」

「ん?」

 親父は厳格な視線の先を、倖から俺に変えた。倖の謝罪の声が止んで、こちらに向いた。倖の顔は酷い泣きっ面だ。

「倖が何かしたのか? なぁ、何かしたなら教えてくれよ!」

「お前には関係ない」

 ただ簡潔に文鎮のように重い返事が返ってきた。俺はそれでは納得がいかなかった。

「お前に話す事など一つもない。帰れ」

 親父は言っておいて、更に視線で威圧する。その威圧に俺は一瞬たじろいだ。

「なぁ、倖。お前何かしたのか?」

 俺には心当たりが一つもなかった。倖が何か大それた。それもこの家において禁忌のような事をしたというのだろうか。

「い、いえ……。なんでもありません……」

 倖は首を振った。泣きっ面で首を横に振る。何かがおかしい。歪だ。表情と態度がまるっきり符合しない。

「瀬介。もうこの女中とは縁を切れ。こいつは、もう女中じゃない。隷女だ」

「れ、隷女って親父!」

「この者を地下に。幽閉しておけ」

「親父!」

 声を荒げた。親父に向かって。それはこの家において、言語道断な事。つまり歯向かうという事。だが親父は「煩い」と一言で片づけると、腰をあげて俺を横を抜けて居間を去った。

 そして入れ替わるようにして、二人の女中がやって来て、倖を抱えた。

「どういう事だよ……」

「……」

 倖は答えなかった。そのまま、無抵抗に女中に抱えられ、そして地下へと連れて行かれるのだった。俺は何も出来ずに。そして何より、何もわからずに。奥歯を噛み締める思いに駆られながら、部屋に戻った。

 部屋では毬が俺の座布団の上に寝ていた。俺を片目だけ見て「お帰りにゃ」と言って出迎えた。

「ただいま、と言いたいところだけど今気乗りしないんだ。ごめんな」

「ム。何だか以外にゃ返事だにゃ……。さてはわけありかにゃ?」

 「まあね」と言って、俺は倖の席に腰を落ち着かせた。溜息一つついて、「どういう事だよ」と毒づいた。倖が何をやったっていうんだ。

「腑に落ちないって顔だな」

 ひょいっと、和卓の上に乗る毬。俺を一瞥してから、毛繕いを始めた。

「腑に落ちないっていうか……、んー……。まあ。そりゃ、腑に落ちないさ。倖が何やったか知らないけどさ、いきなり隷女扱いなんて酷過ぎる。毬もそう思わないか?」

 ふと同意を求めてみたが、毬は訊く耳を持っていなかった。というより、毛繕いに執心しているようだ。俺は溜息もう一つついてから、腰を上げた。

 そして、襖を開けて部屋を出ようとする、その時だった。背中越しに毬が一言「そんなに倖が心配にゃのか?」と訊ねてきた。俺は「そりゃね」と当然のように答えた。

 ギリっと矢のような視線が俺に向かってきているのがわかった。それは一種の戦慄を覚えるような恐々しい視線だった。まるで獲物を狩るがの如く、動物のような視線。

「じゃあ、訊こう。その心は偽善か?」

「違う」

 俺は振り向いて、毬に向かって負けぬ程の視線を送り返した。戦慄を覚えるのではなく、与えるような視線を。毬は人間でいえば「やれやれ」と言わんばかりに首を振ると、「にゃら、手伝ってあげよう」と、腰をあげて俺の足許にやって来た。

「て、手伝うってどういう事だよ」

「言葉の通りにゃ。そんなに倖が好きだから心配だって、そうとハッキリ言えばいいのに」

 俺は一瞬にして赤面した。そして、足早に部屋を去った。残された毬は、「愚直だにゃ」と愚痴を零すのだった。


 部屋を出て早速向かったのは屋敷の地下だ。あそこには、昔から跳梁跋扈していた魑魅魍魎を捕らえては、地下牢に閉じ込めていた。今では使いようがないから、殆ど閉鎖的に扱われている。

 屋敷の一番奥。廊下の行きあたりに突如と現れた鉄の扉。いつもは南京錠でがっしりと鍵がかけられていて、簡単には開ける事が出来ないようになっている。今は倖を閉じ込める為に、一時的に鍵は外されていた。

 鉄の扉を開け、そこから石で出来た壁と階段を降りていく。壁にかけられた松明だけがこの空間の明かりとなっている。

 螺旋のような石の階段を降りると、そこには地下牢があった。厳重に出来た地下牢。明かりなどほぼ皆無と考えても構わない。囚人に対して酷い仕打ちだ。ここの空調は何も施されていない。寒い、肌に纏わりつくような空気。ここにいるだけで一種の嫌悪感を覚える。

 壁にかけられていた松明を手に取り、地下牢へと近寄った。

 地下牢の中には、倖がいた。無残にも放り込まれた姿だ。手枷と足枷が倖に齧り付いている。

「倖……」

 鉄格子を挟んで、俺と倖は対峙した。倖はか細い視線を俺に向けた。そして声までもが風前の灯火のように小さく、「瀬介さん……」と俺の名前を叫ぶのだった。

「倖、お前何かしたのか? 親父の逆鱗に触れるような」

 俺の問いに、倖は声を出さずとも首を横に振った。じゃあ、なんで倖がここに閉じ込められないといけない。それに隷女として扱われないといけないのだ。

「わ、わかった。じゃ、じゃあ今出してやるから。待ってろ!」

 踵を返して駈け出そうとする俺。その俺を倖は「いいんです」と一言で呼び止めた。俺は駈け出そうとした足を止め、振り返った。「えっ?」とした簡潔とした感嘆な声が漏れる。

「もう今までのようには戻れない」

 きっぱりと諦めたような口調。何もかもどうでもいい。棄ててしまえばいい。倖は俺と目線を合わせず、吐き捨てるように言った。

「どうしてだよ! お前が何やったっていうんだよ! 言ったよな、何もやってないって。だからさ、なんでここに閉じ込められなきゃいけないのさ!」

 まるで倖とは正反対のような口調、怒気の混じった口調で俺は倖に言った。まるで八つ当たりでもしているかのような風景。俺は思わず勢いを止め、自分を叱咤した。

 倖に当たってどうするつもりだよ、俺……。

「……。瀬介さん、お願いです。私に関わるのは、これ以上辞めておいた方が――」

 俺は倖の台詞を振り切って、階段を駆け上がった。訊きたくなかった。もう、倖の悲観的な言葉は。何もしてないというのに、罪だって一つだってないんだ。それなのに閉じ込めるなんて理不尽だ。俺は腑に落ちない。この上なく。


 □□□


 罪などない。そう言われればそうだ。でも罪があると言われればある。

 全ては露顕した。ここまで来てしまえば、もうどうしようもない。取り返すなんてそんな甘い事さえも私には手段としてない。このまま流れに身を任すくらいしかないのだ。

 今まで楽しかった。瀬介さんと過ごした日々。何の取り柄もなく、何の面白みもない私。身の上さえもわからない私に瀬介さんは親身に接してくれた。

 そう、あの日だって偶然見つけてもらったものの、身勝手にも出ていってしまったのに、再び訪れた時には、私を女中として置いてくれた。

 初めて、他人が信頼出来た気がする。

「瀬介さんなら……。もしかして……」

 望み薄かもしれない。でも、何も賭けないよりいいかもしれない。

 助けてほしい、救ってほしい。この地獄から、また羽ばたきたい。大空に。

 思いを全てに込める。たった一言に。鉄格子に手をつけ、顔を乗り出して私は言った。


「お願い! 瀬介さん! 助けて!」


 ◇◇◇


 部屋に戻った俺は落ち着かなかった。毬に「落ち着け。お前らしくないぞ」と言われる様だ。

「そ、そうだよな」

 俺は座椅子に腰を落ち着かせると、一息ついた。和卓の上で眠る毬に視線を向ける。毬も眠りながらも、片目だけ開けて俺を見据えていた。

「何かわかったのかにゃ?」

「倖は話してくれなかった。たぶん、何もないと罪は思うんだけど」

「そうか。にゃら、そうなんだろう」

 まるで見切ったかのように毬は吐き捨てた。片目の瞼を閉じて眠り始めようとする。「毬……。こんな時に寝ないでくれよ」と咎めると、「おまいさんに協力を仰がれたが、何もないんじゃ動きようがにゃいじゃろ」と容赦なく反論をする。

「わかったよ。じゃあ、倖の様子を見ておいてくれないか。何かあったらさ教えてほしい」

 「そうかい。わかったよ、相棒」と、重い腰をあげて毬は和卓を降りて部屋を出て行った。

 毬が去った後、俺は腰を徐にあげた。ここでじっとしているわけにもいかない。安楽椅子探偵じゃあるまいし、俺にそんな才能があるわけでもない。

 そうそう、こないだ変な奴を倒して変なカード手に入れたっけ。カードはちゃんと保管している。洋服のポケットから取り出した。

「主に研究の事が書かれてるけど……。ん、これって……」

 母親に頼まれたいた事をふと思い出す。黒線と研究所の密接とした関係を調べてほしい、と。あの時何の手掛かりもなかったから、あまり動きようがなかったけど、今ではこの不自然なカードが手許にある。これが何かしらの情報を孕んでいるんじゃないかと、ふと思う。かなり短絡的な考えかもしれないが、俺にとって今これに縋る以外に何の手立ても用意されていない。

 これを持っていた刀を持って仮面を被った者は、倖を寄越せと言っていた。それに何の意味があるというのだろうか。

 俺は二度目の一抹の不安に心を駆られた。いや、そんなわけがない、と心で振り払う。

「はぁ」

 溜息一つついてから、俺は腰を落ち着かせた。少しずつやって行こう。どんどんと考えても、自分の手に負えないだけだ。コップに水を注いでも、いずれは零れてしまう。俺のコップはそんなに大きくはない。

 暗礁に乗り上げている、と言われてもおかしくない。我ながら馬鹿な行動に走ってしまったと、思っていたがもう後の祭りだ。

 気合いを入れ直して、カードをまた見た。何度見ても同じ事が書いてあるだけで変哲もない。裏表何一つ。ただ研究所という言葉だけが俺の頭には引っかかっていた。

「瀬介さん、失礼してよろしいでしょうか?」

 襖越しに聞こえる女中の声に、俺はふとカードから視線を外した。「どうした?」と訊くと、「瀬介さんにお電話です」と言った。俺に電話か。さて、誰だろうか。あぁ、だいたい予想はついた。

 「ありがとう」と礼を言って、腰をあげた。そして、電話室に向かった。


 電話室に入って、電話の受話器を耳にあてた。

「もしもし?」

「もしもし?」

「あぁ、水池か」

「な、なんだよ。その言い草は」

「いや、お前から電話っていうのはだいたい予想がついてね。『あっやっぱり』ってね」

 「アハハハ」と微苦笑した機械音が耳に届いた。

「それよりさ、どうだ、最近。依頼頑張ってるか?」

「依頼? 頑張りようがないよ。手掛かりが一つだけで。その手掛かりの信憑性もないところでね」

「信憑性がない? まあ、一応一つ見つけたって事か」

「あぁ、そうだよ」

 そう言って、俺はカードを視界に入れる。

「どんなのだよ」

「んー、なんて説明しようかな」

 口頭で説明するにはかなり面倒な奴から奪った謎のカードだ。「仮面を被った者から奪ったカード、とでも簡潔に言っておくよ」

「あぁ? どういう事? ま、まあ、よくわかんねぇけど、そのカードで何かわかったのか?」

「んー、詳しくはわからないんだけど、どこぞの研究所の一員ってくらいが読み取れるんだよ」

「研究所? ちょっと待ってくれ」

 電話越しに紙が擦れる音がした。メモでも捲っているのだろうか。

「気になるな、それ。えっとさ、こっちでもある施設か、何かわからないんだが、街で何か実験が行われているって事がわかったんだよ。結構危なげなのがな。今調べてる途中なんだがよ。

 スマンがさ、ちょっと調べてくれるか? 施設の事。なんでもいいから。俺としても確証がないんだけどさ、山辺りを。大半あそこが怪しいしな、厳家の監視管轄外だし。あと、俺まだ帰れそうになくてよ」

「ふーん。帰れないね。どうせ、琥珀にでも弄られてるんじゃないのか?」

「……。そいつの名前は止めてくれ。ただでさえ嫌いなんだからよ」

「そいつはスマンかったな。んじゃ、そろそろ切るぞ。お前に頼まれた事も含めて、ちょっと今大急ぎで行動起こさなくちゃいけなくてよ」

「ん? 急ぎか。そいつはスマンな。こんな時に電話しちまってよ。じゃあ、切るぞ」

 唐突に切られ、受話器から無粋な音が届いた。プープーと。受話器を置き、俺は部屋を後にした。部屋に戻って早速着替える。出かける準備に取り掛かった。

 矢継ぎ早に着替え、玄関に向かう前に一度地下牢に立ち寄った。

 鉄の扉を潜り、螺旋のような階段を下る。暗室のような地下牢に松明を片手に突き進む。

 地下牢には、倖は突然の如く閉じ込められたままだった。ただ一人だけではなく、毬も一緒だ。毬なら鉄格子をすり抜ける事が出来る。中に入れる為に今では倖の膝の上に寝ている。

「倖、大丈夫か?」

「瀬介さん……。わ、私は、別に」

 倖は毬の身体を撫でながら腰を落ち着かせていた。視線をこちらに向ける。潤んだ視線が向かってきているのが、この暗闇の中でもわかった。

「安心しろ。俺は倖の味方だから」

 気休めにしかならない事しか今は言えないけど、またここに来た時には倖を元気よく出してやれるような、そんな言葉をかけてやりたい。

「えぇ」

 端的に返事をする倖。微笑みを浮かべた。俺はその微笑みを目に焼き付けると、踵を返して地下牢を後にした。


 ◆◆◆


 忌み山ねぇ……。水池から貰った手掛かりだ。それに加えて自分の手掛かり。これを合わせて何か見つかればいいんだけどさ。

 玄関を出た俺は、この上ない晴天に迎えられた。雲ひとつない。絶好の散歩日和だ。まあ、俺の散歩はちょっとあまりいい意味での散歩ではないけど。

 家を出て早速忌み山へと向かった。

 自宅から忌み山まで、それ程距離はない。ざっと徒歩で十五分程歩くと、もう山の中に足を踏み入れる事になる。

 忌み山には当然の如く誰一人としていない。辺りに見える風に靡く木々が、どこまでも続いている光景ばかりが見せるくらいだ。だから、逆に恐かった。ずっと同じ光景続いているから、視覚的に飽きは早い。“ここに居てもつまらない”という感覚に陥る。そう考えると、面白い盲点かもしれない。

 忌み山に施設を作る、か。人気も少ない所だから、余計に作り易い。倖を見つけたのが忌み山でもあったし、水池から持ち込まれたネタはほぼ確実かもしれない。

 忌み山を歩き続ける。特に奥へ、奥へと。だからといって、建物が突然出てくる事はなかった。途中、古来に儀式として使われていた広場に出た。ここが、ここを忌み山として忌避した原因の広場でもある。まあ、野暮な場所だからあまり関わらないようにしよう。広場を尻目に、更に奥へ進む。だんだんと山は険しくなってきた。獣道でさえ存在しなくなってくる。

「んー……。不発かな」

 あまりにも奥へ行くと帰れなくなってしまうのが落ち。踵を返して一旦下山を始めた。

 下山と言っても、これといって面白みも何もない。木々ばかりだし、空は相変わらずの天気だし。

 雑踏のない森……。鳥の囀り、風の声、木々の擦れる音。それだけで満たされた世界。俺がここを歩いて、そして踏み鳴らしているのが憚れる程に、ここは静かだった。

 儀式の広場の傍を通りたくもないから、道を変えよう。ただ下ればいい、という条件だから、別段道を変えたところで帰れないわけではない。

 ふと、獣道が左右に分岐していた。俺は気紛れに任せて右を選び、そして突き進んでいく。

 狭き道をどれ程進んだだろうか。道中で小川にぶつかり、喉を潤し、その場に腰かけた。

「はぁ……。本当に手掛かりが少なくて困ったもんだぜ」

 半分お手上げ状態だった。このままじゃ倖を助けられないかもな……。でも、それはどんな事よりも“厭”なんだよな。我ながら自嘲しか出来ない。

 一息ついて、帰ろうと思った時だ。ふと、耳の奥に入ってくる異音(ノイズ)。今まであった世界にはなかった異音が、耳に届いた。

 機動音。とてつもなく大きな物が動いている音を、研ぎ澄まされた感覚が捉えていた。

 異音を感じ取りながら足を歩み始めた。異音を辿る。小川に沿って。

 歩む毎に異音は強くなっていく。別に研ぎ澄ました感覚を使わなくてもいい程に、普通の感覚でも異音が感じ取れる程に近づいていた。

 森がそこだけ拓け、森に不釣り合いなモノに出会った。

 忽然とそこに建物が存在していたのだ。丸っきり四角い白い壁で形作られた建物が。窓など一つもない。あるのは出入り口用の扉が存在しているだけで、それ以外の建物に侵入する事など不可能だ。

「嘘だろ、おい……」

 開いた口が塞がらない、というのはこういう事なのだろう、と俺は実体験をして改めて思った。

 茂みに隠れていた俺は、ふと建物に近づこうとした。だが、頭を出してすぐに引っ込めた。猛獣とそれを連れ添う飼い主(パートナー)が数人建物の周りをうろついていた。警備しているのだろう。飼い主は白衣を身に纏っていた。まるで研究員のような風貌。自然と繋がる。この建物は何かの研究所ではないかと。あくまで仮定の話だ。

 俺はふと手にいれたカードに懐から出して目をやる。

 ここが仮定の話ではなく、本当に確定の話となるのなら、ここは一体なんだ? 何をやっているんだ?

 あまり出しゃばった行動は出にくい。この変の地理には強くないから、もし咄嗟に出て行って、追い詰められたりしたら逃げ難い。猛獣を連れ添う飼い主もいる事だから、分が悪い。まあ、ここに何かがあった、という事だけでもいい成果だろう。今はまだ空に太陽が燦々と君臨しているから、また夜頃にここを訪れる事にしよう。

 俺は踵を返して、再び下山を始めた。


 □□□


「まさかな。お尋ね者はここにいたとは」

 私に退治するある者。大柄でここの大黒柱。この者なくしてこの家は没落するだろう。

「……」

 私は何も言えない。全てを知られたからには、こうしてここでただじっとしているしかないのだ。偽り切れない。弁明の余地はない。真の存在意義を持って蹂躙され、凌辱される。仮の存在意義などもう目の前の者には通じる事はない。

 瀬介さんの女中としての姿はもう演じられない。

「貴様を売り飛ばす」

 そう私に告げると、踵を返してここを去ってしまった。光はここから失われ、闇が訪れた。空間に。私の心に。


 ◇◇◇


 家に帰ってくる頃、ちょうど親父が玄関から出てきた。毅然とした態度で玄関を出てきては、そのまま外へと繰り出すのだった。どこか散歩でも行くのだろうか。あまり親父はそういう性質ではないけど。

 別に、ずっと家にいるというわけではない。とある企業の資金提供者であり、つまるところ理事長のような立場の人間なのだ。一応、職に就いているといえば就いているのだけれど。実のところ、親父が何の企業にどんな目的をもって資金を提供しているのかはわからない。元々、寡黙だし家族にだって無関心だし。だから、訊く余地もなく、訊く気にもなれない。

 しかし、出掛けるというのならよっぽどの事があったのだろう。年に数回しか出掛ける姿は見ないからな。ふと、立ち止まって振り返った。一抹の不安を感じて。親父は玄関を抜け、俺の視界の端へと消えていくのだった。

 そんな筈がない、そう思いを振り切って俺はまた歩き出した。


 家に上がり、部屋に戻った俺は、毬を呼び寄せた。

 ゆっくりとした足取りで毬は廊下からやって来た。座布団に腰を落ち着かせる俺の横に丸まり、視線だけをこちらに向ける。

「にゃんだ?」

「いや、倖が心配で」

「……、おまいさんも相変わらずににゃ。倖は倖で元気じゃったよ。お前が心配する程じゃにゃい」

 俺はその言葉を聞かされて内心安堵した。ふう、と胸の内を溜息に込めて吐き出した。「それで?」と、溜息を見送った毬が尋ねる。

「おまいさんはどこに行ってたんだ?」

「これ持って、忌み山に」

 そう言って、俺はポケットから例のカードを取り出して毬に見せた。毬は眉間に皺を寄せてそれを一瞥し、瞼を閉じた。どうやら一瞬にして見飽きたらしい。「そんなもんが役に立ったのか?」と興味なさ気に、ぶっきら棒に言った。

「一応ね」

 カードをポケットに仕舞い込んだ。「今夜、そこに探りを入れてくるつもりだから」と、続けた。

「はぁ……」

 毬は珍しく溜息をついた。そして、俺の方に視線を向けて「おまいさんって奴は、本当に倖が救いたいんだにゃ」と呆れるように言った。

 それには何の反論も出来ず「まあね」と答えるしか俺には手だてがなかった。

「にゃら、おまいさんは倖の傍にいろ」

「えっ!?」

 それはとんでもない発言だった。まさか、毬がそんな事を言うなんて、可能性はないにしろ殆どないと思っていたのだ。何万分の一程の可能性かもしれない。

 毬は身体を起こし、俺に背を向けて歩き出した。自室を出ようとする刹那、俺の方に振り向き、「倖にはおまいさんが必要だにゃ。俺にはおまいさんの代理なんて、出来ない」と、それだけを言い残して勢いよく外へと出掛けるのだった。

「猫の癖に」

 俺は頭を書きながら、そう毬を軽蔑するのだった。でも、心の中では密かに礼を言っている自分がいた。


 □□□


 馬鹿な主人を持った事を、これ程にまで呪った事はない。限りない呪詛で、あの主人を呪い殺せるというのなら、何度でも呪詛を殺してみせよう。でも、そこまでしてもあの主人はどこか憎めないところがあった。あそこまで自分に正直でいられる、そこまで馬鹿になれる、自分を危険な目に合わせようとも、主人は止まる事はないだろう。

 そして、自分もそれに突き動かされてしまうのも、馬鹿なのかもしれない。

「我ながら、自嘲しか出来んにゃ」

 そう思いながら家の塀の上を歩きながら、ニャハハハと高々に笑っていると、思わず周りの猫の視線が気になり、ふと顔が紅潮してしまった。視線が恐くなって塀から降りる。芝生の上に降り立った。足裏に来る堅い(コンクリート)と違って、芝生は幾分歩き易い。あの変に人を閉じ込める空間だって、石とかコンクリートとか、そんな堅くて冷たい地盤を使うんじゃなくて、芝生にすればいいんだ。

「それにゃら、ずっとあそこにいてもよかったんだけどにゃ」

 正直、あそこは途轍もなく冷えた空間だった。いつも日向ぼっこしていた自分であり、あの場所のような太陽の光さえ届かぬ空間というのは慣れない。寧ろ考えられない、理解出来ない、理解しようとも思わない。

「倖の膝の上……、温かかったにゃー……」

 動かざるごと山の如し、自分は倖の膝の上に乗ってしまうと、動く事はなかった。だから、色々と訊かされた事もあったのだけれど。

 ふと、自分の顔が強張った事がわかった。倖が今抱いている事。それは自分ではどうしようも出来ない。あれは主人にしか出来ない事。だから、自分は舞台を降りた。

 舞台を彩るのは自分じゃない。主人と倖だ。

「この俺にそんな事言われたところで、解決なんて出来ない」

 だから、主人に任せ、自分は主人の代役を買って出る。まあ、主人の考えなんてだいたいわかる。何年もともに時間を過ごしたのだから。

 とある家の敷地を抜け、足を進ませる。道路を出て、駆け出した。猫の姿だから、一歩進むだけでも一苦労だ。夜だったら、変化して本来の姿となって駆け出せるというのに。この時間帯という制約は自分にとって厳しいものがある。

 人間というわけでもないから、歩幅は短い事は確かだ。忌み山にたどり着く頃には、夕日が地平線に墜落している頃合いだった。まあ、昼から夕方になってくれた方が、自分として動き易いものがあるのだけれど。

 忌み山は山だ。それ以外の何物でもない。木々ばかりだし、人気はないし。普通ならそう感じるのだけれど、妖力を研ぎ澄ませれば、感じ取れ難いものまでを手にとるようにわかってしまう。

 しかし、何だろうか。この感覚は。普通ではない。今まで感じた事がない。近寄りたくない雰囲気がする。そうだな……、人間の感覚で例えるのなら、黒板に爪を立てて引っ掻くようなそんなものだ。

「っち。にゃんだ、これは……」

 感覚に訴えかけてくる厭な感覚を、奥歯を噛み締めて堪えながら、その感覚を追って森の奥へと足を進ませていく。

 段々と強くなっていく感覚。奥歯が噛み切れてしまいそうだ。

 茂みを抜けて小川を越える。

 厭な感覚が最高潮に達する。茂みを抜けると、そこには山には不相応の建物が立っていた。窓など一切ない。入口は一つ。まるっきり四角い建物が自分の視界に飛び込んできた。

 建物の周りには警備役の者とそれに従える獣がセットで五人程いる。入口は一つとなると、侵入はちょっと難しいな。まあ、猫の姿だし、別に怪しまれはしないだろ。ちょっと忍び込んでしまった、と思われてしまえば。

 警備の隙を狙い、入口へと駆け込む。

 入口は呆気なく開き、中へ入るには何とも安易だった。

 入口に入るなり、ずっと趣の一欠片もない廊下が続いていて、等間隔に両脇に並んでいた。人が忍び込むにはあまりにも無理がある。隠れる場所が一切ない。主人が来たら絶対に簡単に見つかるだろうな。自分が来て、ある意味正解だったかもしれない。

 廊下を歩いていると、前から白衣を着た男二人が、それぞれカルテを持って近づいてきた。怪しまれぬように、廊下の隅に丸まり、出来るだけ気配を消す。そして、耳だけを二人に向けた。

 白衣を着た二人は、自分など石ころ同然のように気にせず、そのまま横を通り過ぎていった。

 二人が遠くに過ぎ去ったのを確認してから、身体を起こした。そして、一つ溜息をつく。

「狂ってるな、ここは」

 二人の会話を察するに、そう言葉で表現するしかなかった。

 成程、さっきから感じる感覚はそれによる物だったのだろう。また感覚を頼りに、廊下を歩きだす。実際に確かめておきたかった。ここで何が行われているのか、しかと見届けたかったから。

 感覚を頼りに廊下をひたすら奥へと進む。四角い建物だと思っていたのだけれど、案外中は広かった。いや、同じ景色ばかりが視界に飛び込んでくるから、そう錯覚しただけなのかもしれない。とにかく、感覚に頼って前に進めば問題はない。やがて、廊下は突き当たりまで来てしまい、その突き当たりから廊下は左右に広がっていた。

 左は上り階段。右は下り階段。

 感覚は右の下りから感じられる。そしてそちらに視線を向ければ、いかにも不気味な雰囲気が漂ってくる。廊下から染み出てくる阿鼻叫喚の感覚。一歩たりと階段に足を踏みいれれば、その重苦しい空気に一瞬にして取り込まれる。

 意を決して、下り階段に足を踏み入れた。

 一層、感覚が厭になる。耳を塞ぎたくなる思いだ。

 一歩ずつ、階段を下りていく。階段は異様に暗くて、足許がよく確認しないと思わず踏み外してしまう。階段を下りていく毎に、辺りは暗くなっていくばかりだった。

 踊り場で折り返し、更に下っていく。もはや、光などほぼ皆無に近い。何だか自宅の地下牢に似たような感覚に襲われる。

 階段を降り切ると、そこからは扉も何にもない、階段との見境がなく、ただ広いだけの空間に出た。そして、その空間には幾つもの檻が用意されていた。まるで鳥籠のような人が一人入れば十分の大きさの檻が幾つも置かれてあった。

 監獄、という言葉がまさにふさわしいような空間が広がっている。男女問わず、齢問わず、閉じ込められ、誰もが生きる楽しさを忘れている。ここに何時間閉じ込められているのだろうか。そんな事を考える事さえ野暮な話だが。しかし、見ればわかる通り、もう人間として扱われていない。

 だって――、殆どの者は、手足が削がれていたのだ。そして、何やら奇妙な物が代わりとしてつけられていた。それが自然に出来た人間の手足ではない事は確かだった。

 空間を歩く。息が詰まりそうだ。空調など一切されず、ただここにある空気が循環しているだけで、新しい空気など滅多に入ってこない。故に空気が淀んでいて、自分がここに長居するには無理があった。

 速足で空間の奥へと向かう。

 一番奥には、手術台とそれ相応の設備が用意されてあった。その上に乗る遺体。四股を分断され、中身を無闇に引き摺り出された無残な遺体があった。解剖でもしたのだろう。調査書のような物も、まだ書き途中ではあるがあった。

 ここの状況と、さっきの二人の白衣の男の話を鑑みて、一つの答えを弾き出した。


 ――人体実験による地獄絵図。


 踵を返して、自宅へと早々に帰り始めた。階段を急いで駆け上がり、廊下を豹の如く疾走する。入口が見えてきた。ゆっくりと入口の扉が開く。外からの光が、扉が開いて漏れて入ってくる。眩しくて思わず目を軽く瞑った。

 扉が開き、そこから一人の男が廊下に足を踏み入れた。その者は、自分がよく知る人物だった。

 遠川耶桐。遠川家の主人だ。

 研究員の皆が、礼をする。一人の研究員が耶桐に付き添って歩き始めた。

「脱獄した実験体は、うちにいたようだ」

「左様ですか。では早速実験体を窺いに参ります」

「実験の方はどうだ?」

「えぇ、耶桐さんの資金提供によって、潤滑に――」

 あぁ、こいつ。主人の敵か。

 駆けだし、ここを早々に出て行った。

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