お腹ペコペコ
「まずは、色々と、感謝を伝えさせてくれ。家出したアイネを保護してくれた上、居場所まで知らせてくれてありがとう。おかげで、誘拐犯の居所もすぐに見つけられた。――それにしても、よく、あの子がアイネだと分かったね?」
「一目で分かったわよ。マナにそっくりだもの。でも、ギルデの電話番号が変わってなくてよかったわ。うちまで連れてきたはいいけれど、後から、『これ、誘拐じゃない?』って気づいて。すっごく焦って、慌てて公衆電話探したんだから」
和やかな雰囲気は、男の笑みとともに霧散する。
「今まで、どうしていたんだい?」
「詳しいことは話せないわ。悪いけれど」
「……マナ様に、何があったかは」
「知ってるわ。全部、書いてあったから」
白髪の女は、白い装丁の本をぎゅっと抱きしめて、赤い瞳を伏せる。
「ここには、やることがあって来たの。どうしても、やらなきゃいけないことが」
「やらなければならないこと?」
「ええ。まあ、そのうち話すわ」
緑の双眸で彼方を見つめ、瞳を閉ざし、男は再び、女に視線を戻す。
「どこまで話すつもりだい。マナ様や、あいつや、君自身のことを。アイネに」
「あたしがとやかく言うことじゃないかもしれないけれど、アイネだって、もう子どもじゃないんだから」
「今の成人は――」
「法律の話をしてるわけじゃないって、言わなくても分かるでしょ。過保護すぎるって言ってんのよ」
「仕方ないだろう。アイネがかわいすぎるんだから」
「はあ……。これは、アイネも苦労するわね」
――ハロー、ママ、パパ、いかがお過ごしですか? アイネは今、人生で一番、冷や汗をかいています。暑くもないのになぜかって? それはね、ギルデとクレイアが、私の《《真下》》で言い争ってるからです。
「それにしても……」
思わず、小さく呟く。
ロロとベルから逃げるためにこの部屋に滑りこんだはいいものの、人が近づいてくる気配がしたため、咄嗟に、天井へと貼りついたのだが、
「まさか、二人が入ってくるなんて……」
私の耳は、集中しているときしか、個人の判別ができないらしい。
このまま息を潜めていれば、面白い話が聞けそうなのだが――お腹が空いてきた。めちゃくちゃ鳴りそう。ヤバい。
「マナの話は散々してるでしょうけど、どうせ、あかりの話はそんなにしてないんでしょ?」
「ああ。アイネが、僕よりあいつを好きになるのが、気にくわないからね」
「マナを持ってかれちゃったものね」
楚々《そそ》とした顔で紅茶をすするクレイアの対面で、ギルデは渋茶を舌の付け根で味わったような、とびきり歪んだ顔を浮かべる。
「アイネだって、気を使って聞けないだけかもしれないんだから。父親として話してあげなさいよ」
「……分かったよ。まなさんには、アイネの心を開いてもらった恩があるからね」
「ええ。それに、その方がマナだって喜――」
――ぐうううう。
えー、ただいま、お腹から、爆音が出ました。
オワタ……。
二人がまんまるな瞳で天井を見上げる。私は必死に笑顔を作って、二人に手を振る。
「お、お邪魔してまあす」
「ふむ、弁明を聞こうか」
ギルデが笑顔で仁王立ちしている。これは、相当怒っているやつだ。私には分かる。
「ロロとベルが追いかけてきてえ、逃げ込んだのがこの部屋でえ、二人が追いかけて来たと思って隠れたらお二人だったと、そーゆー所存です。はい」
「城で遊ぶなと、何度も言っているはずだけどね?」
「……宿題二倍で、オナシャス」
まーた、宿題が増えたよー……。
***
「宿題が多すぎるよぉ……!」
「自業自得ね」
「クレイアさんだけは味方してくれるって信じてたのに!」
「よく言うわよ。全然信じてないくせに」
内心を見抜かれて、私は思わず、水を浴びたネコのように動きを止める。すると、クレイアに頬をつつかれた。
「皇帝になったら、今よりずっと、仕事が増えるわよ」
「……じゃあ、頑張る」
「えらいわね」
もともと、ギルデと知り合いだったクレイアは、あの一件以来、度々、城を訪れるようになっていた。本を漁っては、目を爛々《らんらん》と輝かせ、何やらノートに書きつける毎日だ。
ギルデは城に住まないかと誘っていたが、彼女は、寝食までは世話になれないからと、今でもテント生活を続けていて、たまに、私も遊びに行く。
ちなみに今は、私の部屋で家庭教師をしてくれている。一般立ち入り禁止の本棚の閲覧を許可してもらっているお礼、だそうだ。
とにもかくにも、クレイアがママのことを知っている、というのは分かった。あとは、どうやって聞き出すか、だが。
「ママたちの話、聞かせてくれたりしないの?」
「まあ、そのうちね」
「えー……」
クレイアが読書する横で、私が勉強を進めるのが、いつもの流れになっていた。嫌いな勉強も、クレイアと一緒だと、なんとなく、楽しい。
「そこ、違うわよ」
突然、本から視線を上げたクレイアの指摘に、私は少しだけ、驚く。が、変なところで表には出さない。
「え、どこ?」
「ここの計算。よく考え直してみて?」
「んー? ……あっ」
ケアレスミスは、一向に減らない。ギルデに提出する宿題も、こういう、もったいないミスだけの間違いが多く、おおかた、やり直しになる。
「こういうミスって、どうしたら減るのかなあ?」
「付箋に何をどう間違えたか書いて、テキストに貼っておくのよ。それで、最後に見直すの。自分がどういうところでミスしやすいのか分かると、提出前のチェックもしやすくなるわよ」
「ほー、そうなんだ。やってみよ。ありがとう、クレイアさん」
「別にたいしたことは言ってないわ」
おイケじゃん……。
この日の課題が終わると、クレイアさんは、私の押しに負けたのか、まだ本が少しだけ読み終わっていなかったからか、彼女とママとパパの三人は、高校で同じクラスだったのだと教えてくれた。
「ママは当然、首席だったんでしょ?」
と自信たっぷりに聞くと、
「首席はあたしだったわ。でも、魔法実技と体育のテストが評価項目にあれば、確実にマナの方が上だったわね。あたしは、魔法が使えないのと、身体的なものが考慮されてたから」
クレイアは、驕る様子もなく、淡々と答えて、本を閉じた。
――世界中から完璧と称えられるママの上ということは、恐らく、世界の頂点だということなのだが、きっと、気がついていないのだろう。
「上には上がいるものよ。あたしより上なんて、どれだけでもいるわ。あんまり見かけないけれど」
と、この調子だ。やだもう、何この人、イケメンすぎるんだけど。
「それじゃあ、あたしはそろそろ――」
「こんこん」
「コンコン!」
まさに、クレイアが本を片づけて帰ろうとしていたそのとき、外から変なかけ声が二つ、ノックとともに聞こえてきた。私は居留守をすることに決める。
「アイネ、遊ぼ」
「アイネー、遊んでぇー!」
間違いない。
「ロロとベルだ……」
「あら、お友だちみたいね」
「友だち――とはちょっと違うけど。とにかく、無視してやり過ごすから、まだ帰らないで」
――だが、今日に限って、やたらと粘る。クレイアのテントは、私が走れば数分とかからないが、彼女にとってはそれなりに遠い。ほいほいさらわれそうなクレイアを、私としては毎日でも送らせてほしいところだが、クレイアが私を案じてそうさせてはくれないので、そうもいかない。
「今日、テントに寝に行ってもいい?」
「構わないけれど、許可を取らないと宿題が倍になるわよ」
「倍と倍で、二倍か……」
「四倍よ。笑わせないでくれる?」
外泊許可のとれる、ギルデとステアの執務室は、ここから近い。
つまり、このままでは、どれだけ遠回りしたとしても、扉の前のロロとベルに気づかれないことは、ほぼ不可能だということ。




