一撃講和論に対する疑問、併せて一撃和平論について
盧溝橋事件から日中戦争への流れを調べて。
更に太平洋(大東亜)戦争末期における対連合国との講和の流れに思いを馳せて。
私なりの考えをまとめました。
今日、8月9日は長崎に原爆が投下され、又、ソ連の対日参戦があった日です。
そういったこともあり、太平洋(大東亜)戦争末期に日本政府や軍上層部が唱えていた一撃講和論について、改めて自分の考えをまとめて投稿することにしました。
太平洋(大東亜)戦争において、具体的に一撃講和論が日本政府や軍上層部内で表立って本格化したのは何時頃なのか、私が調べた限りではマリアナ諸島を失陥した頃のようです。
それ以前からこの戦争での最終的な勝利は見込めないとして、日本政府や軍上層部の一部で一撃講和論がくすぶってはいたようですが、絶対国防圏の一角であるマリアナ諸島失陥により表立って本格化した、と私は理解しています。
そして、フィリピン決戦や沖縄決戦等での一撃による講和が構想されたことから太平洋(大東亜)戦争は続き、1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下、ソ連の対日参戦があり、最終的に昭和天皇陛下の2度に亘る「聖断」により、日本は「終戦」へと至ることになります。
さて、この一撃講和論ですが、私の理解するところによれば、どこかで連合国軍と一大決戦を行い、そこで連合国軍に一大勝利を収めることで、日本にとって少しでも有利な講和を結ぼう、というものです。
一見すると極めて真っ当な論理のように思えます。
このまま戦争に負けたのでは、日本は無条件降伏にまで追い込まれて「国体護持」すらできないだろう、だから、決戦で一大勝利を収めることによって無条件降伏を回避する等、少しでも有利な講和を結ぼう、という論理で、私も表面上は反論しづらい代物です。
ですが、前段はまだしも、後段についてはどうにも疑問があります。
前段にしても、その決戦で日本が一時的な大勝利を収めたとしても、日本は恐らくその決戦でかなりの戦力を失うでしょう。
そして、日本はその戦力補充がままならないのに対して、米国を中心とする連合国軍は圧倒的な国力により、失った戦力を時間が多少かかるかもしれませんが、充分に補充可能であるという現実です。
米国を中心とする連合国軍にしてみれば確かに損害は痛いでしょうが、日本も戦力を損耗している以上は、失った戦力を補充しての再侵攻を行えばいい、と割り切られたら、どうなるのでしょうか。
更に問題になるのが、後段です。
日本にとって有利な講和といわれますが、その具体的な講和内容が私が調べる限りでは、さっぱり見えてこないのです。
1944年のマリアナ諸島失陥という時期以降での講和となると、連合国側は無条件降伏を日独に求めることを決めていました。
連合国と有利な講和を結ぼうと交渉するにしても、連合国側が提案してくるのは、それこそ「国体護持」(天皇制維持)の条件付降伏が精一杯ではないでしょうか。
そして、こんな条件で講和を結ぶくらいなら、再度の一撃講和に賭けるべきだ、との声が日本政府や軍上層部から噴出して、戦争が続くような気がしてならないのです。
そんなバカなことを当時の日本政府や軍上層部がするとは考えられない、無条件降伏が回避できて、「国体護持」ができるのだから、この講和を受け入れるだろう、と言われそうですが。
私がそう考えるのは、それこそ前例があるからです。
「一撃和平論」が唱えられていた筈が、泥沼の戦争に成った日中戦争という前例です。
1937年に盧溝橋事件から日中戦争は勃発し、第二次上海事変、更に南京攻略、徐州作戦、武漢三鎮や広東攻略へと戦線は拡大していきます。
この日中戦争によって米国を始めとする諸外国との関係が悪化し、日本は孤立を避けるために日独伊三国同盟締結に奔り、更には太平洋(大東亜)戦争へと突入していくことになります。
それでは日中戦争勃発時に武漢三鎮の攻略等まで考えた上で日本が戦争に突入したのかというと、そんなことは全く考えられておらず、日本政府や軍上層部の多くでは、
「一撃和平論」
という代物が横溢していました。
「中国に一撃を加えて、日本に有利な和平を中国国民党政府と結ぶ」
これが超要約した「一撃和平論」です。
これってそれこそ「一撃講和論」と発想が同じ、と言われても仕方のない代物ではないでしょうか。
そして、「一撃和平論」がどうなったか、というと。
盧溝橋事件から日中戦争に突入した直後くらいから、日本政府は対中和平工作を試みています。
そして、極初期の頃の和平工作(船津工作等)で日本政府が示した和平条件は、中国国民党政府も受け入れ可能であると基本的に述べる和平条件で、米国等の第三国も日本の和平条件に理解を示す代物でした。
ところが、トラウトマン工作が始まる頃になると状況が変わります。
日本政府や軍上層部は上海から南京攻略に成功するという自軍の快進撃に自己陶酔して、和平条件の加重を考えるようになり、実際に和平条件を加重してしまいます。
そして、中国国民党政府は加重された和平条件の受け入れを拒否し、泥沼の日中戦争へと日本は突入することになります。
さて、日中戦争勃発時、日本政府や軍上層部の誰一人といってよい程、泥沼の日中戦争に突入する決意を固めていた人はいませんでした。
石原莞爾ら、そもそも日中戦争不拡大(反対)派までいる有様で、もっとも日中戦争に熱心だった面々にしても「一撃和平論」を唱えていたのです。
ところが、「一撃和平論」を唱えていた面々にしても一撃だけで済ませる筈だったのに、中国国民党政府がとても受け入れられない和平条件を日本政府は突き付け、それを中国国民党政府を拒絶したことから、日本は泥沼の日中戦争に突入したのです。
この「一撃和平論」の前例を見る限り、「一撃講和論」で僥倖に僥倖を重ねて連合国軍に一撃を加えることに日本が成功しても、結局は同じ路をたどる、これだけの戦果を挙げたのだから、もっと良い条件で講和が結べるように、再度の一撃を試みるべきだ等の流れとなるのではと私は考える次第です。
1944,45年当時の日本政府や軍上層部を悪く見過ぎかもしれませんが、日中戦争時の「一撃和平論」の前例を見ると「一撃講和論」も砂上の楼閣のように、私には見えて仕方が無いのです。
追記。
何故に日中戦争が止められなかったのか、そして、太平洋(大東亜)戦争にまで突入してしまったのか、更に太平洋(大東亜)戦争が1945年8月まで止められなかったのか。
そんなことをつらつら考えながら、ネット情報を漁っているとコンコルド効果という言葉が私の目に入りました。
一時は夢の超音速旅客機ともてはやされて開発が進められたコンコルドですが。
開発途中の段階で、とても採算が採れない旅客機になることが分かりましたが、これまでの開発費用等が惜しまれ、又、誰も開発中止の責任を取りたくない等の理由から開発が続けられてしまい、結果的に開発を中止するよりも遥かに巨額の赤字を出す失敗談にコンコルドはなりました。
このことからコンコルド効果という言葉が生まれたそうです。
この視点で考えて見れば、日中戦争から太平洋(大東亜)戦争に至る流れ(これまでに死んだ英霊に申し訳ないという感情的な理由、また、撤退の責任を自分は取りたくない等の理由から戦争がどうにも止められない)、そして、「一撃講和論」や「一撃和平論」が日本政府や軍上層部で登場した流れ等が、コンコルド効果からかなりの部分が説明できるな、とつくづく私は考えさせられてしまいました。
ご感想等をお待ちしています。
猶、豆腐メンタルの作者、私ですので、罵詈雑言は平にご勘弁を。