客と娼婦の話(上)
白鹿亭は、フリート・ストリートから、テムズ川にむかう途中の路地裏にある。ほの暗い店の奥では、キングズ・カレッジやバークベック・カレッジの教授たちが、常連となって議論に花を咲かせている。一方で、店の入口側は大衆酒場で、コヴェントガーデン市場の男たちのたまり場になっていた。
夜の裏通りに、四角い窓の灯りが浮かびあがる。扉の先の陽気なざわめきに、吸い寄せられるように男が入っていく。彼はカウンターでビールを受け取り、その向かいの馴染みのテーブルに近づいた。聞き慣れたジョージの声が、テーブルを囲む男たちの群れから突きあがる。
「つまり、僕たちは、人生の半分を損してるってことだ!」
アルフレッドは空いた椅子に腰を下ろして、隣の席のウィリアムに耳打ちした。
「で、奴はなんの演説を打ってるんだ?」
「俺たちは女の半分を知らないってさ」
ウィリアムは半ば呆れ、半ば面白がっている様子で、彼にささやき返した。
「考えてもみろよ! 僕たちが知り合う女ときたら、ウェストエンドの女ばかりだ。ああ、もちろん彼女たちはかわいいさ。でもどうだ? このロンドンの東側にはまだ女がたんといるんだぜ。それを僕たちは知らないときてる。なぜって? イーストエンドに足を踏み入れたことがないからだ。なあ、相棒!」
彼が仲間のひとりに呼びかけた。テーブルを囲む六人の男のうち、最もふくよかな男がハンカチで汗をふく。
「でもねぇ、ジョージ。ボクぁやっぱり、イーストエンドはちょっと怖いよ」
ジョージは芝居がかった様子で、その鼻先に指をふった。
「いいか、ホラス。僕たちコヴェントガーデン市場の男はたくましいんだ。おまえだって、キャベツやグリーンピースの目利きにかけては、ちょっとしたもんだろ。もっと胸を張れよ。ビリングズゲイトやスミスフィールドの奴らにだって、負けちゃいねぇんだから」
「じゃあどうしろってんだ? ジョージ」
男たちのなかで、一番大柄な男が声を張り上げた。「待ってました」と言わんばかりに、ジョージが白い歯を見せた。
「よく言った、レナード! つまりだ。僕が言いたいのは、僕たちは、イーストエンドの女を知らなきゃだめだ、ってことさ!」
「……具体的には?」
静かにジンを飲んでいたフランシスが、表情にとぼしい顔でぼそりと呟いた。
「うーん、うーん……そうだな。例えば、だ。イーストエンドの娼婦と、お近づきになるってのはどうだ?」
「一発やるってことか?」
レナードがにやりと笑った。
「はは、まあそうだ。どうだ? みんな賭けをしないか?」
話半分に聞き流していたアルフレッドは、賭け、という言葉に耳がぴくりと動く。隣に座るウィリアムが、口の端を上げて応じた。
「どんな賭けだ、ジョージ?」
「うーん…………よし、こんなのはどうだ? 僕たち六人のうち、イーストエンドの娼婦とやった奴に、やらなかった奴が一ポンド払うんだ」
「乗った」
アルフレッドは即答した。
「よしきた、さすがアルフレッドだ! みんなはどうだ? 異存はないか?」
「……女とやったとして、一体どうやって仲間に証明するんだ?」
フランシスの疑問に、ジョージが目を閉じた。
「うーん……そうだな。ええと……」
「その女の人に、髪の毛をひと房分けてもらう、ってのはどうだい?」
ホラスの答えに、フランシスが首を振る。
「……おまえの妹の髪をもらったって、分かりゃしないぜ」
「じゃあ、サインをもらったら?」
ウィリアムの提案を、レナードが却下した。
「それなら、おまえのお袋さんのサインだって偽造できちまう」
「うーん…………そうだなぁ。ええとだな…………」
「こんなのはどうだ? 勝った奴は、自分の体験を他の奴らに披露するんだ。そうすりゃ勝った奴の懐には金が入るし、負けた奴はイーストエンドの女の話が楽しめる。勝っても負けても、互いに益があるってわけさ」
「アルフレッド、それは名案だ!」
ジョージは嬉しそうにテーブルを叩き、彼の言葉をウィリアムが引き取った。
「じゃあ、イーストエンドの娼婦とやった奴が、賭けの勝者だ。勝った奴が複数いれば賭け金は山分け、もし俺たち全員が勝てば、みんなでその武勇伝を披露する。これでいいな?」
「よーし、じゃぁ期限は今月末までだ! みんな健闘を祈る!」
◆
十一月の第三土曜日、白鹿亭ではいつものように、仲間たちがわいわいと盛り上がっていた。オーク板のテーブルを指先でリズムよく叩きながら、アルフレッドは開口一番に問いかけた。
「で、おまえたち。例の賭けの首尾はどうだ?」
「いやぁ、ボクはリヴァプールから、従姉妹が遊びにきててねぇ。ちょっとなかなか時間が取れないんだ」
ホラスが照れたように頭をかいた。
「僕も仕事が立てこんじまって、どうにも予定が見通せないな」
ジョージが笑いながら肩をすぼめた。予想どおりの反応に、アルフレッドは目を細めた。
コヴェントガーデン市場で働く彼らは、週末の夜、テムズ川にほど近いこの白鹿亭に集うことが習慣となっていた。ジョージが先陣を切って軽口を叩き、他の仲間がやんやとはやし立てる。それは一週間の労働を終えた彼らにとって、よい気晴らしのひとときだった。賭け事もしばしば行われたが、それは賭けそのものよりも、話に興じることが仲間内の楽しみだった。ほとんどの場合、実行に移されるかどうかは二の次だ。しかし今回は、ひとり一ポンド、五人で五ポンド。女がらみのせいか、常より酒が入っていたせいか、破格の掛け金だった。アルフレッドのひとり勝ちなら、仕事の稼ぎのおよそ一ヶ月分だ。
「悪くねぇ」
不敵な笑みを浮かべて、彼は仲間たちを見渡した。
◆
深夜をまわる手前で仲間たちは家路についた。薄暗いドルリー・レーンのぬかるんだ道を、アルフレッドはひとり歩いていた。酔っ払いが粉の浮いたレンガの壁にもたれ、安物のジンをあおっている。足どりがおぼつかない女が、すれ違いざまに肩をかすめた。
「よお。あいかわらず景気が悪そうだな」
「全くだよ。誰ひとり客なんて掴まりゃしない。今夜はおまんまも食い上げさぁ。もう朝からなんにも口にしてないってのに」
「ほらよ。これで景気づけに、パイとスープでも腹に入れてこいよ」
「いつもすまないねぇ、アルフレッド。あんたなら、いつでもタダでやらせてやるのに」
「いらねぇよ。ほら、とっととパブにでも寄ってきな」
四ペンスを握りしめて、女はふらふらと通りの先へ消えていった。アルフレッドは、この廃墟のような界隈の下宿で生まれ育った。通りには、たった三、四ペンスの小銭で男と寝るような、貧しい女があふれている。ウェストエンドといえども、その角をひとつ曲がり路地をひとつ入れば、貧困は蔓のようにその手足を地面に這わせていた。イーストエンドと聞いても、彼はまるで怯まなかった。
「……要は街の一角がスラムか、街全体がスラムか、ってだけの違いだろ?」
アルフレッドは吐き捨てるように独り言ちた。
◆
翌週の土曜日、白鹿亭に向かう代わりに、アルフレッドは地下鉄でアルドゲイト駅にむかった。ホワイトチャペルの通りに出ると、女たちが痩せた肩に破れたショールを巻きつけて、彼をじろりと睨んでくる。頬はこけて蒼白く、抱くよりも食わせてやりたい有様だった。
(……だから貧民街の女は嫌なんだ。抱くといったら、楽しむよりも罪悪感しか湧いてきやしねぇ)
そうはいっても、五ポンドの大金は諦めるには惜しかった。育ち盛りの弟たちにたらふく食わせてやれるだろうし、母親にもいい薬を買ってやれるだろう。せめて骨と皮だけじゃない、できるだけ健康そうな女はいないかと、彼は通りに目を走らせた。あてどもなく歩いていると、ロンドン病院を過ぎたあたりで、煙草をくゆらすひとりの女が目についた。
軒先のガス灯に照らされて、女の髪は赤々と燃えるようだった。美しい灰色の瞳が静かに夜空を見上げている。アルフレッドは言葉をなくして、食い入るように女を眺めた。これまで見たすべての女たちが霞むほど、光をまとう彼女の輪郭に目を奪われる。視線に気づいて、女はアルフレッドに目をむけた。
「なんだい、あんた。見かけない顔だね」
「ああ。ストランドのほうから来たんだ。おまえは、なにをしてるんだ?」
「あたし? 今夜くるはずだった客が、腹を下したとかでキャンセルになってね。こうして代わりの客を探してるのさ」
「おまえは娼婦なのか?」
「ああ、そうだよ」
「いくらだ?」
「五シリング」
彼は驚きの声を上げた。
「このへんの相場より、ずいぶん高いな」
「うちは中流階級の男たちも来る娼館だからね。ときには上流階級の紳士様が、お忍びでやってくることだってあるよ。イーストエンドの女とやりたい物好きな殿方が、安心して遊べる場所ってわけさ」
「へえ。おまえはここに長くいるのか?」
「ああ、十六の歳から働き始めて、もう二年が過ぎたよ。うちには小さい娘もいないし、部屋に絨毯を敷き詰めて防音にする必要もない。金切り声をあげるような、危険な遊びはご法度ってわけさ。通りの向こうにゃ警察もいるからね」
「それは願ったりだ。今夜はおれが一晩買おう。アルフレッドだ」
「あたしはサラ。よろしく、アルフレッド」
踵で煙草をもみ消して、サラはにっこりと笑った。