ナーアの過去
「あたし、八歳までの記憶がないんです」
そう、ナーアから告げられたのは、昨日から降り続いている雨が、初雪に変わり始めた、薄暗く、寒い朝だった。ナーアと出会ったのは、五歳のとき。そして、七歳のときに、別々になった。
「じゃあ、私のこと、まったく覚えてないの……?」
「はい、すみませんが」
最初に、誰、と言っていた言葉が、そのままの意味だったのだと、初めて、気がついた。ナーアのことだから、いつもの憎まれ口の延長か、何か理由があるのだろうと、勝手に、思っていた。
「――そっか。あ、でも、そんなに落ち込まないで! 思い出なんて、これからいくらでも作れるんだし!」
笑顔でそう言ってみるが、ナーアの顔は、曇ったまま。これは、出直したほうがよさそうだ。
「ちなみに、どうして忘れちゃったか、聞いてもいい?」
「ルクスが、消したそうです」
「え、ルクスが? ……なんで、そんなこと」
「血の皇帝を倒すために」
「ママを」
水面にぼたぼたと、血を垂らしたみたいに、視界に、赤が広がっていく。遠くで、耳鳴りがする。
「はい。血の皇帝を倒すために、ルクスには、私の記憶が邪魔だったようで――」
「分かった。もういい。私、用事を思い出したから」
強くそう言って、耳を塞ぎ、私はナーアに背を向けて走り出す。
――が、ナーアは、そんな私を追いかけてきた。
「なんで追いかけてくるのよ!?」
「ただ、謝りたくて――」
「少しでいいから、一人にしてっ!」
「……嫌!」
慣れたお城の中ならば負けないと、そう思っていたのだが、やはり、速い。
なんとか撒こうと、後ろばかり気にして、前方の注意がおろそかになっていることに、気がつかない。
――角を曲がった先に、ステアがいた。だが、この速度では、すぐには止まれない。
なんとか避けようと、無理に体をひねり――顔から床に突っ込みかけて、ナーアに腕をつかまれ、助けられる。
「……! アイネさん、大丈夫!? 痛いところはない!?」
怒るよりも先に心配してくれる。そんな、昔から変わらないステアの想いが、真新しい傷口にしみる。
「うん、平気平気。ナーアが助けてくれたから。走って驚かせちゃって、ごめんね!」
だから、じくり、と痛む足首を無視して、私は足早にステアとすれ違い、廊下を早歩きで進んでいく。
そんな私を、なおも、ナーアは追いかけてきた。
「待ちなさい!」
怒声とともに、ナーアに腕をつかまれる。自室の前まで来ていた私は、そのまま、彼女を引き連れて、ぼすっ、と、ベッドに腰かける。
「何」
「足を痛めましたよね。見せてください」
「いいよ。どうせ、魔法じゃ直せないし」
「魔法じゃ直せない、とは?」
「かくかくしかじか、とにかく、魔法は効かないの」
「……そう。同じなのね。まあ、違うとも言えるけれど」
「え?」
「いいから、見せなさい」
ナーアは、私の足をきゅっと押す。
「いっっっ!?」
あまりの痛さに、声にならない悲鳴を上げると、彼女は包帯で私の足首を固定し始めた。
「魔法なら一瞬ですが、魔法が効かないのであれば、一ヶ月は安静にしていてください」
「はあ!? 一ヶ月!? そんなの、無理に決まって――」
「骨にヒビが入っているんですよ!? むしろ、どうしてあんなにも普通に歩けるんですか!? どれだけ強がりなんですか、このアホ!」
「アホ……!?」
「アホでないならバカです」
「ばっ……言ったわね! 私は、皇帝になるんだから! バカでもアホでもないわよ!」
「ぎゃーぎゃーとうるさいんですよ、あなたは。サルですか」
「え、サル? なんで急に褒めたの?」
ナーアは大きなため息をつき、私の隣にぼふっ、と腰かける。だって、サルってすごいじゃん。なんでため息ついたの?
「皇帝になるんですよね? 今ここで無理をしたら、足首はもう、完全には治らないかもしれませんよ」
「……それでも、今しかないの」
「何をそんなに焦っているんですか?」
「何をって――戴冠式まであと少ししかないんだから、焦るに決まってるでしょ。まだ、全然、何もかも、足りてないんだから」
「――分かりません」
「はあ?」
「皇帝になってからでは、遅いんですか? 皇帝になる前に、完璧にならなくてはいけないんですか? 実際になってみてから学ぶことだって、たくさんあると思いますが」
「完璧……?」
ナーアは、何を言っているのだろう。
「完璧になんて、なれるわけないでしょ。それ以前に、このままじゃ、きっと、皇帝になることすらできない。ギルデにはなれるって言われてるけど、何もかもぜんぶ、私には足りないの。あ、卑下してるわけじゃないから。単なる事実だから」
「――確かに、あなたには、足りないものがありますね」
すると、ナーアは、私の部屋にある本を、魔法で取り出してきた。表紙に、問題集、と書かれているのがかろうじて見えた。
「世界を征服するにあたって、皇帝が始めに行ったことは?」
突然始まったナーアクイズに、私は淡々と答える。
「部下の整理。近しいものの心を魔法で読み、反旗を翻す可能性のある芽をすべて切り捨てることにより、恐怖で支配した。唯一、レイ・クラン・ウィリアーナだけは、口答えが許された。その後、皇帝は各地の権力者たちに、南の大国、カルジャス王の首をさらし、服従か死かの二択を迫り、ほぼすべての国を、自らの支配下に置いた」
「次。ルクス教皇は、ミーザス教国(当時のミーザス公国)をどうやって鎮静化させたか」
「新しい宗教を持ち込み、それによって国を統一した。平時であれば、宗教など歯牙にもかけない国民性であったため、皇帝が不安定な時期を狙い、心の拠り所とした。皇帝が不安定であることは、処刑数の変動、空模様、魔力の流れ等により判断した」
「では、最後の質問です。――もし、あなたの身近な人があなたを裏切ったら、どうしますか?」
「裏切りが判明した時点で、身体および魔法の自由を奪う。その後、尋問室で丁重に理由を問いかけ、罪の有無を皇帝自らが判断する。有罪であれば、迷いなく切り捨て、無罪と判断した場合には、一切の罰を与えない。判断基準に私情は挟まず、既存の倫理観によってのみ判断する。既存の倫理観では判断できない問題であった場合、皇帝の一存により判断を行う」
「言うのは簡単です。――でも、本当にそれができるんですか?」
「……何が言いたいのよ」
「あんたに足りないのは、知識や体力じゃない。もっと別のことだってこと。できるっていうなら、証明してみせて」
「人を、殺せって言うの?」
「はあ。なんっにも、伝わってないわね。そもそも、あんたみたいな腑抜けに、どうやって人が殺せるっていうのよ? そんなんで、本当に皇帝になれると思ってるわけ?」
「……足りないってことくらい、自分が一番よくわかってる。それでも、ママが信じた人たちを、私は信じる。私がダメでも、きっと、みんなが助けてくれる」
信じるまでに、いくつもの壁があった。今だって、すべてがきれいに収まっているわけじゃない。ママやパパについて、教えてもらっていないことも、まだまだ、たくさんある。
それでも、今は、信じられる限り、信じてあげたい。
「そういうことが言いたいわけじゃないって、さっきから言ってるのに……。だいたい、助けてくれるって、皇帝なんだから、一人で決めなきゃいけないことだってたくさんあるでしょ」
「分かってるよ。そのために、毎朝、ジョギングしてるんだから」
「……じょぎんぐ?」
皇帝というものは、孤独を感じずにはいられない。ママも、時折、どこか遠くを見つめて、思考の海から、なかなか帰ってこないことがあった。
その孤独を紛らわすためにと、私は幼い頃から、色々なことを試させられた。好きなことを見つけ、趣味とすることで、平常心を保つのだとか。私の場合はそれが、走ることだった。
「散歩もダメなんでしょ?」
「はい。控えたほうがよろしいかと」
「ジョギングも、散歩もできなかったら、私、多分だけど、どうにかなっちゃうよ。他のことをして、気分を紛らわせてるだけだから」
少し前までは、クレイアが心の拠り所となっていた。そのクレイアの石像は、現在、ステアが管理してくれている。毎日磨いているらしく、この間見に行ったら、ピッカピカになっていた。
ギルデやステア、ベル、ロロは、私の大切な家族だ。けれど、だからなのか、素直に頼れないところがある。
本当の家族だったら。ママやパパになら、もっと上手に甘えられたのではないか――。そんな酷いことを考えたりもする。
今でも、十分、甘やかしてもらっている自覚はある。それは、すごくありがたいことだけど、それを、ありがたいと認識してしまっている時点で、きっと私は、誰かに甘えるということが、下手なのだろう。
両親やベル、ロロと本音をぶつけ合えたのは、全部、クレイアのおかげだ。彼女がいなければ、私はきっと、一人で悩み、答えを出していただろう。
「……あたしが、付き合ってあげるから」
「え?」
「だから。あたしが、色々、その、話したりとかして、気を紛らわせてあげるから。だから、まずは自分を大切にしなさいよ。――さっきはあんなこと言ったけど、あんたならきっと、いい皇帝になれると思うから」
こ、これは。ま、まさか。
「つ、ツンデレだ……」
「はあ?」
「いや、クーデレ? むしろ、デレデレかも……」
「痛い方の足ねじ曲げるわよ」
「ゴメンナサイ」
なんだかおかしくて、私が吹き出すと、ナーアもつられて、頬をひくひくさせていた。




