夢は大切ですよ
結局なにも行動を起こせないまま今日を迎えてしまった。
いよいよハーヴェンド侯爵との顔合わせの日だ。
遅めの時間からとはいえ支度には時間がかかる。
既にクローゼットから取り出して準備しておいた赤いドレスを恨めしく見つめた。
「そんなに睨んでも何も起こらないわよ。それよりもそろそろ支度をしないといけないわ。」
その声に後ろに振り向くと、椅子に腰掛けていたアリア様が微笑みながら私を見ていた。
自分の運命を受け入れた彼女は、それを憎らしく思ってしまうほど大人びてしまった。
「あなたと過ごせる残りの時間も長くはないわ。その間だけでも今まで通りにしてちょうだい。」
ほんのりと赤みを帯びた光が、儚く笑うアリア様を寂しげに照らす。
「…アリア様、私はまだ認められません。なぜアリア様が望まぬ相手と結婚なんてしないといけないのですか。」
───子供みたいだ。
一番辛いであろうアリア様は文句も言わずに耐えているというのに。
ギリッと唇を噛み締めると少しだけ血の味がした。
「セレナ、貴族というのは時に自分の知らない相手とも結婚しなければならないことがあるのよ。恋愛結婚なんて、それこそ稀だわ。」
貴族にとっては政略結婚が当たり前であることは分かっている。
だが、アリア様の場合はその相手が悪すぎるのだ。
ハーヴェンド侯爵に嫁ぐなど殺されにいくようなものだろう。
「大丈夫よ、私はセレンディア家の一族なんですもの。すぐには死なないわ。」
その言葉にハッとして呆然とアリア様を見つめた。
ハーヴェンド侯爵の噂を知っていたのか。
それでもなお、そのような顔をされるのか。
「………私は、アリア様には幸せになって欲しいのです。アリア様の心から笑う穏やかな笑顔が好きなのです。……ですから、そのように苦しそうな顔で笑わないでください。」
私の言葉にアリア様は困った顔を見せると、窓のそばに立ち外の景色を眺めた。
「ねえ、セレナ。前にあなたから夢の話を聞いたでしょう?」
それは、数週間前に何気なく話した"普通に生きて幸せに暮らしたい"という私の平凡な夢の話だろうか。
だが、それが今なんの関係があるのだろう。
「私もね、夢について考えてみたの。自分が何をしたいかなんて今まで考えたことも無かったけれど、一つだけあったわ。」
「私、海の見える草原で思いきり眠ってみたいわ。青空の下、草のベッドに寝転んで潮風を感じながら眠るのは、さぞ気持ちがいいでしょうね。」
……自然が好きなアリア様らしい、慎ましい夢だ。
だが、そんな小さな夢さえも叶えられぬことを知っているのか、遠くを見つめる姿は悲しみに包まれていた。
それを見て、決心する。
私のこれからの人生は、この人を幸せにするためだけに使おうと。
ただの侍女からは大きく外れた思いではあるが、そうしたいと思ってしまったのだから仕方ない。
「アリア様、私と共にここから逃げましょう。この国を離れてどこか遠くの場所へ行き、その夢を叶えましょう。」
突然の提案にアリア様は目を丸くして驚く。
先ほどまでは死んだような顔をしていた者が、急に無茶苦茶なことを言い出したのだから当然だろう。
「…無理よ。たとえ逃げることができたとしても、私とあなたではセレンディア家の追っ手にすぐ捕まってしまうわ。変なことを言うのは止めてちょうだい。」
根拠の無い希望に少し苛立った様子のアリア様が答える。
それでも、ここで諦めることはできない。
自分でも気付かぬうちに大切な人となってしまったあなたを、みすみす失うわけにはいかないのだ。
「アリア様、初めて森へ行った日のことを覚えていますか?…あの時、アリア様は雲が羨ましいとおっしゃいました。あなたが何にも縛られず自由に空を漂う雲になりたいと言うのならば、私はあなたの風となりましょう。風となり、あなたの行きたい場所ならばどこまでだって連れていきます。…だからお願いです。」
「私にアリア様の望みを聞かせてください。」
ぽろぽろと涙を零す彼女はこんな時でも美しいのかと頭の片隅でぼんやりと思う。
「…逃げたことが知られたら、あなただって殺されてしまうのよ。」
「それも覚悟の上です。既に私の全てをアリア様に捧げると誓っております。」
「…逃亡者になってしまったら、あなたの望む普通の生活は送れなくなるわ。」
「それでも構いません。アリア様のおそばに居られるのならば、それだけで十分過ぎるほど幸せです。」
「…ろくに外出したことの無い私は、足手まといにしかならないわよ。」
「問題ありません。なにがあろうと私がなんとかしてみせます。」
アリア様の涙を指で拭い、その瞳を見つめる。
「アリア様がなんと言おうと私の心は変わりません。…大丈夫です、私を信じて。アリア様の望みを教えてください。」
茜色の光を背にアリア様は今にも消えそうな声で静かに呟いた。
「……ずっと、ここから離れたかったの。……どこか遠くの場所で、何にも縛られずに生きてみたいわ。」
瞳いっぱいに涙を浮かべ、縋るような目でこちらを見るアリア様へ微笑みかける。
「分かりました。その願いは私が必ず叶えます。…だから、もう泣かないでください。急いで逃走の準備をしないといけませんからね。」
「…これから逃亡者になるっていうのに、なんで少し嬉しそうなのよ…。」
自分の頬に手を当てると、確かに少しだけにやけていたようだ。
どうやら私はアリア様に頼ってもらえることがよっぽど嬉しいらしい。
「それよりももうすぐ夜になります。アリア様は動きやすい服装に着替えておいてください。私はできる限りの準備をしてきます。」
逃走を決行するのは、辺りが暗闇に包まれる前の薄暗いタイミングがいいだろう。
準備が出来次第、部屋の窓から抜け出して森の奥へと進もう。
居なくなったアリア様に対してセレンディア家がどれほどの執着を見せるかは分からないが、どうなろうと私はアリア様を守るだけだ。
小さく深呼吸をして気合いを入れる。
さあ、逃走劇の始まりだ。
「…セレナ。」
「?…なんでしょうか?」
「……ありがとう。」
「!!!」
耳を澄ませていなければ聞き逃してしまう程の小さな声で、ぽつりとアリア様が呟いた。
まだなにもしていないというのに、その言葉だけですべてが報われたような気になってしまいそうだ。
セレンディア家のことは大嫌いだが、アリア様と出会わせてくれたことだけは心から感謝しよう。