水泡
気づいたら、首を絞めていた。僕の手の中で、彼女は気を失っていた。いつか、こうなるかもしれないと、分かっていたのに。一時の衝動が、抑えられなかった。
――ココロプカの夢は、左右の目で、それぞれ違う光景を映し出した。
右目には、父と母と叔母がいた。
左目には、ただ、アイネ様だけが映っていた。
初めは、ただただ、彼女が、憎かった。
世界で一番幸せみたいな顔をして。何も知らず、のんきに笑って。警戒心の欠片もなくて、いやに人懐っこくて。
いつか、彼女から母親を奪い、絶望の淵に追い込んで、残虐なやり方で殺してやろうと、そう思っていた。
だが、彼女は何もしていないのだということも、分かってはいた。彼女自身は、何も悪くないのだと。
恨みや憎しみを、押し殺して。いつの頃からか、底抜けに明るい彼女を、どうしようもなく、好ましく思っている自分に気がついた。醜い感情は、自分の中からなくなったのだと思っていた。
――違った。そうではなかった。自分の心に嘘をつきすぎて、見えなくなっていただけだった。
あの夢の中で、初めて目の前にする、生きた父と母を愛おしく思うほどに、彼女のことが許せなくなっていった。
あの夢の中で、思い描いていた通りの、彼女との幸せな日々を見せつけられて、もう全部忘れてしまいたいと、そう願った。
自分には、魔法がある。忘れることは容易い。
だが、両親のことをすっかり忘れてしまえば、僕はもう、僕でいられなくなる。父に、母に、愛された記憶は、心の奥底にほんのりとあるだけだったが、もしそれを消してしまえば、もう二度と、得ることはできない。
彼女が憎い。
それでも、彼女をただ真っ直ぐに愛してさえいれば、きっと、こんな気持ちは、いつかなくなるだろうと、そう思っていた。
そんなに簡単なものではなかったのだと、そう気づいたのは、すべてが終わったあとだった。
――憎悪の心に支配され、気づけば、こうなっていた。
僕が何をしたところで、勇者を殺せないのは分かっている。僕は魔王ではない。どれほど強く首を絞めて、気道を塞いだとしても、たとえ、心臓を止めたって、彼女は、僕には殺せない。
けれど、僕がしたことはなくならない。
「結局、こうなるのか」
愛を知る前に家族に先立たれて、家族が何かということも分からず。それでも、彼女とともにありたいと、そう願ったこと自体が、間違いだったのだろうか。
――自分が愛した人ですら、殺してしまったのだから。そもそも、こんな僕なんかに、誰かを愛することなんて、できるはずがなかったのだ。
ナーアの願いを奪い、代償を背負わせ、最愛の彼女の母親を、自分の身勝手な復讐のためだけに、過去に送った。
「そんな僕が、まともに人を愛せるわけがなかったんだ」
暗く深い湖にこの身を、背負った罪ごと、沈めてしまおう。彼女を失えば、僕にはもう、何も残らない。ナーアだって、二ヶ月後には僕を忘れる。
「さいごに一つだけ、わがままを聞いてもらえますか。アイネ様」
返事のない彼女を抱き上げる。まるで、人形のようにきれいだ。
「海底まで、ついてきてください。きっとあなたのことは、人魚たちが救ってくれるでしょうから」
僕が消えてなくなるまで、決して彼女を離さないよう、強く抱きしめて。僕はその身を、暗く冷たい湖に、投げうった。
***
瞳が黒いせいか、何も視界に映らない。
――否、そこは、暗い場所だった。暗くて、寒い場所だった。何度かまばたきをしているうちに、だんだんと、目が慣れてきた。が、よく見えない。
体をゆっくりと起こして、辺りを見渡し、光のある方へと真っ直ぐ向かう。体がふわふわと軽いせいか、なかなか前に進めない。
光のある場所に出て、やっとここが、海の底だということに気がつく。
「お、やっと起きたか」
かわいい声。これは、エイミーの声だ。
「上で何があったんだ? わたしが気づかなかったら、お前、死んでてもおかしくなかったんだぞ?」
「まー、色々とねえ。生きてたのは、多分、私が勇者だからだと思うけど、とにかく、助けてくれて、ありがとう、エイミーちゃん!」
どちらにせよ、ルクスに私を殺すことはできない。いや、この世の誰にも、できない。勇者であることは変えられない。そして、勇者である限り、魔王にしか、私を殺すことはできない。
肝心のその魔王――クレイアの弟は、私が殺してしまった。後継のいないまま。そして、世界から魔族と呼ばれる種族は、ほとんど、消えてしまった。
血の皇帝が、世界を変えすぎたのだ。世界はもう、元には戻らない。きっと私は、世界で最後の勇者なのだろう。
「……本当に、そう思ってんのか?」
――消えられるものなら、あのまま、消えてしまいたかった。
ぼこぼこと、水面に駆けていく水泡を目で追う。そのどれもが、どこかで消えて、なくなっていた。当然だ。海底で生まれた泡が、水面までたどり着けるはずがないのだから。
「うん、大丈夫大丈夫! あ、お腹空いたから、何か食べたいかも」
「まあ、好きなだけここにいろよ。わたしは、ご飯を採ってくるから」
エイミーは、やっぱり、いい子だ。そういえば、私よりずっと歳上なんだっけ、などと思いつつ、再び、寝床に背を預ける。それから、静かに水泡を眺める。
その一つ一つに、大切な人たちの顔が思い浮かぶ。私を大切にしてくれた。私が大切にしたいと思った、みんなの顔が。
「どうせみんな死ぬんだろうなあ」
今までも、これから先も、一体、どれだけの心が傷ついて、どれだけの想いが、死んでいくのだろう。
私が生きているだけで。
どうせみんな死ぬ。
私の知らないところで傷ついて、私の大好きな優しい人たちは、きっといつか、変わってしまう。
どうせ、どうせ、みんな、死ぬ。
みんな、心の奥底には、暗い心を持っている。ルクスがたまたま、最初だっただけだ。みんな同じだ。
どうせ、どうせ、どうせ、みんな、死ぬ。
ステアとギルデは、私より、ママの方が生きていればよかったと、きっとどこかでは思っている。
ベルだって、私よりも、パパとママの方が好きだったはずだ。私じゃ、ベルの遊び相手にもなれない。
ロロなんて、私のことを、なんとも思っていない。きっといつか、私はあの子に不要だと判断される。
ナーアも、すぐに、私のことなんてすっかり忘れてしまって、また、あの冷たい目を向けてくる。何度も、友だちになれるとは、限らない。
クレイアは――クレイアはすぐに、過去へと戻る。私の前からいなくなってしまう。この先、永遠に会えないのなら、死ぬのと同じようなものだ。
何も知らずに、あんなにものんきに。
守られてばかりで、何も知らずに。
どれだけの犠牲の上に生きているかも知らずに、のうのうと。
「ははは」
そんな風に生きてきたツケが、回ってきたのだろう。
ああ、愚かだ。馬鹿すぎて、笑える。
消えたい。この世界から。
最初から、私がいなかったことにしたい。
私さえいなければ、ここには、もっと、幸せな未来があったはずだ。
夢で見たような、ルクスが家族と一緒に、なんの憂いもなく、ただ純粋に笑って過ごせる、幸せな未来が。
ルクスだけじゃない。血の皇帝に命を奪われたすべての人たちが、きっと、今も、幸せでいられた。私一人さえ、いなければ。
――そうだ、『願い』があるじゃないか。
人生で一度だけ、なんでも叶えてくれる願いの魔法が、私にはある。
ただ一言、『消えたい』とさえ願えば、私の望みは達せられる。
すごく、簡単なことだ。
「私の、願いは――」
瞬間、脳裏をよぎった。
この命が、誰から授けられたものなのか。
そこに、どんな想いがあったのか。
その願いで、私を守ってくれたのは。
ああ、本当は、分かっている。私が、どれほど、愛されているかなんて。勝手に死ぬなんて許されないくらいに、たくさんのものをもらってきたんだって。
――でも、止まれないんだ。
それ以上に、自分が苦しめた人たちのことが。
大好きなあの人の、怨嗟の表情が、忘れられないから。
「消えること。今すぐ、私を消して。みんなの記憶から。記録から。並行する世界から。天界、天上、地上のすべてから。最初から、いなかったことにしてほしい。――もう、消えたい」
全身が、泡に包まれていく。足元から、ぶくぶくと、溶けていく。溶けて、なくなっていく。肌を撫ぜる、柔らかい泡の感触が、心地いい。
このあぶくが、たった一つでも、水面に届いたなら。誰か、気づいてくれるだろうか。自分から消えたいと望んでおいて、情けない話だけれど。
やっぱり、最後に、言いたかったな。
――私もあなたが好きです。って。




