彼女の倫理
「エイミーちゃーん!!」
大声で呼ぶと、なぜかその場に止まっていたエイミーは、振り返り、私を緑の瞳で捉えると――表情を一変させた。
それは、罠に飛びこんだ獲物を狙う狼を思わせるような、猟奇的で、本能的な、獣の顔だった。表情のない小魚たちも、本能で危機を察知し、恐れ、慌てた様子で逃げ出すほどに、おぞましく、しかして、見とれてしまうような顔だった。
背筋が、凍る。
「なんか、やばいね。うん」
独り言の間にも、エイミーはぐんぐん私のもとに向かってくる。前のエイミー、後ろの群れ、これは、詰みだ。特に前! 怖すぎるってば!
いーや、まだだ!
とにかく、必死に泳ぐ。どこかに引っかけたようで、腕から血が滴っているが、そんなことに構ってなどいられない。
「地獄に堕ちろおおおニンゲン風情があああ!!」
「エイミーちゃんからそんな言葉聞きたくなかったあ!!」
捕らえられる直前で、私は懐から、マンドラゴラを取り出す。そして――海中に放ち、耳を塞いだ。
「きいええええあおおおううえええいい!!」
「ぎやあああっ!?」
水中では音がよく伝わる。どうやら、この声は、人魚たちにも効果があるみたいだ。後ろ髪を引かれる思いでマンドラゴラにサヨナラをして、私はすぐにその場を離れる。
どこから声を出しているのやら、なんて思いながら、エイミーから、逃げる。
が、そう簡単には逃がしてくれない。群れはなんとか引き離せたが、群れの先頭を泳いでいるエイミーだけが、立ち直りも、泳ぎも、尋常じゃなく、はやい。
いくら本能で逃げたとしても、これだけ速さに差があると、逃げきれない。マンドラゴラは、海水をたくさん吸って、いつしか沈黙していた。
「お姉ちゃん遅いよ? 遊んでるのかな?」
耳元で蠱惑的な囁きが聞こえる。――あ、オワタ。
「あはははは! 楽しませてもらったよ!」
「完全に悪役のセリフじゃん!!」
桃色のヒレが、体に巻きついて、締めつけてくる。これこそ、血の色じゃないかと思うほどに、美しいその輝きが、今だけは恐ろしかった。
「ぐっ、があっ……!」
「ほらほら、速く逃げないと。死んじゃうよ?」
苦しい。口から空気が抜けていく。苦しい。息ができない。苦しい。窒息する。怖い。少しずつ、苦しさがなくなっていくのが、怖い。楽になってしまったら――。
「たす、け……」
声の届かない海の底。もし、ママがいたなら。私以上に耳のいいママが、いてくれたなら。息の足りない、こんな声でも聞きつけて、きっと助けに来てくれるのに。
クレイアに、行き先だけでも伝えておけばよかった。
大人しくお城にいるべきだった。
ギルデやステア、ベルと、仲直りしておけばよかった。
――ロロと、もっとちゃんと、話をすればよかった。
「アイネ――」
声が聞こえる。近くにあるはずの声が、遠くに聞こえる。
「アイネ! なんで抵抗しないの!」
はっとする。私は、いつから、諦めていたのだろう。どうして、抗おうとしなかったのだろう。何もかも、諦めてしまったみたいに。
それとも、誰のことも、心の底では、信じていないからだろうか。
声の通りに、私は全力でエイミーに抗う。
すると、いとも簡単に解放された。私はどれだけ、自分の実力が分かっていないのだろうか。こんなの、拘束でもなんでもないじゃないか。心で負けて、どうする。
そんな反省をする余裕があるくらい、私は落ち着いていた。ただ、泳ぎ続けて体力は消耗しきっていた。逃げろと言われても、もう、動けない。
それを感じ取ったからか、華奢な体が私を抱えて、人魚たちから遠ざかっていく。同じように疲れを見せるエイミーより、遥かに速い。
「待て! ニンゲン! マゾク! 私は絶対に、お前たちを、許さない!」
エイミーの怨嗟の声に、悲しい響きが混じったような気がした。
***
やっとの思いで、噴水から飛び出る。私を抱えてここまで泳いできた少女は、地面に手をつき、肩で息をしていた。髪から水滴が滴り、服もびしょびしょだ。
偶然、そこにいた昨日の三坊主は、すごく驚いた顔をしていたが、エイミーは来ないと伝えると、つまらなさそうに帰っていった。それを見届けて、私は一度、深呼吸してをし、声をかける。
「……助けに、来てくれたんだ。――ロロ」
ロロは、顔にしたたる水を拭って、私の顔を横目で見る。
「血のにおいがしたから。アイネが、危ないと思って」
「どうしてすぐに来られたの」
「ずっと、近くで見守ってたから。噴水に入るとき、一緒に飛びこんだ」
――まったく、気づかなかった。
知らないうちに、ずっと見られていたという事実が恐ろしくて、私はただただ、身震いする。
「傷、見せて」
「いい。ただのかすり傷だから」
だから、少女の親切にも、すげない態度をとってしまう。
彼女はもともと、キュランという、血を吸う種族だ。
数年前に魔族は滅びたため、今では彼女も――本人いわく、血を吸うことはできるらしいが――間違いなく、人間だ。
「なんともない?」
ロロから心配の声をかけられた。心配の声なのに、彼女がとても恐ろしいモノに見えた。少なくとも、家族みたいに仲良しな彼女に向ける感情では、決して、ない。
「平気。自力で脱出できたし」
「アイネは馬鹿だから、しょーがない」
「……よく、ふざけられるよね」
私を元気づけようとしたのかもしれない。その思いやりを、ついこの間までなら、素直に受け取れていた。でも、今は、無理だった。
助けてはくれた。でも、彼女は、自分の家族を殺した。それなのに、よくもまあ、平然としていられるものだと、思ってしまったから。
私なんて、一人の命を奪っただけで、しばらく、足が震えて立てなかったのに。今でもずっと、ありもしない視線に怯えているというのに。
「無事で、よかった」
その笑顔ですら、貼りつけただけのものに見えてしまう。
ロロの心が、分からない。聞こえる音が、どんな感情で、何を感じていて、何を考えているのか。少しも、分からなくなった。あのときから。
目を見て話しているつもりなのに、どうしても、彼女が信用できない。発言のすべてに裏があるように思えて仕方がない。
もう、誰も疑いたくなんてないのに。
「アイネ、信じてくれる気になった?」
信じたい。
でも、どうしても、信じられない。
今まで、どうやって話していたのだろう。
――そのとき。遥か遠くから、聞き覚えのある悲鳴が聞こえた。
聞き間違いかと思ったが、その後も立て続けに聞こえてくる。間違いない。私が声を間違えるはずがない。ママ譲りの、優れた聴覚を持っているのだから。
「ごめん、私、行かなきゃ!」
この場から離れられたことに、安堵して。直後、大きな罪悪感に襲われる。だが、ロロを連れていくわけにはいかない。
なんとなく。なんとなくだが、ロロを連れて行ったら、ロロが死んでしまうような気がしたから。
体力が尽きていることも忘れ、不格好に走ってたどり着いたそこには、ピンクのヒレを縄にくくりつけられ、宙高く吊るされている、人魚の姿があった。
「エイミーちゃん!!」
宙に浮いているように見えるということは、魔法で吊り上げられているのだろう。苦しそうにもがいている。
「おい、離せっつってんだろ!? テメエら、ただじゃおかねえからな!」
……めちゃくちゃ口悪いな! あっちが素なのかな!?
なんて驚きつつ、私は音で魔法の気配を探る。魔法を使っている者の居場所を。
――見つけた。
すぐさま、その男の方を振り向き、姿を目で確認する。特徴的な紋章のついた、白いローブを着用し、フードを目深に被っている。――革命教だ。
彼は、高い建物の上に立っていた。
「あれ。私、見てもいないのに、なんで男だと思ったんだろう」
いや、それは後で考えればいい。今、最優先すべきは、エイミーを助けることだ。
私は男がいる建物の壁を、駆け上がる。走って、時には手を使って、できる限り、速く。疲れている分、いつもより速度は出ないが、その中でも最善を尽くす。
そのまま、不意をついて、意識を刈る――が、腕で防がれた。頭の中のイメージに、体がついてこられず、ほんのわずかな遅れがそのまま隙になる。
動揺するな。立て直せ。今すぐに。反撃がくる――。
「……アイネ様?」
「え?」
私を知ってる?
だが、聞き覚えのない声だ。私は、一度聞いた声は絶対に、忘れない。
でも、誰かに、似ているような――。
顔を覗きこもうとすると、男はフードを目深に被り直し、素顔を隠した。
「彼女を助けたいのですか?」
「そりゃ、もちろん。てか、言ってる暇があったら、早く、エイミーちゃんを離してよ」
「――いいですよ」
あっさりと、了承する男に、私はかえって警戒を強める。
「ただし。彼女を離せば、より多くの人たちが傷つくことになります」
「どういうこと?」
男は一度、エイミーを掴む力を緩めたようで、苦鳴がわずかに和らぐ。
「人魚たちは、人類を、滅ぼそうとしているんです」
「滅ぼす? 何それ、わけ分かんない」
「説明、聞きますか?」
私はちらと、エイミーを一瞥してから、首を横に振る。
「先に、エイミーちゃんを離して」
「今は、僕が彼女を人質にとっているため動けませんが、人魚たちは水に、自分たちにだけ効果のない毒をまくつもりです」
「離してったら」
「あなたの選択一つで、人間と魔族が、今度こそ本当に、滅びますよ」
再び、エイミーに視線を向けると、一瞬。一瞬だけだが、視線が交錯した。憎悪に満ちたその瞳。
だが、その目が、一瞬、私に助けを求めているようにも見えた。
「エイミーちゃんたちは、本当に、水に毒をまく気なの?」
彼女に尋ねると、エイミーはさっと、視線をそらした。――動揺の音がする。恐らく、本当なのだろう。
「どうしますか?」
私を襲ってきた人魚たち。
私が守るべき国民たち。
エイミーとの一時の思い出。
何億もの生命を背負う責任。
どちらを選ぶべきかなんて、嫌というほど分かっている。私の選択一つが、世界にどんな影響を及ぼすかも。
――それでも、私は。
「離して。エイミーちゃんがつらそうだから」
「……本当に、いいんですね? 策なき正義は愚かと同じですよ」
「考えがないわけじゃ、ないから」
――こうして、男はエイミーを離した。エイミーは私を一瞥したが、仲間に連れられて、話す暇もなく、水の中へと戻っていった。
振り返ると、男の姿はもうなかった。
***
遅れて追いついたロロに、私は事の経緯を説明する。今の話を誰かにしたいけれど、城には顔を出したくない。クレイアには、心配をかけたくない。
ロロとは、できる限り関わりたくない。
けれど、ここにいるのは、彼女なのだ。水色髪に蜂蜜色の瞳を持つ彼女しか、ここにはいなかったから、話してみた。
「ロロなら、どうしてた?」
ロロは、しばらく、何も答えなかった。それは、迷いや悩みというよりは、逡巡しているようだった。
――やがて、口を開いて。
「人魚を見捨ててた」
そうはっきりと言いきった後で、
「……でも、人を殺したら、マナちゃんに怒られる」
と言って。
「だから、ロロは、何も選ばない。ロロが選んだ時点で、それは殺人になるから」
――そんな、恐ろしい答えを出した。
ママに叱られるから。
ママがダメと言ったから。
ママが好きだから。
それだけだということだ。ロロが今、人を殺さないのは。
彼女の倫理は、薄氷の上を渡っている。
「見殺しも、殺人なんじゃないの」
「……ん。そうかも」
それならと、前置きして。
「そういう現場を見たら、ロロは自殺する。これなら、誰も殺さない。でしょ?」
子どもじみた話を、現実と混同して、優しく笑うロロが、すごく、怖かった。
彼女は、他人だけでなく、自分が命を失うことすら、なんとも思っていないのだ。
私は、それが一番、怖かった。私自身が傷つけられるよりも、何よりも。
「助けてくれたのは、感謝してる。でも、まだ信じられない」
「そっか」
――冷や汗が背中を伝った。たった一言の返事が、いやというほど冷たいものに感じられた。
「ロロは、アイネと仲良くしたいだけなのに」
そんなことを、言われても。
「私だって、ロロと仲良くしたい。……でも、ロロが変わってくれないと、私はロロを、信じられない」
「変わる? どーゆー風に?」
「どうして、分からないの――。それくらい、自分で考えてよ!」
真っ先に脳裏を横切ったのは、クレイアの顔だった。
ロロから逃げるように、脇目も振らず走り、唯一信じられる、彼女のもとへと向かう。いつもより、息が切れているのは、疲れのせいだけではなかっただろう。
あのとき。
ロロの音が聞こえたとき。私は、少しだけ、安心してしまった。
そして、普通なら気づくはずの音に、まったく、気づかなかった。
無意識の信頼ほど、恐ろしいものはない。
だから私は、彼女を信じてしまわないよう、自分自身を戒めていた。




