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ヴィクトリアン万華鏡  作者: 左京ゆり
4.ジョニーとアン ‐1889年夏‐
8/8

貧乏画家とお嬢様(下)

 ジョニーは下宿の窓を開け放った。気持ちのいい風が吹きこみ、頬をなでる。プラタナスの葉がさざめいて、光に葉脈を透かせている。この下宿に移ってから、今日で一週間になる。街の中心部からほど近く、表通りをはなれているので喧騒はここまで届かない。絵を描くにはぴったりの新居であった。

 午後中、ペチコート通りでスケッチをして過ごした。雲行きが怪しくなってきたので、早々に切り上げて下宿に戻る。女主人が持ってきた夕食を食べ、身体をふいて、また筆をとった。遠くで雷鳴が鳴り、やがて窓に滴を打ちつけた。外をのぞけば、どんよりと重たい雲が垂れこめている。カーテンを閉じてランプを灯した。キャンバスの前に向かう途中で、がたん、と廊下から音がした。


 夜の訪問客はめずらしい。どの部屋を訪ねるのかと思っていたら、まもなく、自分の部屋の扉が勢いよく叩かれた。

(こんな夜、しかも雨のなかを一体誰が……?)

 訝しげな顔をして、ジョニーは車輪を扉に近づけた。


「……どなたですか?」

「あたしよ‼」


 間髪を入れず、なじみのある声が廊下に響いた。

 切羽詰まった声に、考える前に手が動いた。

 扉を開けると同時に、ずぶ濡れのアンが飛びこんでくる。


「ジョニー‼」


 広げた両腕は、そのまま宙で止まった。

 ぽたぽたと滴を垂らし、アンは真っ赤な顔でつぶやいた。

「……こんなはずじゃあ、なかったのに」

 ジョニーから数歩はなれて、ぶつぶつとぼやいている。

「髪だってカールさせて……靴だってお気に入りだったのに……こんな急に土砂降りだなんてひどいわ……あなたにハグもできないじゃないの……」

 アンは外套を脱いで頭をふり、それからドレスに手をかけた。

「ちょっと! きみなにやってんの⁈」

 ジョニーの金切り声に、アンが涙目で怒鳴り返した。

「だってコルセットまでずぶ濡れなんだもの‼」

 帽子が床に転がった。飴色の木に深緑色のリボンが広がる。

「あっち向いててちょうだい!」

 ジョニーは窓に向き直り、ため息をついた。


(……このひとの行動は、いつも予想の斜め上をいくんだからなぁ、もう)


 いいわよ、という声に振り向けば、アンはシーツにぐるぐる巻きになっていた。

 戸棚からタオルを取り出して、彼女の頭に乗せてやる。暖炉に石炭をくべて火を熾した。指で示すと、彼女はすごすごと暖炉の前に進みでた。さっきまでの勢いはなく、ぱちぱちと爆ぜる火を眺めている。


「……誰にも言わないっていったのに。アンソニー様ったら」

「仕方がないわ。可愛い妹の頼みだもの」

「……そうだね。肉親を優先させるのは当然か」

「うそよ。電報を打ってもはぐらかされたから、お兄さまに会いにいって、直接問いつめたのよ。だから五日もかかっちゃったわ」


 ジョニーはあんぐりと口を開けた。彼女がそこまでして、自分に会いにくるとは思わなかった。少しぐらい寂しいと思ってくれるだろうか。そんな想像をしながら、この一週間、自分の気持ちを慰めていたというのに。


「なんで?」

 心の声が、そのまま言葉になった。

「……なんでって?」

「なんで、そうまでして会いにきたの?」

 アンの目に涙があふれてくる。

 ジョニーは目を見開き、慌てて手をのばす。

「……なんでって……そんなの、会いたいからに決まってるでしょ。あなたは……そうでもなかったみたいだけれど……」

 ぽろぽろとこぼれる滴を指先でぬぐった。

 舐めてみると、ほんのりと塩辛い。

「なによ。なにも言わずにいなくなるなんて……ひどいじゃない」

「ごめん。きみがもう……ぼくに会いたくないかと思ったんだ。ぼくがあの話を断ったから……」


 アンが泣きながら睨みつけてくる。


「そんなの……それぐらい、気づいていたわよ。乗り気じゃないって……そりゃあ、引き受けてくれたら……とっても嬉しかったけれど。あのときは確かに会いたくなかったわ。だけどそれは、あなたに余計なことを言って、嫌われるのが怖かったからよ」

「ごめん…………ぼくも怖かったんだ」

「…………」

「きみをがっかりさせて、終わりにしようって言われるんじゃないかって。きみに捨てられるのが怖くて、それならいっそ、自分から離れようって思ったんだ。自分で決めたと思ったほうが、まだ気が楽だから……」

「……じゃあ、あたしのこと嫌いじゃない? まだ好きでいてくれている?」


 ジョニーはなんと答えていいのか分からず、アンの手にふれた。

 滑らかな指が絡められる。


「……嫌いじゃないし、好きだよ。好きだけど……でもぼくたちの関係は、きみのお父上は歓迎されないだろう」

「あたし、あなたが宮廷画家でも貧乏学生でも、たとえ街頭商人でも好きよ」

「……街頭商人なんて、きみ見たこともないでしょ」

 呆れた声を返すジョニーに、アンが屈託なく笑う。

「ねえ、ジョニー。本当にあたしのことが好き?」

「ああ、好きさ」


 半ば投げやりに答える彼に、アンは不穏な笑みをうかべた。


「……だったら、既成事実をつくるのが、一番いいと思うの」

「…………は?」

「そうすれば、父さまも反対できないでしょう?」

「…………え?」

「今はあたしたち、二人きりだし」

「…………へ?」


 シーツをはだけるアンを、ジョニーは全力で押し留めた。


「まってまってまってまってまってまってまって‼ きみ‼ なにやってんの⁈ 仮にも上流階級のお嬢様でしょう⁈」

「そうよ! だから、どうでもいい相手と縁談を組まれる前に、あなたと既成事実をつくるのよ‼」

「じゃあなんでO子爵をお招きしたのさ⁈」

「えっ?」


 思いがけず出た棘のある声に、ジョニーは顔をしかめた。

 これではただの嫉妬である。


「……アシュリー様は、彼を気に入られたご様子だったよ。きみが部屋に閉じこもってる間、きみをどう思うのか、それとなく尋ねられていたし。子爵家なんて、きみのお相手にふさわしい方じゃないか」

 アンは目を丸くして、それから困ったように笑った。

「ジョニー、彼は……あたしを好きになったりしないわよ。最近元気がなかったから、休暇にうちに来たらって誘っただけよ」

「そんなの、分からないじゃないか。きみが気づいてないだけじゃないの?」

「ジョニー、もしかして……妬いている?」


 口元をほころばせるアンから、顔をそむけた。

 なにを言っても墓穴を掘るような気がする。

 アンが彼の頭を抱きかかえた。淡い金髪が梳かれていく。


「やっぱり……今から馬車でグレトナ・グリーンに行って、三週間あっちで暮らして結婚しましょう?」


 耳元でささやかれ、ぞくりとする。

 薄暗い部屋に、暖炉の炎とランプが影をつくっていた。

 アンを包むシーツと手足と首筋が、ぼんやりと白く浮かびあがる。

 口を開けば、かすれた声が漏れた。


「……ぼくはきみが好きなんだよ」

「だったら!」

「……大切にしたいんだよ。きみを抱いて、勝手に結婚したら、アシュリー様は二度とぼくを認めてくださらないだろう。きみだって社交界から追放されるよ。ぼくはそんなの嫌なんだ。ちゃんとお父上に認められて、堂々ときみを好きだと言いたい。衝動でこんなことをしても、きっと後悔すると思う」

「だって……今のままじゃ、認めてもらえないじゃない! 他にどうすればいいのよ。あたしだって考えたんだから……これが一番いい方法なんだから‼」


 アンの目が潤み、白い肩があらわになった。

 ジョニーのほうが泣きたい気分だった。


「あのね、アン! ぼくは足が不自由なんだ。きみがその気になれば止められない。でもいいの? 初めてなのに……ぼくの意思はそれを望んでないのに! 本当にそれでいいの⁈」

 声を荒げるジョニーに、アンの手が止まる。こんなに狼狽した姿をみるのは、初めてだった。その顔をのぞきこむと、目に涙がたまっている。アンは指先で、ジョニーの濡れた目尻をこすった。彼がきゅっと目をつむる。

「……泣かないでよ。悪かったわ」

「……泣いてないよ」

 右手を彼の頬にあてると、もたれるように頭が傾いた。

「……ごめん。ぼくが逃げだしたのが悪いんだ。ちゃんと言うよ。アシュリー様を説得するから、ぼくを信じてほしい」

「……もう勝手にいなくなったりしないわね?」

「うん」

「……じゃあ、いいわ。あなたを信じてあげる」


 アンは両手で彼の顔を包みこんだ。彼の目をじっと見つめ、ふいに首を動かした。ジョニーは思わず息を止めた。アンが顔を上げて、ぺろりと唇をなめている。


「塩辛いわ」


 アンの唇がふれた目尻が、熱く燃えるような心地がした。

 床で寝ると言い張る彼女を、無理やりベッドに追い立てた。静かな部屋で、炎が爆ぜる音と、ベッドが軋む音だけがときおり聞こえてくる。ジョニーは一晩中、絵筆を握りしめ、一度もベッドを振り返らなかった。



 その夜、アシュリー家の晩餐室には、二週間前と同じ顔がそろっていた。アンの父親と母親、次兄、彼女の大学の友人と、アン、それにジョニーの六名である。当主のアシュリーは食後のワインを口に含んで、そっと目をすがめた。


「……すまないが、よく聞こえなかった。もう一度言ってくれるかい、ジョニー?」

「アン様と婚約させていただきたいんです」

 ジョニーの言葉に、当主は静かにグラスを置いた。

「なるほど。それならば……きみはあの話を断るべきではなかった、とは思わないかね?」

 ジョニーはごくりと唾をのんだ。

「いいえ……思いません」

 当主の目が、猫の爪のように細くなる。

「では、どうするつもりだね? 私は娘を苦労させるつもりはないのだが」


 声を上げようとするアンを、ジョニーは目で制した。


「王立芸術院の会員になります。個展を開催して、画家としての地位を確立します」

「……貧民街に通いながら、かね?」

「はい。下町やイーストエンドは、ぼくの故郷のようなものなんです。ぼくは十四年間、あの町で暮らしてきました。いい思い出ばかりじゃないですが、どうしても心が惹かれてしまう。それを否定して、上流階級の一員のようなふりをするのは、仮面をかぶって生活するようなものです。もちろん、そうと望まれれば、ぼくは貴族のご一家でも王族の方でも喜んで肖像画をお描きします。ですが……ぼくは同じぐらい、貧しい名もないような人びとの姿も描きたい。彼らが明日死んだとしても、ぼくの絵は半世紀、一世紀後も残るかもしれません。いまは誰の目にも留まらなくても、百年後には、女王の肖像画と同じように、誰かの心に残るかもしれません。そう思うと、あの町からはなれた自分でも、少しは役に立てるような気がするんです」


 当主の眉が一瞬ぴくりと動いたが、誰も気づいた者はいなかった。

 黙って彼の目を見つめ、それから、ゆっくりと口を開いた、


「……もしも、きみが望む地位を得られなかったら?」

「……そのときは、身を引きます」

「だめよ‼」

 アンの叫び声が部屋に響いた。

 眉をひそめ、口を開きかけた当主をジョニーが遮った。

「……それでも、アン様がぼくを追いかけてきてくれるなら、一緒にグレトナ・グリーンに行きます」

 彼のひと言に、その場の視線が集まった。

 アンは目を点にして、当主は口をぱくぱくと開けている。

「きみ……そんなばかな……冗談にしても……」

「冗談ではありません」

 ヘンリーがひゅっと口笛を吹き、当主にじろりと睨まれた。

「もちろん、ぼくはウィッカムではないし、彼女もリディアではない。ぼくたちには確かな愛情と分別があります。だからこそ、ぼくはそんな事態にならないように最善を尽くします」


 当主は口髭をなでながら、苦虫を嚙み潰したような顔をした。

 反対側の席から、場にそぐわない明るい声が上がった。


「それなら、米国でふたりで暮らせばいいわ。孫娘と娘婿がくると聞いたら、私の実家は大歓迎するでしょう。ニューヨークのギャラリーで個展を開けば、あなたの絵なら、きっと一夜にして有名人になりますよ」

 にこにこと笑う妻に、当主がうめき声をだした。

「冗談じゃない! アンを大西洋の向こうにやるなんて!」

「それなら、あなたがパーク・レーンやピカデリーで手頃なフラットを用意してあげたらどう?」

 アンの母親は、夫にむけてグラスを掲げ、優雅に飲み干した。



 翌朝、図書室の前でO子爵とすれ違った。扉を押さえ、ジョニーに晴れやかな笑顔をみせている。あいかわらず、非の打ち所がない青年だった。


「きみはすごいなあ、ジョニー」

「……身の程知らずだと思われましたか?」

 口に出してすぐに後悔した。自分の卑屈さに情けなくなる。彼のように健やかな肉体と明朗な気質をもつ男に、ジョニーはいつも気後れしてしまうのだ。

「いいや、とても励まされたよ」


 思いがけない言葉に、ジョニーは眉根を寄せた。皮肉を言われているのだろうかと、その顔を見上げてみる。真っ向から目が合った。曇りのないまなざしが彼を見下ろしている。


「心が望むものを否定するのは、仮面をつけて生きるようなものだ……本当に、そのとおりだよ。仮面をつけて生きるのは苦しい。きみたちが上手くいくように、僕も応援しているよ」

「……いいんですか? あなたはアンのことを……全くなんとも思ってないんですか?」

 O子爵は目を見開いて、ふわりと笑みをこぼした。

「きみは本当に、ミス・アシュリーのことが好きなんだね」

「答えになって……」

「僕とミス・アシュリーはよい友人だ。大切な友人だよ。それ以上でも以下でもない」


 きっぱりとした答えが返ってきた。異を唱えさせない声音だった。


「この夏に失恋をしたものでね。気分転換に、彼女がこの館に招いてくれたんだ。僕には地位も財産もあるが、こればかりはどうにもならない。本当に……聖書でも、法律でも禁じられているのだから。子爵家の当主という仮面をかぶって暮らしていても、愛する相手と生涯結ばれなかったとしても……それでも、ひとに惹かれる心は止められない。きみの言葉は身に染みたよ、ジョニー」


 ジョニーが驚きの顔を見せても、O子爵はただ笑っていた。

 指先を握りこみ、ジョニーはまぶたを伏せた。


「すみません…………不躾な質問をしてしまいました。誰にも口外しません」

「きみを信用したから話したんだ。気にしないで」

 軽く帽子をあげて、O子爵は扉をしめた。



 パディントン駅の構内には、あらゆる階級の人びとがひしめいていた。羽根飾りつきの帽子をかぶった一等客室の貴婦人から、パイプをくわえた三等客室の労働者まで、せわしなくホームを行き来している。天井の半円形のガラス窓から、太陽が惜しみなく光を注いでいる。車内でアンと向かいあって座り、ジョニーは目を輝かせた。熱心に車窓を眺める夫を、アンは嬉しそうに見つめている。


「ねえ、ジョニー。昔あなたに言ったわね。あなたがかわいそうだって」

 ジョニーは不意を打たれた顔をして、妻に向き直った。


「あたし、今でもやっぱり分からないの。羽を痛めた小鳥がいても、茎が手折られた花をみても、あたし、かわいそうだと思ってしまうもの。だけど……分かったこともあるわ。かわいそうと言うより先に、手を差し伸べたらいいのだわ。そうすれば小鳥はまた飛べるようになるし、花は咲くかもしれない。あたしがハンドルを握って、駅員さんが車椅子を運んでくれたら、あなたはこの国のどこにでも行けるもの。大陸にだって、米国にだって……こんな考え、間違っているかしら?」


 クッションが詰まった椅子にもたれて、アンが不安そうに首を傾けた。一等客室の座席はゆったりと間隔がとられていて、車椅子でも苦にならない。アンが大学を卒業した年に、二人は聖ジョージ教会で式を挙げた。彼女は各地で植物を採集してまわり、ジョニーも同行するようになった。イングランド中を鉄道で旅をしながら、アンは論文を書き、ジョニーは町で暮らす人びとを描いた。マイルエンドの下宿で暮らしていた頃は、こんな未来が自分にあるとは思ってもみなかった。にぎわう構内を、がたがたとゆれる車内を、車窓を流れる田園風景を、潮風のふく海岸線を、小川を渡る舟を、彼は目にした。そしてこれからも、まだ見たことのない景色を見るのだろう。目の前に座る彼女とふたりで。彼はそう信じている。


 汽車が出発の合図を告げた。

 ジョニーは微笑んで、ゆっくりと首を縦にふった。

■長編小説:第三章・8話より登場(アン)■

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