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ヴィクトリアン万華鏡  作者: 左京ゆり
2.アルフレッドとサラ ‐1883年冬‐
5/8

客と娼婦の話(下)

 サラに案内されたのは、狭いが小ざっぱりとした部屋だった。シーツは糊がきいてぴんと張りがあり、カーテンも古ぼけてはいるが破れもカビも見当たらない。紳士の客がいるというのも、どうやらはったりではないようだ。虫が這い出すようなベッドを覚悟していたアルフレッドは、居心地のよい調度に顔をほころばせた。サラは戸棚からワインを取り出し、グラスに注いで彼に渡した。


「ワインなんて久しぶりだ。なかなか豪勢だな」

「なぁに、ただの安物さ。紳士のなかには、自分でトカイワインなんかを持ってくる御方もいるよ」


 手に持ったグラスを傾けて、サラは黄金色の液体を口に含ませた。


「あんたは普段なにをしてるんだい?」

「コヴェントガーデン市場で働いてんだ。ディクソンていう花屋にいる」

「へえ、ディクソンの名前は聞いたことがあるよ。有名な店じゃないか」

 アルフレッドは嬉しくなり、子どものように笑った。

「十二の歳から働いて、今では常勤なんだ」

「すごいじゃないか。常勤になるのは難しいんだろ。あんたは優秀なんだね」

「いや、たまたま運がよかっただけだ。十一のとき市場に盗みに入ったら、その店のガキに見つかっちまったんだ。そいつは内緒にしてくれたうえ、ディクソンを紹介してくれたのさ」

「へえ、いい奴だね」

「ああ。ウィリアムっていうんだ。おれの親友で市場仲間のひとりさ。あいつらは、おれがドルリー・レーン育ちだなんて気にしない。いい奴らだよ」


 サラは楽しそうに話を聞いてくれた。それが商売だとは分かっていても、アルフレッドはもっと自分のことを知ってもらいたくなった。


「おれは八人兄弟の一番上なんだ。親父は死んじまって、二番目の親父もお袋が病気になった途端にとんずらしちまった。一番下のチビがまだ六つのガキだから、あいつがあと数年して独り立ちすれば、ようやく身を固められそうだ」

「ふうん、いい仲の女がいるのかい?」

「いや、今はいねぇ。でも結婚するなら、金を持ってる女にするって決めてんだ。牧師の娘とか、頼れる親戚の多いメイドとか。おれが事故や病気で死んじまっても、食うに困らない女がいい。だってよ。もし金や頼れる親戚のねぇ女と結婚して、万が一のことがあれば、共倒れになっちまうだろ」

「そうだねえ。じゃ、あたしなんざ、間違ってもあんたとは結婚できないね」


 サラの言葉に、アルフレッドは息をのんだ。そりゃそうだ。イーストエンドの娼婦と結婚する気なんてさらさらない。そう思っていたはずなのに、彼の口からこぼれたのは別の言葉だった。


「……おまえは、それなりに金を貯めてそうだけど」

「ここは清潔なぶん、しっかり経費が引かれてるのさ。ま、路上で働くより実入りがいいし、なにより危険が少ないから、おかみさんに不満はないけどね。それにあたしは親も死んじまったし、兄さんたちはずっと昔に家を飛び出してそれきりさ」

「そうかい…………そりゃ残念だ」

 サラは笑い声を上げた。

「残念だって? あたしの境遇なんざ、あんたにゃなんの関係もないだろう? まさか本気で結婚するつもりでもあるまいし」

「あ……ああ、まあそうだ」

「ほら、もう一杯ワインを飲むかい?」

「いや、もういらねぇ。泥酔したら、せっかく話したことを忘れちまいそうだ」

「そう。そんなに話がしたいなら、あたしの生い立ちから聞かせてやろうか?」


 冗談めかして笑うサラの吐息は、甘い葡萄の香りがした。蝋燭の火がちらちらと唇に光を映して、白い胸元が若いモスローズのように染まっている。ワインで潤んだまなざしから目をそらし、アルフレッドは切羽詰まった面持ちで首をふった。


「いや、いい」

 彼女の笑みに、わずかに愁いが含まれた。

「はは、そうだねえ。娼婦の身の上話なんざ、興味もないさね」

「いや、おまえの身の上話なら興味があるぞ」

「え?」

「……でもとりあえず、もう話は後でもいいか?」

 サラは目を丸くした後、アルフレッドの濃い金髪から大型犬のような茶色の瞳、形のいい首筋から鎖骨へと、順に視線を下げていき、愉しそうに口の端を上げた。


「そうだね。いまは話じゃなくて……もっと、別のことをしようか」


 日曜日の朝、陽が屋根高くのぼっても、アルフレッドはなかなか部屋を出ようとしなかった。しまいには、娼館のおかみから出入り禁止を言い渡されそうになり、追加の半クラウンを支払って難をのがれた。



 十二月の最初の土曜日、白鹿亭のテーブルを囲み、仲間たちは冷えた指先をホットジンで温めていた。ウィリアムは一ポンド金貨を取り出すと、とん、とテーブルに置いた。


「例の賭けだが、俺は負けを認めよう」

 ジョージ、フランシス、レナード、ホラスたちが、彼にならうように金貨を置いていく。

「僕も結局、イーストエンドに行く機会がなかったよ。忙しくてね。いやぁ、残念だ」

「……ぼくも負けだ。そもそも女は、気難しくて苦手なんだ」

「それも言うなら、おまえもたいがい気難しい奴だと思うがな、フランシス。ま、いいや。オレも負けだ。なに、親父がリウマチで寝こまなければ、きっと勝てたと思うんだがなぁ!」

「ボクも負けだ。でもいいんだ。リヴァプールの従姉妹は、かわいい子なんだ」


 五人の男たちの視線が、アルフレッドに集まった。彼は不敵な笑みをうかべた。


「よし。じゃあ、おれのひとり勝ちだな。この五ポンドはもらってくぜ」

「おおっ、アルフレッド! おまえなら、きっとやってくれるって信じてたぜ! それで、どうなんだ? どんな女だ?」

「ホワイトチャペルの娼館の女だ。名前はサラ。赤毛で美人だ」

「へえ! その女はどんな肌でどんな声だ? おまえはどうやって喜ばせたんだ? さあ、もったいぶらずに、オレたちに話して聞かせろよ!」

「………………覚えてない」

「は?」

「………………深酒して、酔っ払っちまって覚えてない」

「…………まじかよ」


 ジョージとレナードがあきれ顔で声を重ねた。「決めたことは必ず最後までやり遂げる男」というのが、仲間たちのアルフレッドへの評価であった。そんな男の思いがけない失態に、面食らった様子をみせた。


「確かにやったのか?」

 ウィリアムに問われて、アルフレッドは首を縦にふった。

「ああ」

「どうやって証明するんだ?」

 アルフレッドは仲間の顔を見まわすと、観念して息を吐いた。

「……ついてこいよ」



 アルフレッドは白鹿亭を出ると、笛を一回吹いた。まもなく四輪辻馬車が、通りの向こうからやってきた。六人の男たちは肩を寄せあって(当然座りきれず、アルフレッドとウィリアムは屋根に飛び乗った)、アルフレッドが低い声で、御者に行き先を告げた。


「……ホワイトチャペル」


 ジョージが目を輝かせて、頭上をあおいだ。

「おお! 僕たちを娼館に連れてってくれるのか? そりゃいいや!」

 憮然とした顔で、彼はジョージを見下ろした。



 ロンドン病院の近くで辻馬車が停まった。アルフレッドは黙々と歩き、仲間たちはきょろきょろと周囲を見まわしている。娼館の玄関に立ち、扉を数回たたいた。まもなく、痩せた子どもが、おずおずと扉から顔をのぞかせた。


「サラはいるか?」

「……サラねぇさんですか。ちょっと待ってください」

 ぱたぱたと子どもが扉の奥に駆けていき、ほどなくしてサラが姿を見せた。

「おやまあ、どうしたんだい? 先週来てくれたばかりだろ? あそこのひと塊の男たちは、あんたの例のお仲間かい?」

「ああ、そうだ」

「なんだい。わざわざ、客を紹介しに来てくれたのかい?」

「……いや」


 言いよどむ彼の横から、ジョージがひょいと顔をだした。


「はじめまして、サラ。僕はジョージ。アルフレッドの友人です。実は僕たち、あなたにちょっと確認したいことがあるんです」

「へえ、なんだい?」

 アルフレッドは髪をかき上げて、ため息を漏らした。

「僕ら、賭けをしたんです。イーストエンドの娼婦とお近づきになれた奴が勝者で、このアルフレッドが見事勝ったってわけなんです。その証拠に、僕たちに体験談を聞かせてくれる約束だったんですよ」

「……なるほど、ねぇ」


 サラは眉を落として、ぽつりと呟いた。

 それは一瞬のことで、すぐに顔を上げて軽快に答えた。


「それで? なにを確かめたいって?」

「それがアルフレッドの奴、酒を飲みすぎて、なに一つ覚えてないって言うんです」

「…………へえ?」

 耳を疑うように、サラは彼へと視線をむけた。

 アルフレッドはきまり悪そうに、目をそらした。

「だから、こうして確かめに来たってわけなんです。どうです、サラ? こいつはちゃんと、あなたと夜を共にしたんでしょうね?」

 サラは愉しそうに口の端を上げた。

「ああ、あたしが保証するよ。こいつは…………確かに泥酔してたけど、ちゃあんと料金分は愉しんで帰ったよ」

「そうか! じゃあアルフレッド、やっぱり賭けはおまえの勝ちだな!」


 ジョージは彼と目をあわせ、にやりと笑った。

 それからサラに視線を移して、もごもごと口ごもった。


「……あの、ところでその……ここにきたら、僕らもあなたと遊べるのかな?」

「ああ、もちろんさ。いつでも大歓迎だよ」

 にっこりと笑うサラに、ジョージが顔を赤くする。

 その横からレナードが顔をのぞかせた。

「あ、あのオレ、レナードって言います」

「そう。よろしく、レナード」


 アルフレッドは、仲間たちの背中をぎゅうぎゅうと押しやって、辻馬車のなかに放りこんだ。しかめっ面のまま踵をかえし、にこにこと笑うサラに尋ねた。


「……ほんとに、あいつらと寝るつもりか」

「ああ。あんなに客候補を連れてきてくれるなんて、ありがたいねえ」

 サラは一縷の隙もない笑みをうかべた。

 アルフレッドは、彼女の耳元にささやいた。

「………………おれの女になれよ」

 言い終えるやいなや、アルフレッドはうめき声を上げた。

 サラが彼の左耳に、容赦なく嚙みついたのだ。

「おまえっ……な……なにをっ……」

「五シリング払ってる間は、ちゃあんとあんたの女だよ」

 目の前に、花が咲きほこるような笑顔があった。



 アルフレッドが辻馬車に戻ると、すかさずジョージが声をかけた。

「サラはなにか言ってたかい?」

「…………ああ。おまえらいつでも遊びに来いってさ」

「ほんとか! うわぁ、楽しみだなぁ。しかしサラはきれいな女だな! おまえもよく見つけたもんだよ。でもまあ、イーストエンドの女に対する見解は、間違ってなかったってわけだよな、うん」

「…………まあそうだな」

「ところでアルフレッド、ほんとに僕ら、サラの客になってもいいのかい?」

「…………ああ」

 アルフレッドは声を絞りだした。

「…………あいつはいい女だぜ。やらねぇなんてもったいない。せいぜい楽しむがいいさ」


 隣に座ったウィリアムが、訝しむように耳打ちした。


「本心か?」


 雲間から見え隠れする月をあおいで、アルフレッドは投げやりにうなずいた。

 どうせ添い遂げることができない女だ。恋だとか、愛だとか。叶わない望みなら、心の底の本音なんて絶対に誰にも言うもんか。捨て鉢にそんなことを思いながら、彼は左耳に手をやった。ぬるりと液体が付着する。その指を濡らしたものは、彼の血ではなく彼女の透明な唾液だった。

 アルフレッドは指を舐めた。あの夜のサラの味がした。

■長編小説:第一章・3話(サラ)、6話(アルフレッド)より登場■

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