盗まれた蜜
壁を駆け、ベランダを飛び移り、屋根を飛び越える。かつての王都、今の、セトラヒドナの光景だ。
これは、昔の夢、だろうか。
「あ、アイネ様、お待ちください……!」
「もう、ルクスったら、本当に体力がないのね。そんなことじゃ、私のお付きは務まらないわよー──ぎゃふん!」
何かにぶつかって、私は屋根の上で尻もちをつく。ルクスの方は、壁すらろくに走れないため、地上で膝に手をつき、息を整えていた。
そちらに気をとられている隙に、私は目の前の小さな影に捕獲される。
「はい、アイネ様、捕まえました」
「ナーア、いつからそこに!?」
「はい。アイネ様が腑抜けた顔で私のところに突っ込んでくる前からです」
「腑抜け……!?」
「はい。腑抜けた顔のアイネ様。お約束通り、勉学に戻っていただけますね?」
「腑抜け腑抜けって失礼じゃない! お付きとして、その態度は見逃せないわ!」
「はい、そうですか。では、アイネ様とも今日までのお付き合いということで、辞職させていただきます」
「辞職……!? ま、待って、ナーア! 私、そんなつもりじゃ……」
「はー、せいせいするわ。もうあんたみたいな、手に追えない、人質のお姫様の相手をしなくて済むんだから」
「う、うぅっ……うわあああん!!」
ナーアがしまった、という顔で耳を塞ぐ。なんだなんだと、私の泣き声に、住民たちが顔を出す。
──してやったりだ。私をいじめるからこういうことになるのだ。ざまあみろ。
しかし、住民たちは私たちの姿を確認した途端、そそくさと窓を閉め、室内に戻っていく。
「うぅ……なんでぇ……!?」
「またいつものアレか、という心情でしょうね。この辺りの皆さんも、さすがに慣れてきたのかと」
「もう! 明日から別のところ走る!」
「別のところと仰いますが、もうどこを走っても同じ反応だと思いますよ」
「ぐぬぬ……」
すると、そんなに身長差のないナーアに、私はひょいと抱き上げられる。
「さあ、行きますよ。お姫様」
「やだやだ! 勉強なんてしたくない!」
「勉強をしないと、頭が悪くなってしまいますよ? 今でさえ馬鹿なのに」
「……ちょっと優しくしてあげたからって、調子に乗るな! やっぱりクビ! 即刻クビ! 今すぐクビ!!」
「ルクス、行くわよ──って、あんた、何してんの?」
私を抱えたまま、三階の屋根から飛び降りて、ナーアはルクスの横に並ぶ。見ると、ルクスは腕いっぱいにお菓子を抱えていた。
「もらった。町の皆さんから。三人で食べてって」
「あんたね……。本当は、町の方々には、何ももらっちゃいけないのよ? 分かってる?」
「うん。ちゃんと、三回、断ったよ? でも、色々ポケットに入れられたりして、気がついたらこんなことに」
「……まあいいわ」
そう言って、ナーアは、ルクスが抱えている一口サイズのチョコレートを、口に入れる。
「あ、お行儀が悪いわよナーア!」
「自分が食べたいからって、妙な言いがかりはやめてください」
「腕が疲れるから、早く帰ろうー」
「ええ、そうしましょう」
「ちょっと! 私にもチョコ、食べさせなさいよ!」
「勉強が終わるまで、おやつはお預けです」
「なっ……!?」
「頑張りましょう、アイネ様」
「やだやだやだやだいーやーだー!!」
じたばたともがくも、地面に足はつかない。そうして、なすすべなく、私は、城へと連れ戻されたのだった――。
***
――ブンブンという音で、私は目覚める。ヘッドホンを手で押さえながら辺りを見渡すと、
「なんじゃこりゃーっ!!」
無数のハチプーたちに囲まれていた。黄色と黒のしましまパンツに、ぷっくりとした手足。赤ちゃんがコスプレしているみたいな姿だが、背中にはちゃんと飛ぶことのできる羽がついている。
ちなみに、これだけ叫んでも、クレイアはぐっすりだった。空はまだ薄暗く、かなり早い時間に目覚めてしまったのだと分かる。クレイアが起きるまでいかほどか。
「初めまして、ですね」
――突如、目の前に現れた影に、私は硬直する。まったく、気配に気づかなかった。
顔を上げた先にいたのは、黒髪の美しい女性だった。艶やかな髪も、彼女自身も、そのすべてが美しい。
その女性には、触覚と羽と、そして何より、背中に大きな針がついていた。
すぐに私はヘッドホンを外して、居ずまいを正す。
「ハニーナ……様、ですか?」
「そうかしこまらなくていいですよ。アイネ様」
クレイアから事前に聞いていなければ、なぜ名前を知っているのかと、余計な警戒をすることになっていただろう。この様子だと、私たちが巣へ向かっていたことも知っていたみたいだ。
それにしても、威厳、というのは、こういうことを言うのだろう。思わず背筋を伸ばしてしまうような雰囲気が、彼女にはあった。どうやったらこんな風になれるのだろうか。すごく、憧れる。
「えっと、ハニーナ様は、なぜ急にここへ?」
「……実は今、大変なことが起こっていて」
「大変なこと?」
「ボイスネクターが、何者かに盗まれているみたいなんです」
「ボイスネクター――って、世界中の植物の味を決めてるっていう、あの?」
蜂歌祭で女王の歌声から取れた蜜を、ボイスネクターと呼ぶ。世界中のすべての魔法植物は、ボイスネクターから魔力を吸収して育っている。
「それが、ここ数日、毎日少しずつ、減っていっているんです」
「え、あの……つかぬことをお伺いしますが、あれって、美味しいんですか?」
「美味しくは、ないですね」
「やっぱり……」
それならなおさら、なぜ盗んでいるのかという話になる。
「食べる以外にも使い道はありますよ」
食べる以外、思いつかなかった。しっかり見抜かれていて、恥ずかしい。
使い道と聞いて、ふと、クレイアのことが思い出される。彼女こそ、一体、何を作ろうとしているのだろう。
「使い道というと、例えば?」
「魔法薬の材料、とか。工業や農業に使うには、使い勝手が悪いですし。料理なんてもってのほかですから」
「薬……」
とすると、クレイアは何かしらの、怪しい薬を作っていることになる。本当に、何を作っているのやら。恐ろしくて聞けない。
「当然、監視はつけてるんですよね?」
「はい。それでも、どうしても、捕まらなくて」
「蜜って、そんなに減ってるんですか?」
「……現時点で、残りは、ほぼゼロに近いです」
「え、じゃ、じゃあ、この先三百年の魔法植物は――」
「このままだと、育たなくなって、しまいます……っ」
目に涙を浮かべるハニーナを、私は慌ててなだめる。先程までの威厳は一体、どこに消えてしまったのか。
「だ、大丈夫ですよ! 私が、歌いますから!」
「……アイネ様が?」
「はい!」
「――それは、現段階では、無理ですね」
どういうこと?
「正しく女王であるものの歌からしか、ボイスネクターは作れないんです」
「正しくって、どういうことですか?」
「さあ……。私にも分からないのですが、その資格がない者が歌ったときには、私は理性を失って、その者を殺すことになっています」
「それは、ちょっと笑えないかも」
逆に言えば、女王の資格があれば、誰でも歌えるということか。
「でも、蜂歌祭は三百年に一度なんですよね? いいんですか?」
「はい。三百年分の蜜を作っている、というだけで、要件さえ満たせば、儀式はできます」
「じゃあ、その資格っていうのがあればいいんだ」
クレイアなら、何か知っているだろうか。世界一知識があり、ママよりも賢い、この人なら。――かわいい寝顔を見せている今は、すごそうには見えないけど。
「それで、どうしてわざわざここまで来たんですか? あと二日もすればたどり着いてたのに」
「実は、今までの減りから考えると、今日ですべての蜜がなくなってしまうんです」
「え!? 大ピンチじゃないですか! クレイアさん、寝てる場合じゃないよ……!」
「彼女は起きないみたいなので、私たちが運んでいきます。来ていただけますか?」
「もちろん! 力にならせてください!」
ブーンという羽音に耐えながら、私とクレイアはハチプーたちに、巣まで運んでもらった。
ここまでされても、クレイアはぐっすりだった。




