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ヴィクトリアン万華鏡  作者: 左京ゆり
4.ジョニーとアン ‐1889年夏‐
7/8

貧乏画家とお嬢様(上)

 その夜の晩餐は、いつもと趣が違っていた。

 長いテーブルを囲っているのは、アシュリー家の当主と、その妻、次男のヘンリーと次女のアン、アンの大学の友人というO子爵、そして同居中の美術学生・ジョニーの六名だった。長男のアンソニーは旅行中で、入れ替わるように、オクスフォードの夏期休暇でヘンリーが戻ってきた。話題がひととおり尽きた頃、当主が声を上げた。


「それで、ジョニー。きみは宮廷画家の推薦を辞退するのかい?」


 ロンドンの高級住宅街・メイフェアに居を構える当主は、一体どこから聞きつけたのか、白々しい顔で尋ねてくる。ジョニーが口を開きかけたとき、鋭い金属音が晩餐室に響いた。アンが落としたフォークが白磁の皿に転がっていた。


「それとも……わたしの思い違いだったかな?」


 優雅にナイフとフォークを動かしながら、アンの父親は視線を上げた。口調は丁寧だが、その目は獲物を追う猛禽類のようだった。

「父さま、ジョニーはまだ迷ってるんだ。そうだろう?」

 ヘンリーが助け舟を出してくれた。貧民街の少年が、この上流階級の館に同居すると決まったとき、真っ先に反対したのは彼だった。しかし四年の歳月を経て、今ではすっかり打ち解けた友人同士である。彼の心遣いはありがたかったが、いつまでも返事を保留にしてはいられない。ジョニーはもう覚悟を決めていた。

「いや、ヘンリー。ぼくの答えは決まってるんだ。アシュリー様、大変ありがたいお話ですが……申し訳ありません。仰るとおり、ご推薦は辞退します」


 がたん、と椅子を鳴らして、アンが立ち上がった。

 唇がわなわなと震えている。


「あたし……あたし……気分が悪いから、部屋で休むわ!」

 晩餐室の扉が、大きく音をたてて閉まった。



 食事を終えて、フットマンのピーターに頼んで二階に上がった。廊下には、左右に三つずつ扉が並んでいる。左手前の扉に車椅子を止めると、O子爵と鉢合わせた。扉は半開きになり、侍女のアリスが顔をのぞかせている。O子爵からジョニーへと首をまわし、侍女は眉尻を下げた。


「ごめんなさいね。アン様は頭痛がして、どなたともお会いにならないそうなの」


 ジョニーはうなずいて、車輪をまわした。O子爵は、自分が替わるとフットマンに申し出て、車椅子のハンドルを握った。

「宮廷画家に推薦されるとは、きみはずいぶん才能があるんだね」

 O子爵の快活な声が、頭上からふってくる。アンが連れてきたこの男は、始終、人好きのする態度を崩さない。それは車椅子に乗るジョニーを見ても、彼が貧民街で暮らしていたと聞いても変わらなかった。

「ただのコネです。ご一家の知人の公爵が、女王にぼくの絵を見せてくれたんです」

「そうは言っても、才能がなければお声はかからないよ。しかし、僕なんかはもったいないと思ってしまうな。ミス・アシュリーはずいぶん喜んでいただろう?」

「…………そうですね」


 宮廷画家の推薦を受けたとき、一番喜んだのはアンだった。目を輝かせ、手をたたいて歓声をあげた。


「ああ‼ お兄さま、よくやってくれたわ。ううん、あなたよ、あなたの絵がすごいのね‼ 女王に気に入っていただけるなんて……なんて名誉なことかしら! 宮廷画家よ‼ もう父さまに反対なんてさせないんだから‼」

 そう言って、ジョニーの肩に飛びついた。四年前に彼がこの館にやってきて、年が近い二人は少しずつ距離を縮めていった。特別なことが起きたわけではない。彼が素描をする傍らでアンが植物を採集したり、午後のお茶を飲みながら他愛ない話をしたりするうちに、いつからか、互いを意識するようになっていた。昨年の秋、アンが大学に進学してからは、将来の話が会話に上るようになった。

 アンがそれとなく二人の関係を仄めかしても、父親は首を縦にふらなかった。のらりくらりと話題をそらして、いつも煙に巻かれてしまう。ジョニーには父親の気持ちがよく分かった。地位も財産もない画家の卵など、娘の相手としてふさわしくないと思われても当然である。


「ミス・アシュリーは、一度へそを曲げると頑固だものね。今夜はあきらめるか」


 O子爵が冗談めかして笑う。

 ジョニーも一緒に笑いながら、内心は穏やかではなかった。


(……アンが大学の友人を連れてくるなんて、初めてなんだけど。こいつ、ほんとにただの友人なのか?)

 ちらと背後を振り返ってみると、にこやかな笑みが返ってくる。

 ジョニーは無理やり笑顔をはりつけ、すぐに正面をむいた。

(……だめだな。この程度でダメージを食らうなんて)


 一階に降りて、O子爵に礼を言って別れる。そのままホールに向かい、執事のミスター・リーに電報を頼んだ。以前から考えていたことだ。いいかげん実行に移さなければ。まだ未練がある自分に、そう言い聞かせた。



 二日間、アンは階下に降りなかった。朝から晩まで、すべての食事は部屋のベッドですませた。どうしても、ジョニーと顔を合わせたくなかったのだ。自分の口が軽い自覚はあった。十九歳になった今でも、気を抜くと、思ったことがそのまま口に出てしまう。あの夜に顔を合わせていたら、きっと余計なことを言ってしまっただろう。


 アンは薄々気づいていた。彼が宮廷画家の推薦を受けたとき、顔に浮かんでいたのは、戸惑いと作り笑いだった。この館に来てから、彼はいつも礼儀正しく、貧民街の暮らしの面影はけして表に出さなかった。だけどときどき、彼は日中に姿を消すことがあった。どこに行くのか尋ねても、いつもはぐらかされてしまう。思い余って、こっそり馬車で後をつけてみると、ホワイトチャペルやランベスといった貧民街でスケッチをしていた。普段はどことなく窮屈そうな顔が、生き生きと輝いてみえた。ジョニーの心がなにに惹かれているのか、アンは気づかないふりをした。貧民街に通う画家を、父親が結婚相手として認めてくれるとは思えなかったからだ。


(……乗り気じゃないって分かっていたけれど。それでも、引き受けてくれるって心のどこかで期待していたんだわ)


 目を赤くして、アンは晩餐室の扉を開けた。

 部屋のなかには、三日前と同様に、父親と母親、次兄とO子爵が座っていた。ただひとり、彼女が最も会いたくて、会いたくない青年だけがいなかった。

 フットマンに椅子をひかれ、アンはテーブルについた。

 いつもどおりの声音を心がけ、その場で尋ねてみる。


「今日はジョニーは外出しているのかしら」

 向かいの席の次兄が、彼女を凝視した。

「なに言ってるんだ? なにも聞いてないのか?」

「なにって…………なにが?」

 心臓がどくどくと騒がしくなる。手に冷たい汗がにじんだ。

「ジョニーは、昨日ここを出ていっただろ。今年で十八歳になるから、一人暮らしを始めるんだって。以前から考えていたようだけど。おまえ、本当に聞いてなかったのか?」

「ああ……そう……そうね。聞いたような気もするけれど…………それで、どこで暮らしているのだったかしら? ピカデリー? それとも、ケンジントンだったかしらね」

「さあ、僕は聞いてないけれど……」


 次兄はテーブルを見渡した。その場の誰もが、知らないと答えた。

 アンは手を止めて、澄んだスープを見つめた。

 実際のところ、なにひとつ目に入ってこなかった。


「それで、アン。もう具合はよくなったのかい?」

 父親が優しい声音で尋ねてくる。

「ええ……ええ……具合は……いいけれど……」

「ならば、O子爵と歌劇場にでも行ってきたらどうだ? せっかくお招きしておきながら、二日間も彼をほったらかしにしていただろう。退屈されていたでしょう?」

 話を向けられて、O子爵は朗らかに笑った。

「いいえ、図書室ですばらしい本に囲まれていましたから。退屈だなんて、とんでもない」

 アンはO子爵に非礼をわびて、父親に向き直った。

「父さま……歌劇場よりも、今はジョニーの行方を探さなくちゃ。誰も転居先を知らないなら、連絡が取れないわ」

「……アン、まだ分からないかい? 彼は気をきかせて、なにも告げずに出ていったのだろう。別れの場面は辛いからね。それなのに、きみが探そうとすれば、彼に迷惑をかけるとは思わないかね?」


 幽霊のような顔で、彼女は自分の父親をみた。

 その目に涙が湧きあがる。


「あたし……あたし、やっぱりまだ具合が悪いみたい。部屋で休むわね」

 よろよろと席を立ち、アンは音も立てずに部屋を出た。



 ベッドに突っ伏して、アンは声を出さずに泣いた。羽根がつまった枕に涙のしみが広がっていく。アンの心には後悔しかなかった。


(あたし……なんであの夜、ジョニーの面会を断ったのかしら‼)


 あのとき、彼はこの件を話すつもりだったのだろう。

 今となってはもう、彼がどこに行ったのかわからない。

 泣きじゃくるアンに、湯気の立つカップが差しだされた。


「……ありがとう、アリス」

 侍女から渡されたカップに息を吹きかけて、口に含んだ。

 熱々のホットミルクだった。ふんわりとシェリーの香りがする。アンが落ちこんだとき、侍女はいつもこのミルクを持ってきてくれる。

「どうしよう、アリス。もう二度と、ジョニーと会えないかもしれない」

 自分の言葉に悲しくなって、アンはしゃくり上げた。

「大丈夫ですよ、アン様。必ず会えます」


 両手を包みこんで、侍女は優しいまなざしを向けた。


「……もしかしたら、スコットランドや、アイルランドの田舎町に行ってしまったのかもしれないわ。それにもし居場所がわかっても……父さまの言うとおり、迷惑だと思われるかも。あたし……嫌われてしまったのかもしれないわ」

「あらあら……」


 アンの髪を撫でながら、侍女は目を細めた。


「本気で仰ってるんですか? ジョニーさんはお庭にでると、いつもアン様が来るまで周囲を見渡してるんですよ。アン様が来たら、それは嬉しそうな顔をするんだから。ジョニーさんはきっと、この街から離れてません。好きなひとの側にいられなくても、そのひとの姿がみえて、噂が聞ける場所にいたいと思うはずですもの」

 アンは目をぬぐった。

「……本当に? 本当にロンドンにいると思う? まだあたしに会いたいと、思ってくれているかしら」


 侍女は大きくうなずいた。アンの顔にわずかに赤みがさした。


「でも……ジョニーの居場所が分からないわ」

 うつむくアンを、侍女が困り顔で見つめている。

 侍女はしばらく頬に手をあてて、ぱっと顔を輝かせた。

「アン様! サラに聞いてみたらどうかしら? ジョニーさんは、しばらく彼女と暮らしていたのでしょう? なにか知っているかもしれません!」

 侍女の言葉に、アンは目を瞬かせた。

「そうだわ……そうだわ、アリス! ありがとう‼ 庭師小屋に行ってみるわ!」



 夜の庭を横切って、アンは敷地の奥にある庭師小屋を訪れた。

 サラは庭師頭の妻で、ふたりは三年前に結婚した。サラは以前、貧民街でジョニーと暮らしていたという。当時の彼女は娼婦だった。庭師頭(当時はまだ、花屋から転職したばかりの庭師だったが)のアルフレッドが娼婦を娶ると聞いて、アンは内心、大反対だった。この伝統あるアシュリー家が、汚らわしい娼館になってしまうような気がしたのだ。

 初めてサラに会ったとき、アンは驚いた。どんな妖艶でふしだらな女がくるかと身構えていたら、現れたのは、下町なまりでサバサバとした気風のいい女だった。しかも、アンの自慢の姉・ハリエットと張り合うぐらいの、とびきりの美人である。


 エプロンで手を拭きながら、サラは目を丸くして立っていた。


「あれまあ、こんな時間にどうしたんです、アン様」

「ジョニーがいなくなってしまったの!」


 サラの顔に安堵して、アンは心の内を打ち明けた。

 椅子を勧められ、木造りの簡素なテーブルに、紅茶が置かれた。ひと口飲むと、甘い蜂蜜の味がした。ひととおり話終えると、サラはにっこりと笑った。


「なるほどねえ……あの子はしっかりしてるようで、繊細ですからね。アン様にふられると思って逃げちまったんじゃないですか?」

「そんな! まさか! そんなそぶりは全然なかったわ」

「そりゃあ、好きなひとの前では、格好いい自分を見せたいもんですよ」

 サラはにこにこと口を開いた。

 顔中に熱が集まるような心地がする。

「そんな……そうかしら……あたしのこと、少しは気にしてくれてたのかしら……」

「アン様のお顔をみたら決心がゆらぎそうだから、なにも言わずに出ていったんでしょう。新生活が落ち着いたら、手紙でも届くと思いますよ」

「だけど……それまでただ待っているなんて……」


 かん高い声が聞こえ、よちよちと幼児が歩いてくる。

 おぼつかない足取りで、アンの足元までやってきて「あー、あーさま!」と嬉しそうに両手をのばす。アンは幼児を抱きかかえ、背中をたたいてあやした。


「すごいわ! 前に会ったときはまだ喋れなかったのに! メアリー、なんて賢い子かしら!」

 すべすべの頬に顔を寄せると、甘いミルクの匂いがした。きゃらきゃらと嬉しそうに声を上げている。小さなメアリーの後ろには、庭師頭のアルフレッドが立っていた。自分の娘を抱きしめるアンを、笑いながら見守っている。

「アン様。残念ですけど、あたしもジョニーの居場所はわかりません」

「そう……サラにも分からないなら、仕方がないわね。やっぱり……手紙がくるのを待つしかないかしら」


 表情を曇らせるアンに、サラは目をきらめかせた。


「だけど……そういったことなら、あの御方に聞いてみたらどうですか?」

「え?」

「あなたのお兄様ですよ。ほら、いまロンドンを離れている……」


 アンははっと顔を上げた。

 二人の声が同時に重なる。

『お兄さま!』『アンソニー様』


 なにしろ耳ざとい御方ですからねえ、とメアリーの髪を撫でながら、サラが独り言ちていた。

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