東土節の一週目 《約束された不運》の月
東土節の一週目 《約束された不運》の月
このあたりは元々活火山地帯であり、《熱》ゴラから生まれた燃ゆる巨岩が暮らしていた──博物記によると、見た目は黒ずんだ岩石だが内部に強大な力を抱き、人と語り合うほどの知性を持っていたらしい。彼らが後から来た人びととある程度共存していたのは興味深い。エヴェロイが滅んだ時、彼らは大地の奥の煮えたぎるゴラの元へ戻っていったという。
私はごつごつした岩山を進んだが、至るところに奇妙な大穴や不自然な空白があり、確かに巨岩たちの不在を感じた。
残っている岩の隙間から扁桃の枝が伸び、背の高い薊や根の深い酢漿草に混ざって、白い音の花が咲いていた。記録によると、この花は語りかけるとその音を記憶して唄ったというが、災厄の後では物言わぬ植物と成り下がっていた。
東土節の一週目──つまり、《ことばの祝祭》の真っ只中──私はエヴェロイに辿り着いた。この町が栄えていた当時は、グロサーラから多くの祝福を得ようと遠方から訪れる者が後を絶たなかったが、今では風が草木を揺らすばかりだった。あの欠けたる者たちもここまではやって来ないらしく、それどころか野犬の姿も見えなかった。
市壁は高いがさほど厚みはなく、刎ね返しの隙間が外向きに張り出していた。四方に建つ稜堡は花の蕾のような形をしており、敵襲の際には祝福の強い神官がそこから攻撃を仕掛けたのだろう……エヴェロイの軍には強い辞の力を持つ者が集められ、その声のみで敵を退却させ、時には空の器に還したという(※「空の器」は人の身体、body, corpse の意味もある)。
市門は開け放たれたままだった。そこをくぐると、歴史書に記された通り半レドーズ(約504m)ほどの丘があった。それは確かに寝そべった犬に見えないこともなかった。その麓には崩れた殿堂と廃墟の町が広がっていた。
赤みがかった屋根瓦はひび割れて蔦に覆われるか、砕けて土に還ろうとしていた。街の中にも巨岩の痕跡があり、彼らと人々は非常に密接した生活をしていたことが分かった。集会堂の壁は一部がごっそりなくなっており、水の神殿の広場の噴水からは砕けた石の隙間から水が流れ出て、地面を濡らしていた。水道橋はまだ脈を打ち続けているらしい。
いくつもの円柱が並ぶ回廊は屋根が落ち、旅人や商人たちで賑わっていた面影もなかった。おそらく庭園であったと思われる場所では、すっかり荒れ果てていたものの、場違いに鮮やかな秋薔薇が物悲しげに揺れていた。青い実をつけた林檎は、きっと収穫されることもなく地に落ちるか野鳥や虫に蝕まれてしまうのだろう。
私は目抜き通りを抜け、最も重要な廃墟──殿堂へ足を運んだ。
乳白色の大理石で築かれた橋の両脇にかつて建っていた人びとの彫像は砕かれ、本人と同じように空の器となっていた。枯れた堀には青々とした草木が生い茂り、ちょっとした庭のようにも見えた。
かの名高いことばの殿堂は、かつての荘厳さの面影はあれど、城壁は崩れドームには穴が空き、どこか虫の抜け殻を思わせた。かつては美しい絵ガラスが輝いていたであろう窓では風が踊っていた。
注意して廃墟の中に入ると、入口の広間の真ん中に巨大な鐘が落ちていた。その重さのせいで床のタイルは粉々に砕けて陥没している。この鐘は中に幾千もの小さな舌が張り巡らされ、揺れるたびに荘厳な囁き声のように響き渡ったという。しかし、いまや舌の多くは外れ、風に攫われたのか数えるほどしか残っていなかった。
広間は天井まで吹き抜けで、四階まで見上げることができた。どこもかしこも塵が溜まり、銀は黒く銅は青くなり、タイルや彫刻はくすみタペストリーは褪せてちぎれている。だが、自然以外の者がここを荒らした形跡はなかった。あるいは、エヴェロイが滅んでからこの場所に足を踏み入れたのは、本当に私だけなのかもしれない……。
ここに収められていた巻物や素描は消失していた。壁一面、そしてありとあらゆる場所に設られた書架には塵が積もるばかりだった。
殿堂を出て、私は丘に向かった。登口には岩の門アーチがそびえていたが、荘厳な彫刻は風化し、一部は崩れ落ち植物に覆われ、どんな意匠だったのか分からなくなっていた。
私は瓦礫を乗り越えて丘を登った。丘をぐるりと回るように階段が作られており、頂上に着くまでに息が切れてしまった。
そこには土の神殿が残ってたが、やはり荒廃していた。もっと古い時代、火山が生きていた頃は火の神殿だった。支柱には一〇〇〇年ほど前に流行していたロツェール様式特有の台座が残っていた。
神殿の中で、私はイシュミーアの最期に想いを馳せた。
いったいどんな言葉がこの地に破滅をもたらしたのか。
《事実の神》ヘメリヤの怒りに触れた彼の言葉は知られていない。それは《言葉の神》グロサーラの祝福を打ち砕くほど強い呪いだったが、彼の死を伝える記録は一つもない。そもそも火・土・水・風の《力の神々》以外から祝福された者は人というより神に近く、不死に近いともいう……。
私の心にある考えが浮かんだ。エヴェロイが滅んだ時、彼は声を失った。もし、彼とあの欠けたる者たちに繋がりがあるとしたら……ヘメリヤが彼の喉を潰したというのは伝承に過ぎない。彼が声を失ったのは、別の神が原因だとしたら……?
後ろから、石の転がる音がしたので、私は振り返った。
そこには私の姿があった。
私はとっさに斧に手をかけたが、すぐに腐れチーズが警戒していないことに気づいたので、注意深くそれを観察した。あちらも私を眺めていた。どうやら私の表情の真似を試みているらしい。
それは完全に私と同じではなく、奇妙ないびつさを持っていた。顔はやや長く、足は妙に小さい──と見る間に、その大きさも少しずつ変化していることに気づいた。まるで揺れる水面に映っているかのような……。
これは魔物の類だろうか、と考えてから、私は歪んだ鏡を象徴としている神を思い出した。
《偽り》リドゥーケ。
(偽りと物語の神)
私はすぐに作法に倣って跪き、毀れた話し方ながら挨拶の辞を述べた。
かの神は言った。私は、私の声が、私自身のことばより滑らかに響くのを聴いた。
──ロルグニのサーミビア。如何なる幻を追ってこの地に至ったのか。
かの神は笑みを浮かべた……その表情はそれらしく見せようとしているためにかえって不自然で、乾いた粘土のようにこわばっていた。
私は《偽りの神》に、その言葉の意味を尋ねた。
──事実や美よりも、己の内の影を追う者はあまりにも多い。
あるいは、私もその影の一つかもかもしれない……。
私は『唖の書』とイシュミーアについて話した。
──その者のことは知っている。《グロサーラの気まぐれ》、美しい言葉を持つ者。
少し迷った後、私は続けた。欠けたる者たちのこと、彼らの信ずる神のこと……。
かの神は答えた。
──我こそがかの者たちの神だ。
私は己の身が震えるのを感じた。私は言った……イシュミーアが声を失ったのは、あなたと関係があるのかと。
──いかにも。
彼の声を奪ったのは……。
──我は何者からも何も奪うことはせぬ。汝らがひとりでに失うのみ。我は偽り、幻想と蒙昧の神。人の妄執を育む者。
リドゥーケは物語の神だ。かの神は想像力を愛するが、人が心に抱いた幻想を現実と為すことはしない……。
神の言葉は答えのようで答えではなかった。私がどう言葉を続けるか……どうやって事実に近づくか考えていると、かの神は神殿の奥を指し示した。
──そこにグロサーラの《気まぐれ》が残した標がある。
私は灯篭に火をつけてそちらに向かった。
神の言葉通り、その岩肌には文字が刻まれていた。一部が風化し崩れていたものの、盲目の者が描いたとは信じ難いほど素晴らしい。
リドゥーケは微笑んだ……その表情は本物らしく見えた。
──美しいだろう。
偽りの神も美を愛するようだ。
私はその文字をなぞった。
【我はことばの祝福を受け、
闇と沈黙の中で犬の下に育まれ、
偽りに守られ事実に呪われし者なり。
欠けたる者たちがそれを毀つより疾く
《地の宝》を隠しこの地を去る。
汝が我がことばを聴いたなら、
そしてかの宝を見出したなら、
涙の地にて汝を待つ。】
私は小さく息を飲んだ。
おそらく涙の地がどこを指すか、分かる者は少ないだろう──恐らくトゥラダエより東に生まれた者でなければ。
大陸の中央より北、現在塩の荒野と呼ばれている土地は、かつて巨大な塩湖もしくは海だったと言われているが、誰もその時代を記憶していない。いま、その塩辛い土地では草花は育たず鳥が歌うこともなく、ただ歌う角と呼ばれる獣と、がらんどうに還ることを目指す《灰色の神殿》の神官たちが暮らすのみ。しかし私の故郷のあるオルゴンダエには、涙を流し枯れてしまった海の唄が残されている。
【我は泣き その涙は天へと昇った】
かの地にイシュミーアが?
彼は《神の気まぐれ》だ。砂を立ち止まらせ火に牙を隠させる彼にどれほどの祝福が与えられたか──それを考えれば、彼が何百年もの時間を持っていたとしても不思議ではない。誰も彼の墓を知らないのだ。
私は改めて碑文を読み直し、リドゥーケに尋ねた。かの神がイシュミーアを守ったとは如何なることかと。
──かつて、この土の神殿は《地の宝》を所有することで権威を示していた。
──欠けたる者たちは古から絶えることなく存在した。強大な祝福によって毀れた者と、それを妬む者たちによって。かの者たちは貴きものを毀つほど祝福されると信じていた。グロサーラの《気まぐれ》はかの者たちが鼠のごとく増えていると気づき、宝を奪われることを恐れた。
──あの者は、妄執を増幅させる偽りの神たる我に、宝を隠すようにと呼びかけた。我は見返りに、汝の舌で偽りを紡げと言った。あの者のことばは美しい。あの声で我がどのように響くのか興味があった。
──あの者は宝を私に託し、「私は《地の宝》を持つ」と語った。欠けたる者たちはそれを信じ、あの者を襲いに来たが、その前に《事実の神》がやって来た。
──ヘメリヤはまず、欠けたる者たちを破滅させた……あやつはかねてから偽りを信ずる者を嫌っていた。
──あやつはグロサーラの《気まぐれ》の喉を潰した。あの者は人というより神だ。あの者が偽りを口にすれば、事実すら曲げられるかもしれぬ。ヘメリヤはあの者を殺すつもりだったが、我がかの者を守った。
なぜ、と私は尋ねた。かの神は笑った。
──これから語られる物語からあの者が失われるのは惜しい……まあ、人を事実から隠すことが我が祝福でもある。思い通りに事が運ばなかったヘメリヤは、腹いせにこの町を滅ぼした。
つまり……リドゥーケはイシュミーアが声を失う原因を作ったが、伝承は間違っていなかったということか。
私は尋ねた。祝福した者を破壊され、グロサーラは何もしなかったのかと。
──ことばとはまじないだ。空の器が呼びかければ、あやつは応える。
私が問いを重ねようとした時、後ろから何か硬いものが落ちる音がした。
腐れチーズだ。暇を持て余して何かを叩き落としたらしく、してやったりという顔をしている。
それは、一エソフ(約36㎝)ほどの角杯だった。私がリドゥーケの方がを見ると、かの神は……面白がっているようだった。
──それこそが土の杯。人には見つけられぬはずだが……獣を連れた者が来るとは。
私は牝の梟山猫を撫で、その宝を手に取った。
それは驚くほど軽かった。大地の祝福を受けたダヤツィムによって生み出された、金属より強固な粘土の器。その杯には古の物語を描いた繊細な模様が彫り込まれ、同じ素材の蓋が付いていた。口の方と角の先に紐がくくりつけられ、持ち運びしやすいようになっている。
リドゥーケが私の隣に立った。
──見出されしもの、隠すこと能わず。
《地の宝》は見出された。封印を解いてしまった私には宝を守る術がない。《引力の神》ギニーシャの働きによって、大いなる力はあらゆるものを引き寄せるだろう。これをこの地に置き去りにするつもりはなかった……狂信者たちが強大な力を手に入れた時、何が起こるかを私は知っている。エヴェロイのように、私の故郷は崩壊した。
私はふと思った。宝をこの地から持ち去れば、イシュミーアの呪いはなくなるだろうか。彼のかつての言葉通り、これはこの地からなくなるのだから。しかし、それによってさらなる禍いを招きはしないだろうか……。
リドゥーケは言った。
──汝の欲するままに。それもまた一興。
神にとっては人びとの諍いなど戯れに過ぎないのだろう。
私はかの神と同じく、イシュミーアのことばを聴くことを願っている……彼が涙の地で待っているというのなら、宝を携えて彼を訪ねるべきではないか。
アリトゥリに持ち帰ることはできない。あの都市はその狭さに対し力を求める者が多すぎる……。
私は心を決めた。
私は塩の荒野への旅を始めることにした。私を支援してくれたアリトゥリの友人たちへは(私がこの禁忌の町に来たとは知らないはずだが)この書き散らしを報告書として届けることにする。
友よ、再び相見える時まで、どうか私や、私の手に渡ったものについては、あなたの唇に鍵をかけていて欲しい。
私はリドゥーケに感謝の辞を述べた。つまり、かの神が私の前に現れ、私に語りかけたことに対して。
かの神はからかうように言った。私の姿に馴染んだのか、その表情はいくぶん自然になっていた……偽りも馴染んでしまえば本物と見分けるのが難しい。
──汝は《偽りの神》の語ることを信ずるのか。我が語ることばすべてが偽りだとは思わぬか。
偽りだとしても、リドゥーケの語る物語はあまりに魅力的だった。そう伝えると、かの神は喜んだようだった。
私は 《地の宝》を布で包み、腰から吊り下げた。そして土の神殿を後にし、エヴェロイに別れを告げた。
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マグベルン・セナリトゥリアによる追記
この報告書をアリトゥリの私に届けた後、腐れチーズは一度オシュテㇴニークの元に戻ったが、北水節の終わりに再び便りをもたらした後はアリトゥリに留まった。ネコ科特有の気まぐれとも考えたが、おそらく探しに行く意味がなかったということだろう。