客と娼婦の話(下)
サラに案内されたのは、狭いが小ざっぱりとした部屋だった。シーツは糊がきいてぴんと張りがあり、カーテンも古ぼけてはいるが破れもカビも見当たらない。紳士の客がいるというのも、どうやらはったりではないようだ。虫が這い出すようなベッドを覚悟していたアルフレッドは、居心地のよい調度に顔をほころばせた。サラは戸棚からワインを取り出し、グラスに注いで彼に渡した。
「ワインなんて久しぶりだ。なかなか豪勢だな」
「なぁに、ただの安物さ。紳士のなかには、自分でトカイワインなんかを持ってくる御方もいるよ」
手に持ったグラスを傾けて、サラは黄金色の液体を口に含ませた。
「あんたは普段なにをしてるんだい?」
「コヴェントガーデン市場で働いてんだ。ディクソンていう花屋にいる」
「へえ、ディクソンの名前は聞いたことがあるよ。有名な店じゃないか」
アルフレッドは嬉しくなり、子どものように笑った。
「十二の歳から働いて、今では常勤なんだ」
「すごいじゃないか。常勤になるのは難しいんだろ。あんたは優秀なんだね」
「いや、たまたま運がよかっただけだ。十一のとき市場に盗みに入ったら、その店のガキに見つかっちまったんだ。そいつは内緒にしてくれたうえ、ディクソンを紹介してくれたのさ」
「へえ、いい奴だね」
「ああ。ウィリアムっていうんだ。おれの親友で市場仲間のひとりさ。あいつらは、おれがドルリー・レーン育ちだなんて気にしない。いい奴らだよ」
サラは楽しそうに話を聞いてくれた。それが商売だとは分かっていても、アルフレッドはもっと自分のことを知ってもらいたくなった。
「おれは八人兄弟の一番上なんだ。親父は死んじまって、二番目の親父もお袋が病気になった途端にとんずらしちまった。一番下のチビがまだ六つのガキだから、あいつがあと数年して独り立ちすれば、ようやく身を固められそうだ」
「ふうん、いい仲の女がいるのかい?」
「いや、今はいねぇ。でも結婚するなら、金を持ってる女にするって決めてんだ。牧師の娘とか、頼れる親戚の多いメイドとか。おれが事故や病気で死んじまっても、食うに困らない女がいい。だってよ。もし金や頼れる親戚のねぇ女と結婚して、万が一のことがあれば、共倒れになっちまうだろ」
「そうだねえ。じゃ、あたしなんざ、間違ってもあんたとは結婚できないね」
サラの言葉に、アルフレッドは息をのんだ。そりゃそうだ。イーストエンドの娼婦と結婚する気なんてさらさらない。そう思っていたはずなのに、彼の口からこぼれたのは別の言葉だった。
「……おまえは、それなりに金を貯めてそうだけど」
「ここは清潔なぶん、しっかり経費が引かれてるのさ。ま、路上で働くより実入りがいいし、なにより危険が少ないから、おかみさんに不満はないけどね。それにあたしは親も死んじまったし、兄さんたちはずっと昔に家を飛び出してそれきりさ」
「そうかい…………そりゃ残念だ」
サラは笑い声を上げた。
「残念だって? あたしの境遇なんざ、あんたにゃなんの関係もないだろう? まさか本気で結婚するつもりでもあるまいし」
「あ……ああ、まあそうだ」
「ほら、もう一杯ワインを飲むかい?」
「いや、もういらねぇ。泥酔したら、せっかく話したことを忘れちまいそうだ」
「そう。そんなに話がしたいなら、あたしの生い立ちから聞かせてやろうか?」
冗談めかして笑うサラの吐息は、甘い葡萄の香りがした。蝋燭の火がちらちらと唇に光を映して、白い胸元が若いモスローズのように染まっている。ワインで潤んだまなざしから目をそらし、アルフレッドは切羽詰まった面持ちで首をふった。
「いや、いい」
彼女の笑みに、わずかに愁いが含まれた。
「はは、そうだねえ。娼婦の身の上話なんざ、興味もないさね」
「いや、おまえの身の上話なら興味があるぞ」
「え?」
「……でもとりあえず、もう話は後でもいいか?」
サラは目を丸くした後、アルフレッドの濃い金髪から大型犬のような茶色の瞳、形のいい首筋から鎖骨へと、順に視線を下げていき、愉しそうに口の端を上げた。
「そうだね。いまは話じゃなくて……もっと、別のことをしようか」
日曜日の朝、陽が屋根高くのぼっても、アルフレッドはなかなか部屋を出ようとしなかった。しまいには、娼館のおかみから出入り禁止を言い渡されそうになり、追加の半クラウンを支払って難をのがれた。
◆
十二月の最初の土曜日、白鹿亭のテーブルを囲み、仲間たちは冷えた指先をホットジンで温めていた。ウィリアムは一ポンド金貨を取り出すと、とん、とテーブルに置いた。
「例の賭けだが、俺は負けを認めよう」
ジョージ、フランシス、レナード、ホラスたちが、彼にならうように金貨を置いていく。
「僕も結局、イーストエンドに行く機会がなかったよ。忙しくてね。いやぁ、残念だ」
「……ぼくも負けだ。そもそも女は、気難しくて苦手なんだ」
「それも言うなら、おまえもたいがい気難しい奴だと思うがな、フランシス。ま、いいや。オレも負けだ。なに、親父がリウマチで寝こまなければ、きっと勝てたと思うんだがなぁ!」
「ボクも負けだ。でもいいんだ。リヴァプールの従姉妹は、かわいい子なんだ」
五人の男たちの視線が、アルフレッドに集まった。彼は不敵な笑みをうかべた。
「よし。じゃあ、おれのひとり勝ちだな。この五ポンドはもらってくぜ」
「おおっ、アルフレッド! おまえなら、きっとやってくれるって信じてたぜ! それで、どうなんだ? どんな女だ?」
「ホワイトチャペルの娼館の女だ。名前はサラ。赤毛で美人だ」
「へえ! その女はどんな肌でどんな声だ? おまえはどうやって喜ばせたんだ? さあ、もったいぶらずに、オレたちに話して聞かせろよ!」
「………………覚えてない」
「は?」
「………………深酒して、酔っ払っちまって覚えてない」
「…………まじかよ」
ジョージとレナードがあきれ顔で声を重ねた。「決めたことは必ず最後までやり遂げる男」というのが、仲間たちのアルフレッドへの評価であった。そんな男の思いがけない失態に、面食らった様子をみせた。
「確かにやったのか?」
ウィリアムに問われて、アルフレッドは首を縦にふった。
「ああ」
「どうやって証明するんだ?」
アルフレッドは仲間の顔を見まわすと、観念して息を吐いた。
「……ついてこいよ」
◆
アルフレッドは白鹿亭を出ると、笛を一回吹いた。まもなく四輪辻馬車が、通りの向こうからやってきた。六人の男たちは肩を寄せあって(当然座りきれず、アルフレッドとウィリアムは屋根に飛び乗った)、アルフレッドが低い声で、御者に行き先を告げた。
「……ホワイトチャペル」
ジョージが目を輝かせて、頭上をあおいだ。
「おお! 僕たちを娼館に連れてってくれるのか? そりゃいいや!」
憮然とした顔で、彼はジョージを見下ろした。
ロンドン病院の近くで辻馬車が停まった。アルフレッドは黙々と歩き、仲間たちはきょろきょろと周囲を見まわしている。娼館の玄関に立ち、扉を数回たたいた。まもなく、痩せた子どもが、おずおずと扉から顔をのぞかせた。
「サラはいるか?」
「……サラねぇさんですか。ちょっと待ってください」
ぱたぱたと子どもが扉の奥に駆けていき、ほどなくしてサラが姿を見せた。
「おやまあ、どうしたんだい? 先週来てくれたばかりだろ? あそこのひと塊の男たちは、あんたの例のお仲間かい?」
「ああ、そうだ」
「なんだい。わざわざ、客を紹介しに来てくれたのかい?」
「……いや」
言いよどむ彼の横から、ジョージがひょいと顔をだした。
「はじめまして、サラ。僕はジョージ。アルフレッドの友人です。実は僕たち、あなたにちょっと確認したいことがあるんです」
「へえ、なんだい?」
アルフレッドは髪をかき上げて、ため息を漏らした。
「僕ら、賭けをしたんです。イーストエンドの娼婦とお近づきになれた奴が勝者で、このアルフレッドが見事勝ったってわけなんです。その証拠に、僕たちに体験談を聞かせてくれる約束だったんですよ」
「……なるほど、ねぇ」
サラは眉を落として、ぽつりと呟いた。
それは一瞬のことで、すぐに顔を上げて軽快に答えた。
「それで? なにを確かめたいって?」
「それがアルフレッドの奴、酒を飲みすぎて、なに一つ覚えてないって言うんです」
「…………へえ?」
耳を疑うように、サラは彼へと視線をむけた。
アルフレッドはきまり悪そうに、目をそらした。
「だから、こうして確かめに来たってわけなんです。どうです、サラ? こいつはちゃんと、あなたと夜を共にしたんでしょうね?」
サラは愉しそうに口の端を上げた。
「ああ、あたしが保証するよ。こいつは…………確かに泥酔してたけど、ちゃあんと料金分は愉しんで帰ったよ」
「そうか! じゃあアルフレッド、やっぱり賭けはおまえの勝ちだな!」
ジョージは彼と目をあわせ、にやりと笑った。
それからサラに視線を移して、もごもごと口ごもった。
「……あの、ところでその……ここにきたら、僕らもあなたと遊べるのかな?」
「ああ、もちろんさ。いつでも大歓迎だよ」
にっこりと笑うサラに、ジョージが顔を赤くする。
その横からレナードが顔をのぞかせた。
「あ、あのオレ、レナードって言います」
「そう。よろしく、レナード」
アルフレッドは、仲間たちの背中をぎゅうぎゅうと押しやって、辻馬車のなかに放りこんだ。しかめっ面のまま踵をかえし、にこにこと笑うサラに尋ねた。
「……ほんとに、あいつらと寝るつもりか」
「ああ。あんなに客候補を連れてきてくれるなんて、ありがたいねえ」
サラは一縷の隙もない笑みをうかべた。
アルフレッドは、彼女の耳元にささやいた。
「………………おれの女になれよ」
言い終えるやいなや、アルフレッドはうめき声を上げた。
サラが彼の左耳に、容赦なく嚙みついたのだ。
「おまえっ……な……なにをっ……」
「五シリング払ってる間は、ちゃあんとあんたの女だよ」
目の前に、花が咲きほこるような笑顔があった。
◆
アルフレッドが辻馬車に戻ると、すかさずジョージが声をかけた。
「サラはなにか言ってたかい?」
「…………ああ。おまえらいつでも遊びに来いってさ」
「ほんとか! うわぁ、楽しみだなぁ。しかしサラはきれいな女だな! おまえもよく見つけたもんだよ。でもまあ、イーストエンドの女に対する見解は、間違ってなかったってわけだよな、うん」
「…………まあそうだな」
「ところでアルフレッド、ほんとに僕ら、サラの客になってもいいのかい?」
「…………ああ」
アルフレッドは声を絞りだした。
「…………あいつはいい女だぜ。やらねぇなんてもったいない。せいぜい楽しむがいいさ」
隣に座ったウィリアムが、訝しむように耳打ちした。
「本心か?」
雲間から見え隠れする月をあおいで、アルフレッドは投げやりにうなずいた。
どうせ添い遂げることができない女だ。恋だとか、愛だとか。叶わない望みなら、心の底の本音なんて絶対に誰にも言うもんか。捨て鉢にそんなことを思いながら、彼は左耳に手をやった。ぬるりと液体が付着する。その指を濡らしたものは、彼の血ではなく彼女の透明な唾液だった。
アルフレッドは指を舐めた。あの夜のサラの味がした。
■長編小説:第一章・3話(サラ)、6話(アルフレッド)より登場■