誘拐されました
ママ、パパ。そっちはどう? アイネはね、誘拐されちゃった、てへっ。もしかしたら、もうすぐそっちに行くかもしれないから、美味しいお菓子をたくさん用意して待っててね。って、ママはまだ生きてるんだってば。
「うわーん! ママー!」
その泣き声に、亡き父と失踪した母とへ現実逃避していた思考が、呼び戻される。――どうやら、小さな女の子が一人で誘拐されてきたようだ。
「安心しなさい。誘拐されたってことは、すぐには殺されないから。……まあ、時が来れば殺されるけど」
「うわあああん!!」
クレイアが対応しているみたいだが、一言余計し、幼い顔立ちではあるが、目つきは怖いし、逆効果でしかない。
――私が泣き止まなかったとき、みんな、どうしてくれただろうか。そんなことを思いながら、今、私にできることを考える。
そうして、女の子の頭を撫でていると、自分が頭を撫でられたときの記憶が、よみがえってきた。
『アイネ──』
『やだやだやだ! ママが置いてっちゃったら、私、私っ、わ、悪いこと、たくさんするもん!』
そんなことを言って、必死に引き留めて。それでも私は、ママを止められなかった。……いや、今はそんなことを考えている場合じゃないか。
「あなた、お名前は?」
「……マナ」
その名前に、一瞬、全身が凍りついたように、硬直する。
たまに、いるのだ。ママと同じ名前の子どもが。独裁政権を始めてからは流石に減ったが、ママは昔、世界的に人気のある王女だったため、アイドルの名前をつけるような感覚で、「マナ」と名づける人が、当時、急増した。
思うところはあるが、それは目の前の少女をいたずらに不安にさせていい理由にはならない。
「マナちゃんは、ママが好き?」
「うん、大好き!」
涙で光る目を、きらっと輝かせて、少女は、あのねあのねと、母親の話を始める。優しいとか、美人だとか、いつも遊んでくれるとか。その嬉々《きき》とした表情が、すごく、羨ましく思われた。
「じゃあ、強くなって、ママたちを安心させてあげよう!」
「――うん!」
私は、ママが大好きだけど、ママのことはほとんど知らない。ギルデもステアも、よくママのことを話してはくれるが、私が知りたいことは、何も教えてくれない。
油断している隙に、私の頭にも手がのせられた。
「アイネは、まあまが好き?」
「うん、大好きっ!」
クレイアに不意をつかれて、反射的にそう答えてしまってから、顔が熱くなってきた。十五にもなって、恥ずかしい。
「そう。――よかった」
クレイアは、心底安心したような顔をしていた。――その顔を見てほっとしたからか、このタイミングで、思い出してはならないことを、思い出してしまった。
「クレイアさん」
「どうしたの?」
「私、さっき起きたときから、ずっと、トイレに行きたくて」
「……みんな、後ろ向いてるから」
「嫌なの! まだ乙女を捨てたくないの! それにこんなところで花摘んだら、沽券に関わるでしょ!?」
「じゃあ、ここから出るしかないわね。出てもすぐにお手洗いが見つかるかは分からないけれど」
「ホント、マジで、限界……!」
意識し始めたら、どんどん、行きたくなってきた。ここが草地ならまだいいが、床も石だ。吸ってもくれない。終わった。
そのとき、この場の誰より早く、私の耳が足音を捉えた。誰か来たのだ。
「助けて! 早く助けて! 誰でもいいから!」
鉄格子をがしゃがしゃ揺らして、引っこ抜き、足音に向かって駆ける。――いた。
「なっ……! 貴様、一体どうやって抜け出した!?」
「トイレ! 早く! 漏らしていいの!?」
相手の顔色などうかがう余裕もなく、私はその人に、無理やり近くのトイレまで案内させた。
「ふー、すっきりした」
「あんた、馬鹿なのか、天才なのか、分かんないわね……」
その人とともに、牢に戻ってくると、クレイアだけが残っていて、それ以外には、誰もいなかった。
「あれ? マナちゃんたちは?」
「みんな、とっくに逃げたわよ。あんたが鉄格子をぶち破ったから」
「――ハッ! そっか、壊せばよかったんだ。なんとなく、壊しちゃダメなのかなって思って」
「馬鹿ね」
「そ、そんなこと言ったら、クレイアさんだって、さっさと逃げればよかったでしょ」
「あんたが素直に戻ってくるだろうなと思ったから、待ってたのよ」
何も言い返せなかった。
これで脱出できる――なんて思っていると、後頭部に固い何かが当てられた。直感で、ヤバいと理解した。銃口だろうか。
「お前がこれを壊したのか」
「いやあ、えっとお……」
「ええ。壊したのはこの子よ」
「え、言っちゃうの!? クレイアさんの、薄情者!」
「あたしだって痛いのは嫌だもの」
「信じた私が馬鹿だった!」
そう叫ぶのが先か、後頭部の感触が消え、バサッと、倒れたような音が聞こえた。ゆっくり下方を振り向き、床で伸びている男と、力なく握られた手元の銃を視界に入れる。一体、何が起こったのか。
「後ろ、もう一回、よく見てみなさい」
もう一度振り向き、よく見ると、倒れた看守とは別に、足があることに気がつく。ゆっくり顔を上げると、緑がかった金髪をお団子にまとめ、ターコイズの瞳を眼鏡越しに光らせる、私とまったく似たところのないその人――ステアが立っていた。視認してやっと、気配に気がつく。
「ステアさん――」
眼鏡の奥からのぞく眼光の鋭さに、一歩、後ずさると、ステアは二歩、歩み寄ってくる。
――怒られるっ。
目をぎゅっとつむっていたが、構えていた頭への痛みは来ず、代わりに、全身がふわっと、温かい感触に包まれた。
「無事でよかった……」
温かい安堵の声に、安心する一方で。
――その熱が、とても、寂しく感じられた。
ステアの抱擁を押しのけて、私は三歩下がり、クレイアの手をつかむ。
「アイネさん?」
「ごめん、クレイアさん!」
隙だらけのクレイアを抱え、ステアの一瞬の隙をつき、その脇をすり抜けて、全速力で、走る。
「ちょっ、ちょっと、自分で自分を誘拐してどうすんのよ!」
「だって、だって……っ」
ステアと再会したときには堪えられた涙を、走りながら、雨で誤魔化す。
適当な公園の遊具で雨宿りをしながら、クレイアの袖を、頼りなくつかむ。すると、彼女はため息をついて、
「落ち着いたら帰るのよ」
落ち着くまでは居ていいと、そう言ってくれた。