何もなかった物語。
消えていく。すべてから。
アイネが、消えていく。
ルクスが愛したアイネ。
ナーアの友だちのアイネ。
エイミーを変えたアイネ。
ロロを救ったアイネ。
ベルと喧嘩したアイネ。
ギルデとステアに愛されたアイネ。
血の繋がった両親のもとに生まれた、かけがえのないアイネ。
クレイアに大切に想われた、アイネ。
そのすべてが、消えていく。
なかったことになっていく。
いや、元々、何もなかったのかもしれない。
この物語は、白紙に戻る。
たった一欠片の紙片も残さず。
みんなから愛されていた皇帝は、消えた。
――これは、何もなかった物語。
***
平らなところで卵を割り、牛乳を加え、かき混ぜていく。今日は贅沢に、一人あたり、三個も卵を使ってみた。計九個。調味料で味を調え、泡立て器で大きな泡が立たないよう混ぜ、ザルでこして。熱しておいたフライパンに、流し込む。
フライパンの上で卵をがーっとかき混ぜ、ふわふわにする。ほどよい半熟具合になったところで火を止め、卵の上にケチャップライスをのせ、形を整える。
「いくわよ――せーのっ!」
フライパンをひっくり返して、お皿にのせる。三つ目も、無事、成功だ。キッチンペーパーで形を整えてから、ケチャップで文字を書く。
「よし、できた」
三人分のオムライスを机に並べ、隣と繋がっている壁を、雑にノックする。
少しして、隣の部屋の扉が開く音がした。しかし、足音はこちらから遠ざかっていき、その向こうにある部屋の扉をノックする。
「愛ちゃん、朝だよー。起きてー」
「んー……やっ」
「やっ、てめちゃくちゃかわいいな。でも、起きるよー」
「やあっ」
「まなちゃんが、ご飯作って待って――」
「さあ行きましょうか」
「ほんと、マナって、まなちゃんのこと好きだよね……。別にいいけどさあ」
なんて会話を聞きつつ、お茶とスプーンを並べていく。――間もなくして、二人の姿が現れた。
「まなちゃん、おはよー」
「おはようございます、まなさん。らびゅ」
起きたくないと駄々をこねていた桃髪の少女は、扉を開いた瞬間、私に抱きついてきた。いつもの流れだ。
「おはよう。邪魔だからどいてくれる?」
「ジャマッ」
固まる少女をその場に置いて、私はさっさと座ってしまう。
「おお、オムライスだ! いっただっきまーす!」
「いただきます」
「なっ! 私が最初に食べるの! まだだめなの! いただきます!」
彼女はオムライスを食べようとして――ピタリと、スプーンを止める。
「……ネボスケと書いてあります」
「あ、こっちには、アリガトって書いてある」
「なんでオムライスにネボスケって書くんですかっ、もうっ!」
ちなみに、私のオムライスには、オツカレ、と書いた。朝から三つもオムライスを作るなんて、私はよく頑張った。地味に手間もかけたし。
「どれが誰のか分かりやすいでしょ?」
「アリガトのほうがいいです! 交換しますよ、あかりさん!」
「いや、僕は別にどっちでもいいけど」
「ちなみに、ネボスケ以外のオムライスにはコーンが入ってるわよ」
「……うぅぅぅー!!」
彼女はコーンが苦手だ。それを知っていて、こう書いているのだから。
「嫌なら、明日からは早起きしなさい」
「……善処します、ふんだっ」
ぷりぷりと怒りながら、スプーンの裏でケチャップをならし、文字を消していた。
「そういえば、もうすぐテストだけれど、あかり、ちゃんと勉強してるの?」
と、少女と一緒にやってきた男の方に声をかけてみる。
「あー。ま、一応ねえ」
「へえ、めっっっっっっっずらしい」
「そんっなに溜める??」
「前期のテストは、全部きれいに赤点だったあのあかりが勉強してるなんて、嘘だって言われたほうが信じられるわよ」
「それ、どのみち信じてないよね??」
「私がついていますから。勉強しない、なんてことは許しませんよ」
「確かに、マナがいれば安心ね」
言われてみると、あのマナがついているのだから、あかりが勉強しないわけがない。それなら、少し、安心だ。
「じゃあ、前期はどうしてやらなかったの?」
「あーえっと、色々と、忙しくて?」
「どうして、やらせなかったの?」
「それは、その、色々と」
あかりもマナも、気まずそうに視線をそらし、口ごもる。その色々、がすごく気になるのだが、まあ、いいか。
「よくないな」
まるで、心を読んだかのような声が視界の外から聞こえて、私は思わず、オムライスを噛まずに飲みこんでしまう。
「けほっ、げほ、けほっ!」
「ま、まなちゃん、だだだ大丈夫!? こういうときって、お水飲ませるんだっけ!?」
「あわわわ私に聞かないでください!」
騒ぎながらも、背中を軽く叩いてくれるマナに感謝しつつ、あかりが注いでくれたお茶を飲み、なんとか、落ち着く。
「まなさん、生きてますか!? 死にましたか!?」
「この程度で死ぬほど、よわよわじゃないわよ……。見れば分かるでしょ……」
「いやあ、まなちゃんって、どっちかって言うと、ころっと逝きそうじゃん?」
「それはどういう意味かしら?」
目尻の涙を拭い、頼りない二人を睨みつけたあとで、元凶である声の主を振り返る。そこにいたのは、青髪の男だった。
「こんな時間から起きてるなんて、珍しいわね?」
「二人で話したいことがあるんだが、いいか?」
「すっごく急ね。食べてからでもいいかしら?」
「できれば、残りのオムライスは諦めてほしい」
彼がこんなにも真剣な顔をしているのは、珍しい。きっと、一刻を争うような状況なのだろう。
「食事中にいきなり、失礼ではありませんか?」
予想していた通り、マナが食いかかった。基本的には温厚で、誰にでも笑顔で接する彼女だが、この彼とだけは、本当に、相性が悪いらしい。
「分かってる。でも、今すぐに、来てくれ。頼むから」
「――ええ、分かったわ」
「ダメです! だいたい、まなさんは、この青髪に甘すぎるんです!」
「オレとしては、もっと甘々でもいいくらいだけどな――じゃなくて。今は、構ってやる暇はないんだ。悪いな」
「構ってもらっているつもりは――!!」
「ほらほら、愛ちゃん。あーん」
落ち着く様子のないマナの目の前に、あかりがスプーンを差し出す。目の前の誘惑に負け、マナがエサに食いついている隙に、私は彼の手をとり、駆けていく。
建物の外では、大きい鳥が、私たちの到着を待っていた。その鳥の背に乗り、いつも通りの空中散歩をする。ここなら、誰かに聞かれる心配はない。
「それで、話って、何?」
「これを、受け取ってくれ」
手渡されたのは、中にカレーでも入っていそうな、銀色のレトロなオイルランプだった。実物を見るのは初めてだ。
「これは?」
「その中には、願いを三つ叶えられる、『ランプの魔人』が入っている」
「え、あのランプの魔人!? 嘘、本物!?」
ランプの魔人と言えば、世界で最も有名なモンスターのうちの一種だ。簡単に説明するならば、願いを三つ叶えてくれると伝えられているモンスターなのだ。
「ああ。ただ、願いのうち、二つは使ってしまったんだ」
「一つ残ってるだけでも十分でしょ」
「そう言ってくれると助かる。――いいか。一度しか言えないから、よく聞いてくれ」
彼は、私を後ろから優しく抱きしめて、耳もとで、囁く。背中越しに伝わる熱に、心臓が震える。
「このランプの使い方を教える。先端の芯に火をつけて願いを唱えるんだ。呪文はこう。『プリハディート。ランプの魔人さん、来てほしいニャン』」
「え、ニャン??」
彼の声を耳元で聞ける幸せに浸っていたが、最後に何か、変なものが聞こえて、一気に熱が冷める。
「……マジなの??」
「大マジだ。なんなら、にゃんにゃん、にゃにゃにゃん、にゃーおにゃお、とでも言っておけばすぐに来る」
「ネコが好きなのかしら……?」
「はは。相変わらずだな、まなは」
なぜか、笑われた。
「でも、あたし、願いたいことなんて、特にないわよ?」
「――いいか。このランプは、一度きりしか使えない。どんな些細な違和感も見逃すな。できれば、願う前にオレに確認してほしいが、時間がなければ別に構わない」
「一つ聞きたいんだけど。どうして、あたしに渡すの?」
「まなにしかできないことなんだ。願いは、今日中に決めてくれ」
「今日中に――」
「いいか? すべてを、疑え。特に、ゴールスファの周りを注意深く観察しろ。オレから言えるのは、ここまでだ」
空の旅が終わると、彼は私の頭を撫でた。この、固く温かい感触が、私は好きだ。いつまでも撫でていてほしい――なんて、言えないけれど。
「大好きなオレの言ったことだ。一言一句、覚えてるな?」
「大好き……っ!? んん、普通に、ちゃんと、覚えてるわ。一言一句」
彼の顔がニヤついているのが、本当に、腹立たしい。それ以上に、自分が彼を好きすぎるのが、もっと、腹立たしい。
「そうかそうか。言ってみてくれ」
「プリハディート。ランプの魔人さん、来てほしいニャン」
「合ってるな。もう一つは?」
「にゃんにゃん、にゃにゃにゃん、にゃーおにゃお」
「うーん。手もつけたほうがいいかもしれない。ネコっぽく」
「こう」
「そんな感じだ。――ちなみに、最後のニャンと二つ目の呪文は嘘だ」
「は?」
「まなくらいかわいい子が、魔人さん来てください、とでも言えば、あいつはすぐに来るだろうな」
かわいい……。いやいや、そこじゃない。
「なんで、嘘ついたのよ?」
「そのほうが、かわいいまなが見られると思ったからだ」
かわいい……。
「ふっ。相変わらず、ちょろいな」
「ちょろっ……!?」
何度繰り返されたか分からないやりとり。だが、何度からかわれても、顔は熱を帯びてしまう。
「ちなみに、オレはもうすぐ、ランプのことも、願いのことも、忘れる。持ち主の手から離れると魔人のことは忘れてしまうんだ」
「そう。――分かった。ちゃんと、願ってみせるから」
「ああ、頼んだぞ」
こうして私は、大切な願いを一つ、手に入れた。




